幻想
残り一日――俺は形はなんであれアメリカを去る決心を固めた。五年も住んだ呪われた国から去るつもり だった。俺はもう生き疲れていた。冷静な思考が俺は明日のたれ死ぬと告げていた。灼熱の思考が全てを呪い殺せと 告げていた。
はるかの様子が見たくなって家に帰った。ファニーはいなかった。病院に担ぎこまれたと私服警官が言っていた。警官ははるかを護るために来ていた。俺を護るために来ているのではなかった。事実、俺に大した視線は飛んでこなかった。
俺の罪ははるかが全て不問にしていた。俺は何をしても自由だった。フリーウェイを滅茶苦茶にしても人間をぶっ殺しても はるかがそれを許した。
俺のアメリカの象徴――はるかである自由の女神は俺を自由にした。だが、俺を永遠のカゴの中の鳥にした。上等な餌を与えられて飼われつづけていた。俺は もがき続けていた。だが、それもあと一日で全て終わる。カゴの中の鳥は大空に飛び立つ、世界という危険な場所に自ら の身を投げ出す。
口元がだらしなく歪んだ。俺はトチ狂っていた。ずっとトチ狂っていた。それに気づかないふりをし続けていただけ だった。
俺の部屋に戻った。エリィが撃たれた部屋に戻った。破ったシーツと赤いしみはなくなっていた。涙が出そうになった。こらえた。涙は弱さの証拠だった。俺は 泣くわけにはいかなかった。エリィへ捧げる絶望の鎮魂歌を歌い続けなければならなかった。
毛布にくるまった。眠気はやっとこなかった。携帯が振動した。携帯の着信――さくらからだった。勢いよく 顔をあげてカレンダーを見た。赤いしるしがついていた。皮肉な運命もここまでくれば笑えなかった。
携帯を耳にあてた。
「もしもし、兄さん?元気?大丈夫?」
明るい声だった。俺のことを何も知らない声だった。エリィの声とダブった。俺はさっきの誓いを忘れた。俺は 涙を流してしまっていた。
「さくら……俺のこと、好きか」
エリィ――俺のことが好きなのか。
「えっ、突然、何言ってるのよ兄さん」
「答えてくれよさくら、頼むよ」
さくらは戸惑いながら押し黙った。俺の声が真剣なのを察していた。いつだって俺の心を察していた。初音島にいた時のことを少し だけ思い出した。
「好きだよ兄さん。大好き」
救い―――求めてやまなかった救いがそこにあった。俺は救われた。だが、まだ闇の中にいなければならなかった。 さくらはエリィだった。さくらはエリィではなかった。俺は幻想を見ていた。わかっていた。俺はエリィをさくらの代わりに しようとした。そして今、さくらをエリィの代わりにしようとしていた。
どちらも代わりがきくはずがなかった。どちらも俺にとって神聖なる者だった。俺はどうしようもなく愚かだった。
「そうか……俺も愛してるよ」
「えっ、いっ、いきなり何を言うんですかっ!」
「言わせてくれよさくら……これで最期なんだ。もうお前を愛していると言えないかもしれないんだ」
「どっ、どういうことですかっ」
目をつむった。言葉にするには勇気が必要だった。俺は身体の中にある最後の何かをかき集めなければならなかった。
「お前と過ごした日々は俺にとって最高に楽しい日々だった。ありがとな」
俺は携帯を切って窓の外に投げ捨てた。さくらとエリィ、どちらに言ったのかわからなかった。だが、俺はもう幻想と決別した。
真夜中――はるかが俺の部屋に現われた。
予想外だった。もう俺の元に来るはずがないと思っていた。全ては俺のせいだった。俺が俺のために全てを壊した。
「秋一くん……」
恐る恐る近づいてきた。何かを怖がっているかのようだった。
「怪我はないか。何もなかったのか」
「うん、大丈夫……」
すりよってきた。手が伸ばされた。俺の頬にはるかの手が触れた。撫でられた。優しく撫でられた。
「エリィちゃんのこと……悲しい?」
「言うな。俺はもう忘れた」
嘘っぱちだった――忘れられるはずがなかった。だが、はるかに幻想を見せなければならなかった。俺は 見なくて良くなった。だが、はるかには何かが必要だった。俺の罪の一つははるかを狂わせたことだった。
はるかは複雑な顔つきになった。心情、喜び、不安、驚き、悲哀、愛情、心から湧き上がってくる感情が混ぜこぜに なっているのがわかった。
俺ははるかに手を伸ばした。肩を掴んだ。
「来週辺りに、日本に帰ろうぜはるか。もうそろそろ春が来る」
戸惑った顔のはるか、微笑んだ。優しい顔を作りあげた。
「うん、休暇。取るね」
「ずっと俺達は旅行に行っていなかった。ずっと日本に行かなかった。そろそろ恋しいだろ?」
「うん……そうだね。行こうか秋一くん」
「ああ、故郷の高校に行こう。満開の花びらの中でキスをしよう。俺とお前の始まりの地にいこう」
はるかの顔にうっすらとした笑みが浮かんだ。しばらく見ていなかった笑みだった。俺はずっとはるかを笑わせていなかったことに気づいた。
「秋一くん……私を愛してくれるんだね」
「ああ、誰よりもお前を愛してるさ」
はるかをベッドの上に運んだ。押し倒した。俺は最後まではるかに向かって笑みを浮かべた。俺ははるかを抱いた。