ファースト・ミッション 第5話
「あれ?稲葉、本当に残ってたんだ。」
事務所に入ると宇佐美は壁の一点をじっと見つめて座っている稲葉に笑いながら声をかけた。
「どうしたの?シロちゃん。顔色が悪いけど。」
李々子が宇佐美の後ろからひょいと顔を覗かせた。
稲葉はゆっくりと二人の方を向いてポツリとつぶやいた。
「位置が変わってる。」
「え?」
李々子と宇佐美が同時に聞き返した。
稲葉はまたゆっくりとした動きで壁に掛かっている二つの額を指す。
「あの二つの絵、位置が逆になってる・・・。」
宇佐美と李々子は壁を見た。
今までは対になって向かい合っていた黒い馬の絵が、今はそっぽを向いている。
昼間三人が出ていくまで変化は無かった。
「へえ、稲葉すごいね。よく気がついたね。」
「関心してる場合じゃないでしょう、宇佐美さん!
僕らが居ない間に誰かがまた入ったんですよ。鍵開けて。
入って、いじくって、また鍵閉めて!大問題ですよ!」
「鍵、変えなきゃな。」
「だからそういう問題じゃなくて!!」
「まあ、落ち付けって稲葉。で、何か取られたものは?」
宇佐美は可笑しそうに笑いながら言った。
「わかりませんよ。ひとつひとつ調べた訳じゃないですもん。
見た感じ、ファイルもデータも荒らされてないみたいですけど・・。」
「ふーん。私たちがいない時を狙って入ってるのね、いつも。」
李々子は回りをぐるりと見回している。
「問題はそこだな。何で居ないときが分かるのか。」
「見られてるみたいで気味が悪いわね。」
「そうなんです。僕も近頃いろんなとこで視線を感じるんですよ。」
「向かいのビルの人は近頃は覗いてないのかなあ。ブラインド閉まってるし。
ちょっとがっかり。」
「なんでがっかりなんですか!・・・あ。そういえば。
あの二人、よく鳳凰に来てるんですって。ナオちゃんが言ってました。
ばったり会ったらどうしようかな。
なんだかここの話をやたらしてるらしいですよ、下で。」
「・・・・・・ん。」
宇佐美が何か思いついたようにゆっくり稲葉を見た。
李々子ももう一度壁の絵を見たあと宇佐美を振り返った。
「え?どうかしたんですか?」
李々子がすーっと稲葉の横に来てぴたりと寄り添うように座った。
「ねえ、シロちゃん。何か最近身の危険を感じるようなこと無かった?」
あまり近づくので李々子の胸が稲葉の腕に触れてくる。
居心地の悪さとは裏腹に急に上がっていく心拍数。
“今が危険な状態です”と叫びたくなるのを我慢して稲葉は声を絞り出した。
「そ・・・そういえば。さっき下でおしりを触られたような気が・・・。」
「やっぱり。」
李々子は宇佐美を見た。
宇佐美は小さく溜息をつく。
「え?どうしたんですか?」
「うん・・・。李々子、大きな紙持ってきて。」
「は〜〜い。」
李々子は古いカレンダーを一枚宇佐美の前に持ってきた。
“あれ? この展開、以前見たぞ?”
稲葉は唖然として二人を見ていた。
宇佐美は太いマジックで紙に大きく文字を書いて
以前やったのと同じように外側から見えるようにガラス窓にバンと貼り付けた。
紙には、
“まぎらわしいことしないで、出てきてくださいよ!”
と、書かれていた。
「え?え?どういう事です?」稲葉は二人を交互に見つめた。
そしてまたもや間髪入れずに電話のベル。
今度は宇佐美ではなく李々子が受話器を取る。
スピーカーホンにしたあと相手が話しかけるよりも先に大声で怒鳴った。
「またこんなイタズラして!いいかげんにしてよね、パパ!」
「パ・・・・・・・・・・パパ??」
稲葉は思わず大声を出していた。
宇佐美が少し苦笑しながら稲葉に双眼鏡を手渡して向かいのビルを指さした。
ブラインドが開いている。
慌てて双眼鏡を覗くと、窓際で白髪の初老の男がにこやかにピースサインをしている。
「あ!鳳凰にいた人だ!」
稲葉は唖然とした。
彫りの深い老紳士。ちょっとバック・トゥ・ザ・フューチャーのドクに似ている。
電話の向こうからは少し楽しそうに笑いを堪えた声が聞こえてきた。
『やあ、李々子久しぶり。宇佐美くんも元気だった?会いたかったよ。
李々子にひどい目に遭ってないかい?』
「余計なことはいいのよパパ!いったい何のつもり?
音信不通だったくせにいきなりこんな紛らわしいことして。
また何かやらかして帰って来たんでしょ。お金なら無いわよ。」
『ないの?』
「ないわよ!何?男にふられたの?それとも騙されて持ち逃げされたの?」
『なんでわかる??』
「大体いつだって男見る目がないんだからパパは。」
稲葉は宇佐美の腕をぐっと掴み、説明を求めてすがるような目で見つめる。
宇佐美は少し笑って小さく稲葉の耳元でつぶやいた。
「ゲイなんだ。」
稲葉は固まった。
『ほーら、李々子はすぐ怒るだろ?だからそっちに顔出しにくかったんだよ。
一週間前から帰国してたんだよ?
すぐにでも飛んでいって飛びつきたかったのに。』
「諒にでしょ?」
『もちろん。』
「殴るわよ。」
李々子が拳を握りしめてドスの利いた声を出した。
『だろ?だからこうやってこのロケーションを確保したんだ。
下の喫茶店でこの部屋の二人と意気投合しちゃってね。
ひと部屋空いてるから使っていいって言うし、甘えさせてもらったよ。』
「そういうのを“覗き”って言うのよ。教えといてあげるわ。
で、私たちが留守の間にこそこそ何やってたの?」
『いやあ、ちょっと私のへそくりをね、探して・・・』
「絵の中に入ってたやつ?ああ、5年くらい前に見つけて使っちゃった。何か文句ある?」
『あ、見つかっちゃった?・・・じゃあ仕方ないね。』
「大体パパはいい加減すぎるわよ!
諒に事務所押しつけて、男追いかけてアメリカ行ったまま音信不通で。
サイテーの男ね。あっちで何やってたのよ。諒だって心配してたのに。
連絡先だって教えないし。一番諒が辛かった時になんで・・・・・あ」
受話器を掴んでいた李々子の手の上に宇佐美がそっと手を重ねた。
李々子は驚いてピタリとマシンガントークをやめ、宇佐美を見上げる。
「もういいじゃない。ね。李々子。 電話替わって貰ってもいい?」
柔らかく笑った宇佐美に少しドキリとして李々子は無言で受話器を宇佐美に手渡す。
そして少し複雑な表情で稲葉の横に来てどすんと座った。
弾みで転けそうになりながらもなんとか体制を整える稲葉。
頭の中は疑問符だらけだ。
「アメリカに行ってそれっきりって、そういう意味だったんですか?
病気だっていうから、僕はてっきり・・・。」
「病気でしょ?あれは。」
「い、いや、まあ、ねえ・・・。」稲葉は苦笑い。
「お元気そうですね、卯月さん。お久しぶりです。」
宇佐美は落ち着いた静かな声で話し始めた。
それは李々子とはまったく違う、相手に敬意をもった話し方だった。
『連絡も取らないでごめんね、宇佐美くん。
でも忘れたことは無かったんだよ?ずっと。
この前ちかちゃんに会ってね、いろいろ教えて貰った。
しっかりやってくれてるってね。嬉しかったよ。
あの人に信頼されたんなら一人前だ。』
「・・・・そんなことないです。」
まるで先生に褒められて照れて困っている子供のような宇佐美の表情を
稲葉は不思議な気持ちで見ていた。
「そういえば卯月さん、あの赤いバッグのことはどうしてご存じだったんです?」
「そう!それ僕も聞きたかった!」思わず稲葉も身を乗り出した。
『ああ、あの朝意を決して李々子に声をかけようとマンションに行ったんだけどね。
やっぱりダメでずっと後ろをくっついて歩いてたんだ。』
「なによ、やらしいわね!」今度は李々子が噛みついた。
『そしたら駅のホームで知らない男の携帯をあのバッグにポンと入れて電車に飛び乗っただろ?
あんときの男の慌てぶりったら無くてね。
その後もしばらく李々子の回りをうろついてたみたいだから
返してやってくれっていう意味でメモを残したんだよ。』
「全部見てたんですね。」宇佐美が可笑しそうに笑う。
「まったく紛らわしいんだから。」李々子がムスッとしてつぶやく。
『宇佐美くん・・・・。』
「はい?」
『あのね・・・。』
急に改まった口調になった卯月。
宇佐美はスピーカーホンを解除すると声のトーンを落として話し始めた。
「はい・・・・ええ・・・。大丈夫です。・・・はい。」
宇佐美の表情が少し曇ったのを稲葉は黙って見ていた。
李々子をそっと見ると、李々子も浮かない顔。
・・・・僕に聞かれたらダメな話なんだ・・・。
何か大事な。
僕の知らない話。
入り込んではいけない事だってきっとあるんだろう。
・・・というか、自分はまだ何一つ入り込ませてもらっていない気がする。
仕事だって、プライベートだって。
僕は。
僕はまだ部外者なんだろうか。
何の役にも立てないんだろうか。
李々子まで黙り込んでしまった。
何とも言えず落ち着かない気分になり、稲葉はなんとなく双眼鏡で
宇佐美と電話中の向かいのビルの卯月を見た。
見えているのだろうか。卯月も稲葉の方をみてウインクした。
“ぶっ”と思わず吹き出してしまう稲葉。
楽しい人だな。
そう思いながらまだ宇佐美と真剣な話をしている卯月を見ていた。
今度は何を思ったのか卯月は横を向いて自分のお尻を軽くポンポンと叩いて見せた。
「・・?」
稲葉は首をかしげたが、やがてハッとさっきのことを思い出した。
やはりあの時おしりを触ったのは卯月さんだったんだ。
でも、なんで? ゲイだから?
稲葉は自分のお尻をなんとなく触ってみた。
「あれ?」
ポケットに何か入っている。
今まで気がつかなかった。
急いで取りだしてみる。
小さな紙片にやさしいきれいな文字が並んでいる。
「・・・・・・・・・・・。」
ちょうどその時宇佐美が電話を終えた。
「あ、李々子。替わらなくてよかった?切っちゃったけど。」
「一生、替わらなくていいから。」
「そんな毛嫌いしちゃ可愛そうだよ。いい人なのに。」
可笑しそうに笑う宇佐美。
「そそのかされちゃダメよ。ただのエロじじいなんだから。」
また小さな子供みたいに李々子は口を尖らす。
稲葉は黙って二人を見ていた。
「もう今夜アメリカに発つって言ってたよ。会わなくていいの?」
「いいのいいの。二度と帰って来るなって言っておいてもらえばよかったわ。」
「また酷いこと言うな。」
「それより諒、今夜いい?」
「え?何?」
「言ったでしょ?今夜ここに泊まってもいいって。」
「は? 何言ってんだよ。あれは違うだろ?」
「違うって何よ。あ、約束破るんだー。ウソつくんだー。ずる〜〜〜い。」
「バカかお前は!!小学生か!」
「シロちゃん、聞いた?ねえ、諒ったらずるいわよね〜〜。」
どっちもどっちな子供っぽい言い合いを始めた二人を稲葉は少し戸惑うような気持ちで見ていた。
向かいのビルにはもう人影はない。
稲葉はもう一度その紙片の文字を見つめた。
『どうか あいつの側にいてやってほしい。
君に 助けてほしい。』
・・・・・あいつって誰だろう。
李々子さん?
まさか。良く知らない男に娘を頼むなんて普通言うわけがない。
じゃあ、宇佐美さん?
まさか。
何だって完璧にこなしてしまう宇佐美さんの何を助けるって言うんだ?
僕なんかが。
ありえない。
わからないよ、卯月さん。
宇佐美は李々子に付き合うのに飽きたようにPCを立ち上げ仕事モードに入った。
遊びを途中で切り上げられてしまった李々子は拗ねた子供のようにムッとした顔で自分のデスクに戻っていった。
・・・だけど 卯月さん。
稲葉はその紙片を大事そうにまたポケットに仕舞い込んだ。
これは僕に宛てた“依頼書”なんでしょうか。
だったら僕はがんばります。
手探りだけど、まず側にいてあげることから始めます。
僕に来た最初の仕事。
そして何より、
僕はこの二人が大好きだから。
つづく(「ファーストミッション」終)




