対峙
「ダメ」
にべもなかった。たた一言ではるかは俺を裁断した。テーブルに座って何事なかったかのように優雅に紅茶を飲みだした。平坦な顔だった。何年も連れ添った妻の顔だった。
「なぜだはるか。エリィにあのゴミために戻れなんて言うつもりじゃないだろうな」
むき出しの怒り、初めてはるかに向けるものだった。俺は仮面を脱ぎ捨てた。だが、はるかは眉一つ動かさなかった。
「大人になってよ秋一くん。事情を聞いて私も可哀想だとは思ったよ」
「だったら――」
「エリィちゃんには私が支援している施設に行ってもらうよ。それがダメだったら然るべき養父と養母を用意するから、 秋一くんは何も心配しなくていいよ」
はるかの言うことはいつだって正しかった。理詰めに正しい方向に向かわせようとしていた。
「週に一度か二度、顔を見に行けばいいじゃない。養父や養母に引き取られても私が何とかしてあげるよ」
優しくなった声だった。何もかもがはるかの言う通りだった。唯一つ、唯一つだけ違うものがあった。
「エリィには暖かな家庭が必要なんだ。俺がそれを与えてやりたい」
はるかの表情の変化、眉が揺れた。
「あの娘の父親になりたいの秋一くん?」
「ああ」
はるかは唇をかみ締めていた。自分が子供を作ろうとしなかったことを後悔し、呪っていた。
「私だけを愛してくれているって言ってくれたじゃないか秋一くん。なんで――」
「自分の子供を愛するのに理由はいらねぇんだよ」
はるかの瞳、愛憎で燃えていた。それでも、俺は負けるわけにはいかなかった。目を逸らさなかった。
「ホントに自分の子供だと思ってるの?エリィちゃんは秋一くんと血は繋がっていないんだよ」
「俺は血の繋がらない妹を愛していたぜ。いまでも胸を張って愛してるといえる」
「赦さない。もうっ、もうっ、もう私はさくらちゃんに負けるわけにはいかないんだよ。ずっと一緒に居てきたんだ。ずっと 私だけが秋一くんのことを好きだったんだよ。独り占めできていたんだ。なんでわかってくれないんだよ」
苛立ち、かつて故郷で見たはるかがよみがえった。
「そうだな、俺はもうお前に赦されないことを覚悟してる」
指からエンゲージリングを外した。テーブルの上に転がした。コロコロとまわって止まった、
「愛してるぜはるか。だが、お前が俺から俺の子供を奪うなら俺はお前と別れることになるな」
「……」
はるかは押し黙った。だが、小さく呟きが聞こえた。
「私から離れたら……この家も、美味しい御飯も、やわらかいベッドもなくなるよ。ううん、秋一くんのお仕事 だって私は奪えるんだよ。住むところも、食べる物も、なんでも私は秋一くんから奪えるよ。私にはいろんな力があるんだ」
「俺がそんな物を一度としてお前に望んだことがあったか。奪うなら奪えよはるか。何もかも俺に与えた物を俺から奪え、俺には最初から何もなかったんだ。何も持っていなかった。全ては偽りだったんだ」
カラーコンタクト、俺の偽りの証、青い瞳、頭を勢いよく振って外し、絨毯の上に転がした。踏み潰した。もう偽るものはなかった。
「秋一くん……私を愛してると言ってくれたのも嘘だったの」
瞳、弱々しかった。虚ろだった。足にブレーキがかかった。偽りの呪いが解けても未だ俺は呪縛されていた。俺は逃げられなかった。負けられなかった。ジレンマだった。
「それは偽りじゃない。ただ、大きさと色が違うんだよはるか」
はるかにとっての死刑宣告――はるかは認めようとしなかった。はるかは俺を見続けていた。俺を手放さないと 言っていた。誰にも渡さないと言っていた。
俺ははるかの認識を間違っていた。はるかは研究と俺を両立していたのではなかった。ただ愛情が大きすぎて分けるしかなかったのだ。子供を作らなかったのは俺を渡したくなかったからだったのだ。はるかの愛情は俺には重過ぎた。はるかはそれに気づいていた。 だからはるかは何かの没頭することでそれを誤魔化していた。俺は何も知らなかった。それは紛れもなく俺の罪だった。
シャワーを浴びてきたエリィ、ファニーがダボダボのメイド服を用意した。濃紺のスカートと白いエプロン、可愛らしい姿だった。だが、俺がなってほしいのは召使なんかじゃなかった。
エリィはベッドの上で所在なさげに俺の部屋を見回していた。俺の無駄に絢爛豪華な部屋を見回していた。全てに羨望 の視線を向けていた。
「シュウイチ……お金持ちなんだね」
「違うよエリィ。全部借り物なんだ。俺のものは何もない」
「そっか……私、こんなお姫様みたいな部屋、怖いよ」
「どうして怖いんだい」
「だって綺麗すぎるよ……私が、居ちゃいけないところだよ」
「すまないエリィ。一晩だけ我慢してくれないかい」
「あれ……シュウイチの目、なんだかおかしいよ」
カラーコンタクト、もう外していた。エリィは首をかしげた。微笑んだ。
「この黒い目が俺の目なんだ。怖いかエリィ」
「ううん。シュウイチを怖いと思ったことなんかないよ。いつだって優しいもん」
エリィ――瞳が潤んでいた。目に涙が溜まっていた。
「でも………奥さんと喧嘩しちゃったね。私のせいで。ごめんね。本当にごめんね」
泣きじゃくる。エリィ、どこからか俺とはるかの会話を聞いていた。背筋に電流が走った気がした。俺はエリィを抱きしめた。
「大丈夫だよエリィ、はるかもきっとお前を愛してくれるさ。三人で暮らそう。ずっと一緒に暮らそう」
幻想――言ってはならない幻想、俺の紛れもなく神聖な願い。叶わない願い、愚かな願い、闇の中からの願い。
エリィは答えてくれなかった。ただ俺から少しだけ離れて俺の頬に手を伸ばしてきた。
「私……本当に何もできないんだよ。たくさんくれるシュウイチに私ができることなんて………」
エリィの手、頬から首へ、胸へ、腹に、下腹部へ、そして俺の欲望の住みかへ。意図、察した。真っ黒な恐怖が頭の中を埋め尽くした。エリィの手、掴んだ。地面に 視線を向けた。目をきつく縛った。
「そんなことしなくていい……頼むよエリィ」
「私の知ってる……男の人、皆、私を壊そうとして……楽しんでたよ。シュウイチにも喜んでほしい」
灼熱――年端のいかないエリィを蹂躙した奴らへ。充てのない身を焼き尽くすような憎悪。エリィの会ったという男達を全て殺してやりたかった。 引き裂いてやりたかった。
エリィは純粋だった。だから罪を罪として捉えていなかった。罪には罰が必要だというのに エリィは罰を与えない。誰も呪わない。
エリィ、神聖なる存在。誰よりも神を愛し、愛されない存在。だが、俺は初めてエリィが怖いと思った。俺は知っていた。 俺の中に小さな火があることを。エリィを愛したいと思うと同時に壊したいと思うちっぽけで忌まわしい心を。気づいていた。だが、 一生知らないふりをしていたかった。呪わしかった。何もかもが呪わしかった。俺は俺にまつわる全てを呪った。
俺は父親になりたかった。なれなかった。なりきれなかった。
俺は出来損ないだった。何かを欠落してしまっていた。何かを失ってしまっていた。エリィに暖かい家庭を与えて やりたかった。俺が与えてやろうと思った。俺ではダメだということを知っていた。俺はそれでもすがりついていたかった。
エリィを抱きしめつつベッドの中で眠りながら言った。パパと呼んでくれと。そう言ってくれたなら俺にとってそれ以上に 救いの言葉はなかった。だが、エリィは呼んでくれなかった。俺を父親として見てくれなかった。俺はそれがたまらなく 悔しかった。
エリィの望んでいることがわからなかった。だから訊ねた。エリィは充分に私は幸福だと言った。もっと幸福になって ほしかった。誰よりも幸せになってほしかった。エリィに祝福を与えてやりたかった。
落ち着いたら学校に行かせてやると言った。エリィは微笑みながら聞いてくれた。
まず、小さな家に三人で住んで、エリィは学校で友達を作るんだ、勉強でわからないところははるかに訊いてくれ、俺は 頭が悪いんだ。俺とはるかは昼はお仕事をして、エリィは夕闇とともに家に戻ってくる。
三人で食卓を囲んで、笑いあって、その日の出来事を語り合うんだ。エリィは美人だからすぐボーイフレンドから声が かかって俺は軽い嫉妬をするんだ。それで、怒ったはるかに俺は頬を引っ張られる。休日はエリィの好きなところに 行こう。きれいな花が咲き乱れるところに行こう。俺の故郷には俺の妻と同じ名前の木があるんだ。
妻と同じくらい美しいきれいな花を咲かせる木だ。小さいけどたくさん花が木についてる。何よりも美しい花なんだ。俺の故郷に いつかエリィを連れてってやる。俺の愛した“はるか”を見せてやる。
エリィ――夢物語を聞いているような心地だと言った。俺は現実にしてやりたかった。現実になってほしかった。 愚かな俺の願いだった。