第2話『変わってしまった日常』
医師や親が騒いでいるけど、ぶっちゃけ大したことはないだろう。
なにせ、たかがちょっとモテないくらいのことなんだから。
……そう思っていたのだが、この日から、僕の日常はガラリと変わってしまった。
まず、親がやたらと優しくなった。
いつも朝ごはんはトーストにジャムが定番だったのに、テーブルの上には一汁三菜がしっかり揃った和食が並んでいる。
大豆の煮物に、シャケの塩焼きに、豆腐の味噌汁。ほうれん草のゴマ和え。
まるでホテルか何かみたいな待遇だ。
「じゃ、学校行ってくる。朝ごはん美味しかったよ、ごちそうさま」
「ちょっと待って。お母さんも一緒に行くから」
「え? どこに?」
「学校。担任の先生に公男のこと説明しておかないと」
「……なんで?」
なぜ好き好んで担任に自分が死ぬほどモテないことをカミングアウトしなければならないのか。
そんなことを打ち明けられて、いったい担任はどんな顔をすればいいのか。
渋る僕の態度をどう勘違いしたのか、母さんはそっと僕の手を握った。
「確かに、あまり人には言いたくないかもしれないけど、でもこういうのは周りの理解とサポートがすごく大事なのよ。残り少ない高校生活を、お母さん公男には精一杯楽しんでほしいの」
「いや、僕の高校生活、まだたっぷり二年残ってるんだけど……」
すったもんだの問答の末、結局僕は親に押し切られる形で、担任との三者面談に臨むこととなった。
◆
「坂口先生、今日はお忙しい中、急に押しかけてしまって申し訳ございません」
「いえ、お母さん! お気になさらないでください! 大事なお話なんですよね?」
応接室に通された僕たちの前に、担任の坂口庵剛先生が腰を下ろした。
体育教師らしいジャージ姿に、スポーツ刈りの頭。
どこを見ているかよく分からない据わった目つき。
快活な笑みを浮かべる口元からは、キラリと光る白い歯が覗く。
今どき珍しい熱血な先生で、生徒や教師陣からの信頼も厚い。
「はい、実はこの間、公男の恋愛力測定に行ってきたんですが……結果があまり芳しくなくて」
「……そんなにひどかったんですか?」
そして、ちょっと失言が多いのも特徴である。
ひどいってなんだ。言葉を選べ言葉を。
神妙な面持ちで尋ねる坂口先生に、母さんは目尻をハンカチで抑えながら、やっとのことで告げた。
「それが……公男の恋愛力は、たったの五しかないらしくて……」
「え……? そ、それってつまり……」
「はい……公男は……もしかしたら、一生彼女も作れないかもしれないんです!」
「ああっ……! なんてことだ……! どうしてそんな……! お母さん、心中お察しいたします! さぞお辛かったことでしょう!」
一番辛いのは僕だよ。
もらい泣きしながら、坂口先生は僕に頭を下げた。
「すまん、盛岡! 先生は教育者失格だ!」
「え?」
「お前がずっと辛い思いしてたのに、ちっとも気づいてやれなかった。はは、まったく情けないな」
「坂口先生……」
僕は思わず泣きそうになった。
いまどき、こんな風に生徒に寄り添ってくれる教師なんて、一昔前の学園ドラマの中にしかいないと思っていた。
でも、坂口先生は本気で僕のことを心配してくれているんだ。
まあその経緯はさておき、僕は坂口先生のその心意気に強く胸を打たれた。
恋愛力が低かったおかげで、僕はこうして人の温かみに触れることができたのだ。
そう思えば、案外悪いことばかりではないのかしれない。
――先生、あまり自分を責めないでください。
そう言おうとしたところで、坂口先生は苦悶の表情を浮かべ、ぐっと歯を噛み締めた。
「先生は本当に恥ずかしい……お前がモテないことなんて、ずっと前から分かってたことなのに……!」
前言撤回。
死ぬほど恥じろ。己の不徳を
なんだ見てりゃモテないの分かるって。
救いがなさすぎるだろ。
「盛岡、もし何か辛いことがあったら、いつでも先生に相談してくれていいからな! 全力で力になると約束しよう!」
「先生……ありがとうございます……! なんと感謝を申し上げてよいやら……」
「いえ、教師として当然のことですよお母さん! それと盛岡。このことはクラスの皆には……」
「言わないでください。絶対に」
「分かった! これから、皆でいろんな思い出作っていこうな! 盛岡!」
目を赤くした坂口先生が、にかっと白い歯を見せて笑った。
僕は力なく愛想笑いをこぼした。
◆
「盛岡。もし辛くなったら、いつでも保健室に行っていいからな?」
「いや、大丈夫ですよ。体調が悪いわけじゃないんで、授業はちゃんと出ます」
「……ふ、強いな、お前は……」
いや、本当にそんなんじゃないです……。
面談が終わったのは、ちょうど一時間目が終わってすぐの休み時間だった。
二時間目は、坂口先生が担当する数学の時間だ。
自然と、僕は坂口先生と一緒に自分の教室まで行くことになる。
……はあ、でも正直気が乗らないな。
ここ柳原高校の特進科は、僕が住む市でもそれなりに偏差値の高い学科だ。
しかし、あくまでそれなりであって、ヤンキーみたいな奴も珍しくはない。
「こら、三沢! スカート折ってるだろ! 直せ!」
「いや、折ってないし、うちの脚が長いだけだし!」
「脚の長さは関係ない! スカート丈は膝が隠れる程度と校則で決められているだろう!」
生徒指導も兼ねている坂口先生は、こうして素行の悪い生徒に目ざとく指導することもある。
仕事熱心で結構なことだ。
「だーかーらー! 脚長いからこの丈になっちゃうの!」
「ウソをつくな! お前の脚はそんなに長くないだろう!」
「はあ!?」
……そして、また余計なことを言って反感を買っている。
もう教室も近いので、僕は坂口先生は置いていくことにした。
ガラリと扉を開けると、クラスメイトたちの視線が僕に集中する。
……この瞬間が嫌だから遅れて来たりしたくないんだよね。
「盛岡くん、おはようございます」
「あ、大蛇さん、おはよう」
ちょうどドアの近くにいた女子生徒――大蛇夏巳さんが、ほんわかと挨拶してくれる。
亜麻色のふわっとした長い髪(地毛証明済み)に、女子にしては大柄な体格。
人懐っこく、誰にでも優しい性格から、どことなく大型犬っぽい印象を与える女の子だ。
そう、彼女は誰にでも優しいから挨拶してくれただけ。
僕のことを、特別どうこう思っているわけではない。
わけではない……。
そう自分に言い聞かせながら、席についた。
そして、いつもの連中が、僕を横目に見ながらニヤニヤ笑い始めた。
「おいおい、見ろよ。高校二年なのに彼女もできたことない奴がいるぜ」
「一年の間に彼女作れなかったんでしょ? だっさーい」
「恋人いない歴=年齢が許されるのは新生児までだろ」
僕の陰口を叩いているのは、ヤンキーカップル二人組だ。
どうやらこいつらは母乳を吸っていた頃から恋人がいたらしい。
異世界転生ものの主人公もびっくりの発育の良さだ。
現代日本の中学高校においては、恋人がいるかいないかで、学内でのカーストはほぼ決定すると言ってもいい。
だから誰もが形だけでも恋人を作ろうと奔走し、見せかけのリア充生活を演出する。
はあ、まったく嘆かわしい限りだ。
モテるとかモテないとか、そんなにやっきになるほどのことなのか?
一度彼らは胸に手を当てて考えてみるべきだ。
「ちょっと、東山くんに西野さん! そんな言い方ってないんじゃない?」
「あ? なんだよ委員長。なんか文句でもあんのかよ」
すると、そんな僕の擁護をしてくれる人が現れた。
黒髪のショートボブに、スレンダーな体つきの女子生徒。
切れ長の瞳からは鋭い眼光が放たれ、ヤンキーたちをキッと射抜いている。
彼女の名は十四松かえで。
あだ名の通り、このクラスの学級委員長だ。
「言っとくけど! わたしの目が黒い限り、ここ二年四組でいじめなんて絶対許さないんだから!」
「はあ? いじめじゃねえよ。盛岡がモテないのは事実だろ」
「モテない奴にモテないって言って何が悪いわけ?」
「事実でも名誉毀損が適用されるって知ってる? いくら本当のことでもね、他人の名誉を傷つけるようなことを公の場で言うのは最低よ!」
凛とした委員長の声がクラスに響き渡り、ヤンキーたちは不愉快そうに眉をしかめる。
そして君も今、公衆の面前で僕の名誉を傷つける発言をした気がするんだけど。
「チッ……うぜえ……」
「つーかアンタ誰? なんか突っかかってくるけどさあ」
「わたしは十四松かえで! もう二週間も経つんだから、いい加減クラスメイトの名前くらい覚えなさいよ!」
「はっ! 十四松だか門松だか知らないけどさあ、あんま調子乗んないでくんない? うち、アンタのこと別に学級委員長とか認めてねーから」
「あなた一人が認めるとか認めないとか、今はそんな話はしてないけど?」
まずいな、まさに一触即発の雰囲気だ。
不穏な気配が漂う教室に、突然怒声が轟いた。
「おいっ!! お前ら! ちょっと来い!」
前のドアから、憤怒の形相をした坂口先生が怒鳴り込んできた。
「な、何すか」
「いきなりでかい声出さないでよアンゴー先生」
ヘラヘラしつつも、若干ビビっているのを隠せていないヤンキーたちに、坂口先生は低い声で問い詰めた。
「お前たち、彼女がいないくらいで人をバカにしたりして、恥ずかしくないのか」
「いや、だって、なあ?」
「普通に考えてありえなくない? 幼稚園から数えたら十二年も異性と毎日過ごしてるのに彼女の一人もいないとか」
「本人に問題があるとしか思えないっす」
口々にそう言い返すヤンキーカップルたち。
確かに彼らの主張は正しい。
少子化対策の一つには、学校教育にも恋愛意欲向上を目的としたカリキュラムを取り入れる、というものがある。
つまり、国が率先して僕たち若者に「さあ恋愛しなさい。何もためらうことはないよ」と呼びかけているわけだ。
……いやほんと、何で僕って彼女できたことないんだろう……。
つい考え込んでしまう僕をよそに、坂口先生はとうとう怒髪天をつく勢いで怒り始めた。
「馬鹿もの! 世の中にはなあ! 恋愛したくてもできない奴が山ほどいるんだぞ! 自分の常識だけで他人を判断するな! 恥を知れ!」
「坂口先生……」
僕はだれにも聞かれないようこっそりつぶやいた。
ちょっと配慮に欠けるところはあるけど、基本的には本当にいい人なんだよな。
だいたい、昨今の教師なんて聖人じゃないと務まらないほど過酷な仕事だと聞いたことがある。
無給で部活の顧問はやらされるし、休日出勤しても出る手当はすずめの涙。
休み時間なんてあってないようなものだし、残業するのが当たり前。
生徒のためなら、すべてをなげうって働くのが当然と言わんばかりの暴論がまかり通る世界なんだ。
そんなところでずっと熱血教師であり続けられる坂口先生は、僕なんかでは到底推し量れないほど立派な人なんだろう。
先生、さっきは心の中で罵倒したりしてすみません。
あなたは最高の教師です。
たじたじとなるヤンキーたちに、坂口先生はなおも厳しい声音で問いかけた。
「西野、東山……もし自分の恋愛力が五しかなかったらどうする」
ん? なんか特定個人に言及してないかこの人?
秘密にするって話ちゃんと覚えてますよね?
いぶかしむ僕に、坂口先生は『分かってるさ』とでも言いたげにウィンクをした。
「いや、五って。生きていけなくない? 普通に」
「モテなさすぎて日常生活に支障きたすレベルっつーか……」
「実質死んでるようなもんでしょ、それ」
生きとるわ。
人をゾンビか何かみたいに言うんじゃないよ。
こめかみがピクピクしてくる中、坂口先生はきっと表情を厳しくした。
「想像してみろ――生まれたときから死ぬほどモテない人生ってものを」
……落ち着け。冷静になるんだ僕。
坂口先生は別に僕をバカにしているわけじゃない。
これは説教の前フリみたいなものだ。
「生まれたときから……」
「死ぬほどモテない……」
「つまり、恋人もいないってことですよね?」
「そういうことだ」
「マジかよ……キツすぎんだろ……」
「地獄っしょそんなの……」
ちょっと待って! 本当にいたの!?
新生児の頃から恋人が!?
しかもそれが普通なの!?
その事実の方が辛いんですけど!
ていうか、地獄は言い過ぎだろ。
別にぜんぜん地獄じゃないよ。
現に僕は元気に生きてるわけだしさ。
だいたいそんなのが地獄だったら、本物の地獄で鬼は亡者にどんな罰を与えりゃいいんだって話だよ。
まったく、つくづく失礼な連中だ。
坂口先生、ビシッと言ってやってください。
「そのとんでもない地獄の中で、あいつはずっと生きてきたんだ」
前言撤回。
誰の日常がとんでもない地獄だ。
しかも形容詞つけてグレードアップさせてるんじゃないよ。
つーか秘密にするって話はどこにいったんだよ。
「マジで? 盛岡あいつ、恋愛力五しかないの?」
「ガチでヤバいやつじゃん……かわいそ」
「大変なんだな、あいつも……」
ていうか、今ので完全にバレたよね?
僕の恋愛力が低いこと。
秘密にしとくって話はどうなったんですか坂口先生?
「朝起きても誰からも『おはよう』のラインが来ない」
「「うっ……!」」
普通では?
「昼休みに弁当を食べさせ合いっ子する相手もいない」
「「うわあっ……!!」」
普通だよね?
てかそんなことしてるの?
「バレンタインにチョコをくれるのは母親だけ! 当然義理!」
「「うわああ~~~!!!」」
そんなの普通すぎ……っていうか、母親から本命もらう方が地獄だな。
絶対落ちたくない、そんな地獄。
鬼が化けた母親から本命チョコをもらって悶え苦しんでいる亡者たちの姿が目に浮かぶようだ。
頭を抱えている亡者たちに、坂口先生が優しく声をかけた。
「これで分かっただろ? あいつの辛さが!」
「「…………すいませんでした」」
「おいおい、謝る相手が違うだろう!」
すると、ヤンキーたちはバツの悪そうな顔で僕のところまでやって来た。
「わ、悪かったな。お前のことバカにしたりして……」
「うち、アンタみたいに恋愛力が低くて、女にモテない奴の気持ちなんて想像したこともなかった……」
「でも、お前だって好きでモテないわけじゃないもんな……生まれつきモ
テないんじゃしょうがないよな……本当ごめんな」
「いや……分かってくれたならいいよ……」
なんだろう。
本気で謝られているはずなのに、心底からバカにされている気がしてならない。
じろりと坂口先生を睨むと、先生は両手を顔の前で合わせて『すまん!』のジェスチャーをした。
もう怒る気も失せて、僕はため息をついた。