苦悩
エレヴィターから十メートル先の個室のネームプレート、HARUKA=YOSHINO、両脇の部屋と一際スペースのある部屋、ノックした。声が返ってきた。ドアを開けた。
図書館のような本棚の数、古風なアンティークディスク、ゴーギャンの絵画、赤い絨毯、白薔薇のドライフラワー、富と 名声で埋め尽くされた部屋。
「よぉ」
声をかけた。はるかは本棚の前を立ったまま本をむさぼるように読んでいた。俺に気づくと振り返ってきた。金髪碧眼、白衣、己の美しさを 自慢するかのようにツインテールを崩しさらさらの髪を無造作に流したのはいつの頃だっただろうか――思い出せやしなかった。
「もうディナー?」
「まだ昼だ」
「そう」
素っ気無い態度だった。そして本に視線を移した。態度は別に頭にこなかった。何かに没頭している時のはるかの態度だった。 知っていた。だからそれに慣れていた。それに慣れすぎていた。
「何か食べたいものあるか?」
「ん~……あんまりお腹すいてないかな」
「何か食べねぇと体に毒だぜ。体も成長しねぇ」
「私は十分成長したよ。このボディはちょっとした誇りなんだよ」
本を置き、腰に手をあてて自分の身体を自慢する。胸が揺れた。くびれを誇示した。はるかは成長した。年月がはるかを麗しい女 へと変化させた。
「俺は控えめな女が好きなんだぜ。そんなに魅惑的なポーズをとるなよ」
「大胆じゃないとダメなんだよ。この国の女性としては」
はるかは俺と違ってアメリカを愛していた――自分の好奇心を全て満足させてくれる豊潤な国と捉えていた。 それが呪わしかった。だが、口に出したことはなかった。エゴだと思っていた。事実その通りだった。
「秋一さんはどうしてここにきたの?」
「なんで妻の顔を見にきちゃいけないんだ?」
問いを問いで返した。目が細められてた。何かを疑っている目だった。笑みを浮かべた。はるかの前では理解ある良い夫だった。 それが崩れたことは一度たりともない。崩させない。それが愛し方だと本気で思っていた。
結婚――はるかの力を借りずにアメリカ国籍を手に入れるための手段、ちっぽけで薄汚いプライドに突き動かされた結果。だが、 後悔はなかった。
「仕事場だし、ここが好きなんだよ。友人もいる」
フレンド、白人の友達、クソ食らえだと思っていながらも口に出して付け加えた。
「友人……ね、デットヒートと仲良かったよね秋一くん」
デットヒート、スカルドの似合わない苗字、秋一くん、真剣な話か甘えたい時に言う言葉。
「デットヒート、気弱で大人しいから秋一くんと合わないのになんで付き合ってるの?」
探り――だが、はるかとはくぐった修羅場の数が違う。違いすぎる。すっとぼけた。
「自分にはないものをもってる奴を友人にするケースは統計的にも多いんだろう?」
「そうだけど……あの人、あんまり良くないからクビにしちゃおうかなぁ、って思ってたんだ」
冷酷な言葉、企業人としてなら一流に位置していた。はるかは研究者達の女王だった。この企業の心臓だった。誰も逆らう ことができない存在だった。
「研究成果があがってないのか?」
「う~ん、才能はあると思ってたんだけど、なかなか、良い物作ってくれないし、ムラがあるし、最近、自分の趣味の 研究してるみたいなんだ。多分だけど、無駄な薬品を仕入れてる」
「っで、クビにしちまうのか」
「そうだね、そうしよっかな」
まるで庭にある雑草を刈り取るかのように何気なく言った。はるかは正しかった。利益を追求する者はこの国では善人 だった。資本主義の王国、日本とは何もかもが違う。
「まいったな……」
悲しがるポーズ――はるかは眉をひそめた。
「あいつ、やっと、良い物が作れそうだ、ってさっき嬉しそうに言ってたんだが」
「それ、ホント?」
「俺が嘘を言ったことがあったか?」
「そうだね……うーん」
違った。何もかもが違った。嘘をついたことなど山ほどあった。ただ、どれもがバレていないだけだった。何もかも 表に出なければ全ては嘘のままになる。
はるかは盲目だった。未だ恋という熱病に侵されていた。年月が過ぎてもそれは変わらなかった。嬉しい反面、悲しかった。 俺は違った。全てを客観的に見ることができた。熱病から解き放たれている。冷静に愛することができた。冷静に、打算と 愛と欲望を混ぜ合わせることができた。
「それに、俺から友人を奪う気かはるか」
たたみかけた。はるかは怯んだ。滅多に見せない夫の微かな怒りに戸惑っている。それが例え見せ掛けだとしても。
「うん……ごめん、秋一くんがそう言うなら止めるよ」
腹の底から笑いがこみ上げてきた。笑うつもりはなかった。ただ物憂う顔を作った。
「いいのか……私情を挟まなくていいんだぞ」
「別に大してコストはかかってないし、デットヒートも頑張るようなら問題ないよ」
慰めの言葉――全ては計算づくだった。IQがいくら高くても人間は騙される。頭がいくら良くても経験は 手に入らない。
「悪いな、俺はお前に迷惑かけてばっかりだよ」
「そんなことないよ。秋一くんは私のためにここにいるじゃないか」
アメリカ――はるかが居なければいけない大地、だから俺はここに居るしかなかった。どんなに呪わしくても 嫌悪しても離れたいと願っても居るしかなかった。それしかなかった。それしか残されていなかった。
何も言わず、抱きしめた。強く存在を確かめるように抱きしめた。女の体臭、やわらかい肌とやわらかい筋肉の感触、はるかの腰から 弾力のある尻に手を下げた。欲望が全身を焼きつくしていた。抱かせろと伝えた。瞳を見つめた。潤んでいた。だが、はるかは首を横に振った。
「……用意、してないから」
「悪かった……な」
用意――避妊具、はるかは子供を作りたがらなかった。俺と研究を両立しようとしていた。俺には何も両立 できるものがなかった。はるかしかいなかった。欲望は消えうせた。代わりに真っ黒な炎が全身を焼き尽くした。充てのない憎悪だった。俺を 狂わせている憎悪だった。