エリィ
ロサンゼルス、熱波の街、温暖な気候と様々な人種が入り乱れる世界、白人の数よりメキシカンの数が多い街、主導権の 取り合い、白人はいつだって上位になりたがる。数で負けても、それは変わらない。人間は全て平等と言った奴を殴りつけて やりたかった。
フリーウェイを走りながら片手で煙草を咥えた。ハンドルを片手で操作した。ラジオをつけた。渋滞の苛立ちを少しでも消したかった。英語の 歌声が車内に響いた。ジャズだった。男性シンガーが青春の空しさを歌っていた。ドラック、セックス、アルコールに ついて歌っていた。
「……」
見上げた。空を見た。大地をカラカラに乾かそうと太陽が浮かんでいた。どこの国に行っても空と太陽と雲があった。それだけが変わら なかった。空のように変わらないでいたいと思ったことがあった。変わらなくてはならなかった。変わらなければ生きていけなかった。
季節は冬になろうとしていた。最低気温は8℃、いくら暖かくても冬は寒い。手に息を吹きかけているエリィの顔が思い 浮かんだ。右折した。コンビニエンスストアの駐車場に停車した。
車から降りた。コンビ二に入った。店内を物色しながら 高級洗剤とチョコとホットドック二つとウィスキーを買った。店主の胡散臭い目が目に付いた。
なんでお前―――言いたいことは言わなくてもわかった。
ダウンタウンの貧民街までのドライブ、段々と薄汚れていく街並み、富の下には貧困がある。近くに華やかなハリウッドがあってもそれは 変わらなかった。
車から降りて薄汚れた街を歩いた。今は静かな街並みも夜になれば立ちんぼとネオンで埋め尽くされる。雑踏を歩く黒人と白人と 黄色人種、世界に三つある人種、どれもが違う生物に思えてくる。
昔は自分以外の人種を怖がった。怖がるということはナメられるということだと次第に理解した。骨格と筋肉の違う者達に 挑むには武道しかなかった。空手を教えてくれた師は日本人ではなく黒人だった。教師だと言っていた。教えは血反吐を吐くぐらい厳しかった。
ビルとビルの間の空虚な空き地、座り込んでいる影があった。その影に近寄った。声をかけた。
「エリィ」
「あっ、シュウイチ」
エリィはロザリオをいじくっていた。寂しい時にする合図だと理解していた。たまらなくなって笑顔を浮かべた。
「ほれ、プレゼントだ」
ホットドックと洗剤を渡した。エリィは一瞬驚いた顔をした。そしてすまなさそうな顔を浮かべた。
「悪いよ。いつも」
「悪くないんだ。俺が好きでやっていることだからな」
微笑んだ。エリィのショートカットの金髪をゆっくりと撫でた。色あせたシャツとジーパン、もっと上等な服を買ってやり たかった。エリィは受け取らないと思った。エリィはまだ顔を曇らせたままだった。
「ごめんね。シュウイチ」
「謝らなくていいんだ。エリィはもっと欲張りになっていいんだ。何か欲しいものはないか?」
「何もないよ」
「遠慮しないでくれ。なんでも用意してやる」
拳を握って見せた。微笑み続けた。そうしなければならないと思っていた。そうしなければいけなかった。だが、エリィは 首を横に振った。
「シュウイチが稼いだお金はシュウイチが使わないといけないんだよ。私が取っちゃったら神様に怒られちゃうよ」
「そんな神様、俺が殺してやるよ」
「ダメだよ。冗談でもそんなこと言っちゃ」
大きな目を険しくさせる。怒った仕草、子供の仕草、ほほえましかった。
「エリィ、エリィ……また、いつものこと、いいか」
胸からあふれ出る衝動を抑えきれず言った。エリィは怒った顔から一転、清らかに微笑んだ。
「いいよ。シュウイチの懺悔、聞いてあげる」
ひざまづいて自分の両手を固めた。神に祈りを捧げるポーズ――神になど言うつもりはなかった。
「俺はまた妻を騙したんだ。愛してるのに、騙したんだ」
告解――いつだって俺はエリィの前では無力だった。
胸のうちを明かした。全てをぶちまけた。俺のどす黒い欲望も、打算も、思っていることも、かつて味わった屈辱も、オウム のように繰り返す。エリィはいつだって微笑みながら頷いてくれた。
「俺は最低なんだ。暴力的で打算的でいつも劣等感を抱いて生きてるんだ」
「そんなことないよ」
「違う。違うんだ。事実、俺ははるかほど金を稼げない。誰もが俺に言うんだ。シュガーボーイって。女の世話になってる ヒモ野郎って。俺には何もないんだ。はるかに捨てられたら俺は破滅するんだ。それが怖くてしょうがないんだ」
とめどなく溢れる弱音、誰にも言えないことだった。エリィにしか言えないことだった。
「奥さんを愛してるならそんなこと気にしちゃいけないよ」
「この国に来たのは間違っていたんだ。だが、俺はこの国に来るしかなかったんだ。イヤだったんだ。だけど、はるかには それを言えなかったんだ。腰抜け野郎なんだ」
「それは奥さんを本当に愛してる証拠だよ」
「今ある仕事だって本当ははるかの手回しなんだ。俺は気づかないふりをしてるんだ。俺は呪縛されてるんだ。鎖でつながれたピエロなんだ。滑稽なダンスを踊り 続けてるんだ。エリィ、笑ってくれよ。俺をあざけってくれよ。頼む――」
エリィは首を振った。そして俺のために祈ってくれた。いつだって、ロザリオを手に持ち祈ってくれていた。救いだった。救われていた。
胸のしこりが取れる感触、欲望とそれにまつわる感情が押し流される感触、目をつむった。目を開けた。エリィの微笑む 顔が視界に入った。
「シュウイチ、落ち着いた?」
「ああ……すまない。情けない、よな……自分より十以上も歳の離れた女の子にこんなことを言うなんて」
「ごめんねシュウイチ、私がもっと大きければしっかり聞けてあげれたのに」
エリィ――声にならない声が口から出る。エリィは清らかだった。誰よりも純真だった。誰よりも美しい心を もっていた。神を愛していた。自分がどんな目にあっても神を愛していた。
嫉妬――目に見えないものに抱いた。
「いいんだ。俺が勝手にやってることなんだ。迷惑だったら言ってくれ。もう二度としない」
「迷惑なんかじゃないよ。私、もっとシュウイチに恩返ししたいよ」
「俺は何もしてない。たまに飯を持ってきてるだけだよ」
「ううん。シュウイチは私の頭をよく撫でてくれる。誰もそんなことしてくれないから」
エリィ――涙が出そうだった。親がいない小さなエリィ、いつだって独りで生きていた エリィ、誰よりもみじめに生きていたエリィ、気持ちはわからなかった。察することなどできなかった。だが、悲しい感情だけが胸の中を渦巻いている。
たまらなくなって抱きしめた。細い身体を抱きしめた。エリィの吐息が首筋にかかった。
「エリィ、頼む、俺と一緒に暮らしてくれ。頼むよエリィ」
いつも言う台詞。いつだって言い続ける台詞。
「ごめんね……シュウイチに迷惑かかってる」
「迷惑なんかじゃないんだ。俺がエリィを引き取ってやる。俺がずっと面倒を見てやる。俺が父親になってやる」
「ありがとうシュウイチ、でも、ごめんね」
俺の願い――いつもエリィに届かない。もどかしかった。たまらなく悔しかった。俺は無力だった。
「ロザンナはお前を撫でてくれないのか」
ロザンナ、売春婦のとりまとめ役、立ちんぼ達のリーダー、エリィを養っている。エリィの顔がほころんだ。
「ロザンナ優しいよ。私にご飯たまにくれるし、体調が悪い時はベッドを貸してくれるんだ」
たまに――話が違った。憎悪がこみあげてきた。怒りの炎が体中を駆け巡る。血が沸騰していた。怒りで 目がくらみそうになった。
切り裂いてやる――憎悪が誓いを立てさせる。
「シュウイチ、怖い顔だよ。ダメだよ。人を憎んじゃダメなんだよ。人を愛さないとダメなんだよ」
汝、隣人を愛せ――神の教え――エリィの口から聞かなければあざけり笑うはずの言葉だった。
「エリィは優しすぎるよ」
「シュウイチだって優しいよ」
「エリィにだけだ。俺は誰にも優しくない」
「だったら私に向ける優しさを他の人にもわけてあげて。それができるはずだよシュウイチには」
まっすぐな視線、穢れを知らない視線、護り続けるとガキの頃に誓った妹のさくらの顔が思い浮かんだ。エリィとダブった。エリィは さくらだった。さくらはエリィだった。
エリィはエリィだ――俺は思考回路を止めた。
夜になるまで息をひそめていた。エリィとチェスをして遊び、陽が落ちるまで楽しく語り続けた。別れ際、チョコを贈った。愛してると言った。 滅多にはるかにも言わない台詞だった。いつもエリィに言っている台詞だった。俺はエリィの父親になりたかった。なれなかった。
GTRに乗り込んだ。白いシャープな車、はるかからの誕生日プレゼント――秋一くん、これで女の子にモテるね。
ペットに上等な餌を与える感覚だと思った。だが、素直に喜んだ。それしか道はなかった。はるかは何でも買ってあげると 言い続けた。俺は何もいらないと答え続けた。だが、はるかは納得しなかった。
ダウンタウン――夕闇と共に立ちんぼ達が現われる。露出した肌と派手な格好に身を包み、派手なパフォーマンス で仕事に疲れきった男たちを誘い込む。
立ちんぼ達には縄張りがあった。それぞれのグループが境界線を決め合っていた。マフィアとつるむ立ちんぼ達もいた。縄張り は厳格な掟となっていた。
ロザンナの活動場所であろうストリートを見張り続けた。車をゆっくりと走らせつつターンを繰り返し、五分おきに左右に視線を飛ばした。怒りが 何かを突き動かしていた。
売女が調子にのりやがって殺してやる――エリィの言葉は別の世界の言葉だった。俺の居る世界の言葉ではなかった。
唇を舐めた。からからに喉が渇いた。赤信号でペットボトルのミネラルウォーターを喉に流し込んだ。視界の隅、探していた 人影が見つかった。
車を移動させた。赤茶けた髪、革のパンツ、はちきれそうな胸の浮かび上がった薄く白いシャツ、ロザンナが手を伸ばしてポーズをとっていた。ウィンドを下げた。ロザンナの顔色が変わった。
「あら、シュウイチじゃない。どうしたの、またエリィに会いに来たの?」
すっとぼけているロザンナ、怒りの衝動を押さえつける作業で必死になった。
「ああ、さっき会ってきたよ。乗れよロザンナ」
「仕事中だし、デートならまたの機会にしてくれる?」
妖艶な笑み、男を誘う笑み、誘われたふりをした。
「いいぜ、いくらだよロザンナ」
「何時間かによるわ」
「一晩だよロザンナ」
「四百ドルよ」
安っぽい売女にしては法外な値段――腹は立たなかった。財布から百ドル札を四枚引き抜いた。ロザンナに 手渡した。ロザンナは満足そうに笑って助手席に乗り込んだ。
アクセルを踏み込んだ。香水の匂いが車内を充満する。バラと砂糖が混じったような匂いだった。
「やっぱり暖かいわね。車の中は」
「この季節は寒いか」
「寒いわよ。だから助かったわシュウイチ」
ウィンク、無視した。
寒さ――日本のカラカラに乾き突き刺すような寒さに比べれば大したことなかった。エリィ、寒空の中に独りだった。
710フリーウェイを疾走した。道路沿いの安っぽいモーテルに入った。フロントでチェックインして鍵を手に取った。前を 歩くロザンナの尻が揺れていた。立ちんぼの歩き方だった。欲望はこれっぽっちも沸かなかった。
ベッドに腰掛けてロザンナは靴とパンストを脱ぎ始めた。ジャケットをハンガーにかけた。トカレフを取り出した。背中に 隠した。
「貴方の相手をしたことないけど、変態じゃないでしょうね?」
「ああ、俺はノーマルだよ」
「良かったわ。いくら金払いが良くても変態だけは付き合いきれないから」
ロザンナ、俺に向かって微笑んできた。俺も微笑みながら銃口をロザンナに向けた。ロザンナは青ざめた。頬が痙攣して いた。目を大きく見開いていた。
「俺は言ったよな。金はやるからエリィをキチンと面倒みてやってくれって」
「み、見てるわ……誤解よシュウイチ、貴方、誤解してるわ」
気丈な答え、見知らぬ男に抱かれる売春婦、曲りなりでもストリートを生きてきた女。俺は大げさに首を振った。
「エリィは言ったぜ。たまにしか飯を食わせてもらってないって」
「ご、ごめんなさい。わ、私も忙しいから、あ、あの娘にも少しわがままなところあるから」
わがまま――エリィには関係のない言葉、デタラメだとすぐにわかった。
「ロザンナ……ああロザンナ、俺は悲しいよ。ここで君の脳みそをぶちまけることになるなんて思わなかった」
「シュ、シュウイチ、許して。それに貴方だって警察に――」
睨みつけた。ロザンナは震え上がった。
「FBIにも地元警察にも妻の知り合いがいるんだ――売女一人くたばっても俺には関係のない話だぜ」
あざけった。笑ってやった。ロザンナはこの世の終わりのような表情を浮かべた。
「お願い、許してシュウイチ、知らなかったの、そんなに貴方がエリィを大事にしてるなんて」
「オーケー、ロザンナ、俺のことはよくわかったかな?」
微笑んだ。ロザンナ、口元をひくつかせて笑った。
「シュ、シュウイチ、しゃ、しゃぶってあげるわ。何でもするから、何でもするから許して――」
「いいんだよロザンナ、そんなに怯えなくていいんだ」
ロザンナに近づいた。ひるんでいた。だが、軽く抱きしめた。耳元で囁いた。
「ただ、エリィにもう少し目を向けてやって欲しいんだ。わかるかいロザンナ、俺の願いを聞き届けてくれるかな。ほら、 君の大好物をあげよう」
ポケットから札束を取り出した。輪ゴムに束ねられた百ドル札、二千ドル、エリィのためならばこれっぽっちも惜しくはなかった。
ロザンナの目、欲望と恐怖で混ぜこぜになっていた。たたみをかけた。
「別に全部エリィのために使わなくてもいいんだ。自分のために使えばいい。ただ、もう少しエリィに優しくしてやってくれない かな?」
「わっ、わかったわシュウイチ――」
ロザンナ、渡された札束を凝視していた。
「それと、次はないからなロザンナ、同じミスを繰り返さないよな。学習能力はあるよなロザンナ。信じてるぜ」
優しい笑みを浮かべた。ロザンナは顔をあげた。そして引きつった笑顔を浮かべた。顔の筋肉は氷のように硬直していた
恐らく――消えるのは俺の方だった。悲しかった。エリィの顔が思い浮かんだ。さくらの顔が思い浮かんだ。誰かに 頼ろうとする俺の弱さが呪わしかった。
車を止めて外に出た。ポケットに手を突っ込みながら夜空を見上げた。真っ暗な世界があった。夜空に煌々と輝き、淡い光を放つ満月と星々があった。世界が どんなに汚れていても空は美しかった。