あの月が満ちるまでに 第6話
事務所ビルの屋上。
フェンスの張り巡らされた殺風景な場所だが、邪魔な障害物がないので夜景がきれいに見下ろせる。
そして今夜は何よりも美しい満月だった。
稲葉と宇佐美がその屋上にあがっていくと、もうマユカはその中央でまぶしいほどの月を見上げて立っていた。
月の光の強さで星々は姿を隠し、白いワンピースを着たマユカの影が冷たいコンクリートの上に落ちている。青白くほんわりと浮かび上がるその姿は本当に月からの使者を待っている物語の少女のようだった。
「私が生まれた夜も、こんなきれいな月の夜だったってママが言ってた」
振り向きもしないのにマユカは二人が来ているのを感じ取ったのか、
背をむけたまま、そうつぶやいた。
「私、ママの事は大好きよ。何の辛い思いもしないで今まで生きて来れたもん。私がママや宇佐美の隠してることを探って、秘密を知って取り乱した時も誠実に答えてくれた。あの人の側にいれば大丈夫だって思った。ママの仕事の都合でカナダに行くのだって私はけっこうワクワクしてるの」
少女はまだずっと月を見上げている。
「宇佐美は心配性だから自分のこと投げ出して、付いて来るとか言いそうで怖いんだけど。だけど心配いらないから。本当よ」
まるで月に語りかけるように静かに言った後、ようやくマユカは宇佐美の方を向いた。
「・・・ごめんね、宇佐美」
稲葉は精一杯笑おうとしている少女の本当の美しさに胸が締め付けられた。
苦し紛れに月を見上げる。
---月の光はどうしてこんなに悲しくも美しいのだろう---
「あんなこと言っちゃってごめん。すごく悪かったって思ってる。なんであんな、宇佐美が辛くなるようなことばかり言っちゃうのか分かんないの。言っちゃった後は決まって苦しくて、夜になっても後悔で眠れないのに。自分が嫌で仕方なくなるのに・・・でも、やっぱりまた酷いこと言ってしまう」
マユカはそこで一度、苦しそうに息を継いだ。
「この前言ったことは忘れてね? 本当は何も欲しいものはないの。 今日は・・・今日はね、ただちゃんとお別れを言いたくて・・」
「マユカ」
マユカの言葉を遮るように宇佐美は少女の名を呼んだ。
「マユカ」
もう一度。
そして宇佐美は優しく少女を見つめた。
「もう何も言わないでいいから、マユカ。遅くなってごめんね。君がずっと待っているなんて思わなかったから。俺はずっとその言葉に触れないようにしていた。ずっと逃げてた」
「・・・」
マユカは泳がせていた視線をゆっくり目の前の背の高い男に向けた。
恐る恐る、探るようにその目を見つめる。
宇佐美はそれを優しく受け止めるように、微笑んだ。
「マユカ、お誕生日おめでとう」
真っすぐに宇佐美を見つめていた少女の目から涙が溢れだした。
戸惑うように視線を外し、そしてまた戻す。
小さく首を横に振り、次第に堪えきれなくなったように顔を歪ませながら走り出し、勢いよく宇佐美に抱きついた。
その華奢な体を宇佐美はしっかり抱きしめ、やさしく髪を撫でた。
「ごめんね、マユカ。俺が言っちゃいけないと思ってた。そんな資格ないと思ってたんだ。本当に・・・ごめん。ごめんね」
宇佐美の腕の中でマユカが大きく首を横に振った。
そしてそのまま顔を上げることも出来ずに、宇佐美にしがみついたままずっと静かに泣き続けた。
宇佐美はその髪に優しくキスをし、いつまでもなで続けた。
もう大丈夫だ。
稲葉は少し離れた場所から二人を見つめ、そう思った。
あの子は本当に欲しいものを手に入れた。
自分の存在を許してくれる、魔法の言葉。
欲しくて、焦がれて、でも自分から求めるとウソになってしまう愛の証。
宇佐美は「罪」としてではないあの子の存在を受け入れた。
きっと責任という重圧に押し殺されていた人間的な愛情を、素直に認めることができるんじゃないだろうか。
二人はやっとそれぞれの道を歩くことができる。サヨナラが言える。
けれど・・・あの子はもう一つの宇佐美への想いを封じ込めたまま行くんだ。
本当の想いを。
きっと、どんなに宇佐美が自分のことを想ってくれたとしても、そこに痛みが伴うのを少女は知っている。倫理とか、理屈とかではなく。
だから少女は離れることを決心したのだ。
自分を愛する人を残して、月へ帰るかぐや姫のように。
たぶん、きっと、涙に暮れながら。
◇
マユカを母親の待つホテルまで送っていった後、二人は再びオフィスビルに戻ってきた。
何も言ってないにもかかわらず、ずっと行動を共にする稲葉にここでやっと宇佐美は訊いてきた。
「ねえ、稲葉。なんでずっと一緒にいるんだ?今日OFFなのに」
「今頃ですか!」
少し唖然として返した稲葉に思わず笑ってしまう宇佐美。
「どうせ僕なんかOFFも暇ですから」
「ひまつぶしか」
そう言ってまた笑う宇佐美。
「でも、ありがとうな」
“依頼ですからね” ジョーダンでそう言ってみようかと思ったが、なんだか笑えない。
そんな事じゃない。ただ、純粋に側についていたかった。
頭脳明晰でタフで誰の力も必要としないと思っていた宇佐美。
けれど、そんな男のとてつもなく脆い部分を見つけてしまったからには。
エレベーターを降り、事務所に入ろうとした二人の足が止まる。
誰もいないはずの事務所に電気がついている。今日は休日。しかも夜中。
けれど、誰がいるのかは二人には何となく分かっていた。
そっとドアを開ける。
思った通り、部屋の中には入り口を背にしてオウムの鳥かご越しに夜景をボーッと眺めている李々子の姿があった。
二人が入ってきたのにも気がつかない様子で、魂が抜けたように夜の街を見ている。
ドアが微かにきしむ音でようやくハッとして李々子は振り返った。
「あ・・・・と・・・こんばんは。あの、・・・オウムをね。オウムの様子を見に来たのよ」
慌てたように李々子がオウムのカゴに近づく。
昨日李々子が飛び出して行ってからの初めての会話だった。
「ほら、ごはんあげたり水あげたりしなきゃいけないでしょ?」
やたら落ちつきなく視線が動く。
「そうだね」
やさしく笑う宇佐美。
餌も水も自動で出てくるようにセットしてある。取り付けたのは李々子だったのを宇佐美も稲葉も知っている。なんともソワソワした空気が流れた。
何か言ってあげたい気持ちと、何を言えばいいのか分からないもどかしさと、何か言えばウソになるかもしれない不安と。
稲葉は複雑な思いで二人を見ていた。
「じゃあ、私帰るね。さようなら」
そういうと李々子はドアの横に立っている宇佐美の横をぬけて、あっさりと事務所を出て行ってしまった。
部屋の中はまた重い空気で満たされる。
「宇佐美さん・・・」
戸惑いながら稲葉が口を開いたその時。 再びポーのスイッチが入った。
「リョー」
え? と灰色のオウムを見る二人。
「リョー、ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。 イカナイデ、ゴメンナサイ」
宇佐美と稲葉はしばらく驚いたようにポーを見つめていた。
二人にはハッキリとその光景が想像できた。
「ゴメン。ゴメンナサイ」
一人で思い詰め、窓の外を見つめながら、独り言のようにその言葉をつぶやくあの人の姿が。
「ココニイテ。・・・オネガイ」
ひとしきりしゃべった後、またポーは何食わぬ顔で背をむけてしまった。
「宇佐美さん!」
さっきよりも強い口調で稲葉が言う。
「わかってる。・・・ちゃんと捕まえてくる」
そういうと宇佐美は稲葉の手に事務所の鍵を握らせて、李々子を追うように部屋を出ていった
「・・・捕まえてくるって、オウムじゃないんだから」
稲葉は宇佐美が握らせていった合鍵を見つめながらクスリと笑った。
ちゃんと伝えられるだろうか。
ここ一番って時に、とてつもなく不器用になる、あの人は。
稲葉はガラス越しに夜の街を見おろした。
なぜか分からなかった。
胸の中にホッとした気持ちと、けれど漠然とした寂しさとが入り交じる感覚。
認めたくなかったが、寂しさの方がかなり大きい。
不意に小さな音を立てて、ポケットに入れていた携帯が鳴った。
宇佐美か?・・いや、知らない番号だ。
「・・・はい。どなたですか?」
少し警戒しながら話す稲葉。
「稲葉くーん? ひっさしぶりーーーー♪」
脳天気なこの声は。 まぎれもなく、あのオヤジだ。
「卯月さん?どうしたんですか? なんで僕の番号知ってるんですか?」
「失礼だなあ。私はこれでも有能な元探偵だよ♪」
「いや・・・『だよ♪』・・じゃなくて。まあいいや。で、どうしたんですか?」
「今ね、日本にいるんだ。デートしない?」
あまりにも唐突な言葉。
たぶん、けちょんけちょんに断られるのを前提としたいつもの悪ふざけだ。
けれど稲葉はニヤッとした。
「いいですよ」
「え・・・・。ええーーーーーーーーーっ! いいの?」
「いいですよ」
卯月のかわいいリアクションがなんだか楽しくて仕方ない。
「ど、どうした? 何かあったか? 稲葉くん! 変なもんでも食べたのか?」
「どうもしません。ただちょっと失恋したんです。僕」
「失恋って・・・。誰に?」
「さあ、だれでしょう」
「まさか、李々子にじゃないだろうな。あいつにはそんな価値もないぞ、稲葉くん!」
「さあ。わからないんです。一体どっちになんでしょうね」
稲葉は自分の言っていることがバカバカしくて可笑しくて、クスクスと笑った。
同時にどうにも人恋しくて堪らなくなった。
「・・・大丈夫か? 稲葉くん」
「大丈夫じゃないです」
「稲葉くんっ!」
「どこで会いますか?卯月さん。話したいことがいっぱいあるんです。今夜は寝かせませんよ。朝まで付き合って貰いますからね、覚悟してください」
稲葉はラビットの鍵を握りしめると、もう一度小さく笑った。
(END)
最後までお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。




