決別
朝――出て行こうと思った。トランクにありったけの服と日用品をつめこんだ。部屋にある滅多に使ったことのないパソコンを操作してグレイハウンドバスの時刻を調べた。GTRははるかからのプレゼントだった。俺に とってももう使うことができないプレゼントだった。ロサンゼルス空港からどこかに行こうと思った。日本、日本が 恋しかった。
「エリィ、俺についてきてくれ」
エリィ、頷いてくれた。俺はエリィがいるならば世界の果てにだって行ってやるつもりだった。地獄の果てにだって 行ってやるつもりだった。
ドアを開けた。はるかが立っていた。待ち構えていた。廊下の壁を背にして俺を見ていた。
手にもった黒い塊――リヴォルバー。
恐怖が神経を狂わせる。空気を察したエリィが後ろで声にならない悲鳴を あげていた。銃口は俺の心臓にゆっくりとポイントされた。
「行くの?」
何気なく言った言葉、冷気がこめられていた。この世の全ての呪いが込められている気がした。
「ああ、長い散歩に行こうと思う。お前もついてくるか?」
ジャケットからトカレフを取り出した。銃身をスライドさせた。渇き切った金属音が響いた。はるかの顔に向けてポイント した。俺は愛しい妻に銃口を向けた。
「ボクは撃てるよ?」
「俺は正直、あまり自信がないな」
撃てるか――エリィのためでも撃てるか?
答えはNOだった。時間が経てばいつかはるかともわかりあえると思っていた。俺は甘かった。あだ名の通りだった。砂糖のように甘い男だった。 はるかの激情を軽く見ていた。
「それなら行っちゃヤダよ」
「いつか戻ってくるよ」
「その娘を連れて?」
はるか、エリィに視線が飛ぶ。エリィ、はるかの視線に耐えられずに俺の腰にすがりついてきた。
「わからない。ただエリィが幸せになってくれたなら俺はもう何もすることがなくなるだろうな」
「それまで、待てっていうの。またボクを待たせるの。やっと願いが叶ったというのにまた待たせるんだね」
力を込めて握られるトリガー、死にたくはなかった。死にたいはずがなかった。だが、はるかに撃たれるなら構わなかった。心残りが残らなければ良かった。
「はるか、俺を殺すなら……エリィをお前の娘にしてやってくれよ。お前の男の最期の願いをきいてくれ」
願った。俺の女神に向けて祈りを捧げた。
「秋一くん……ボク、愛してるよ。愛してるのに、なんで、どうして、わかってくれないの」
はるかはリヴォルバーを下ろした。俺に近づいてきた。俺の腕をつかみ、顔を近づいてきた。瞳に涙が浮かんでいた。涙と 狂気にまみれていた。
「わかってるよ……わかってるから、一緒にいたんだろ」
はるかは熱い口づけを俺におくった。抱きしめてきた。俺も抱きしめた。愛する妻を抱きしめた。はるかは俺の気持ちに気づいていた。 もう戻れない道を歩こうとしていることを知っていた。だが、決して離すまいと力を込めて抱きついてきた。
視界の隅――エリィが見たことのない顔だった。儚く、柔らかく、物悲しく、微笑んでいた。天使は俺達を祝福していた。だが、俺は 天使を祝福したかった。
はるかは時間をくれと言った。俺は頷いた。はるかの心変わり、信じられなかった。信じるしかなかった。俺の愛が本物 ならば信じなければならなかった。それしか残されてなかった。
エリィ、ベッドの上に座ってゆっくりとチョコを口の中に運んでいた。はむはむとリスのように頬を膨らませて食べていた。たまらなく 愛しかった。可愛らしかった。
焦燥がポケットに忍ばせた薬ビンに向かう。ドラック、魔法の薬、だが、手を出すわけにはいかなかった。
――と。携帯が振動した。着信、ロジャックからだった。相手をする気分じゃなかった。だが、最後の別れぐらい 言ってもいいと思った。最後になるかもしれなかった。携帯を耳にあてた。
「あっ、ジュ、シュウイチか」
声、どもっていた。何かに焦っている声だった。
「なんだ。まだ通訳が必要なのか?」
「ジュ、シュウイチ……た、助けてくれよ。お、お前の力が、必要なんだ」
「なんのことだよ。意味がわかんねぇよ」
「おっ、俺、クビになっちまうかもしれないんだ」
「何をしくじった」
冷静に問うた。ロジャック、天才肌の男、何もしくじったことのない男。ヘマをするとは思えなかった。
「ちょ、ちょっと、ミスをしちまって、な。わっ、わかるだろ」
「わからねぇよ。お前の言ってることは支離滅裂だぜ」
「あ、あっ、ああ、わかってる。す、すまない。だ、だが、た、助けてくれよ」
ロジャック、悲壮な声だった。同情、これっぽちも沸かない。白いブタなどのたれ死ねと思った。
「切るぜロジャック、ミスはこの国では許されないことだ」
「た、頼むジュ、シュウイチ。俺を、助けてくれ」
ロジャック、まるで人を殺してしまったかのような声だった。それだけヤバイことだとわかった。だが、俺はヤバイこと などいくらでもやっていた。
「五十万ドルだロジャック」
「か、金か」
必要になるかもしれないエリィのための金――あればあるほど良かった。身体の奥には冷静で冷酷な俺がいる。
「助けてやれるかどうかはわからない。キャッシュでそれだけ払う覚悟があるなら今すぐお前の元に駆けつけてやるよ」
「うっ、あっ、た、頼む。ビ、ビルに来てくれ」
切った。エリィに視線を移した。エリィは呆然としている視線を俺に送っていた。俺の邪悪な部分を盗み見てしまっていた。だが、 俺は微笑んだ。エリィに向けて優しく声をかけた。
「シュウイチ……」
「エリィ、俺はエリィに懺悔したい。全ての赦しを乞いたい」
「……うん、神様はシュウイチを赦してくれるよ」
神になど救われるつもりはなかった――俺はエリィに救われていたかった。