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稲葉くんの憂鬱 第1話

時刻は午前10時20分。

約束の時間から20分過ぎている。

稲葉は少しソワソワしながら映画館の前で腕時計を何度も見た。


二日前の金曜日、やっと前園先生と映画を見る約束を取り付けた稲葉は

もうその日からずっと落ち着かなくてソワソワしっぱなしだった。

今日も約束の時間よりもずいぶん早く来てしまったために、

映画館の清掃員のおばさんにだんだん気の毒そうな視線を投げかけられ始めていた。


20分くらい何でもないさ。女の人は時間がかかるんだ。

稲葉はひとつ深呼吸し、気持ちを落ち着かせようと彼女が来る反対方向に視線を向けた。


ひとりの男と目が合った。


と、いうよりその男がじっと異様な眼力で稲葉を見つめているので嫌でも目が吸い付けられてしまったのだ。

稲葉に視点を合わせたまま、その50ぐらいの男は異様な足取りでじりじり近づいて来る。


思わず稲葉は回りを見回す。

しかしやはり男が見つめているのは稲葉だった。


ぼ、・・・ぼく?


丸坊主にした頭、浅黒い顔、目の下にはクマができ、ぎょろりとした目つきはかなり尋常ではない。

よく交番の掲示板に貼ってあるような形相の顔だった。


なんだ?なんで僕の方に来るんだ?

違うよな、僕じゃないよね。


けれど男はさらにフラフラと至近距離まで近づくと、持っていた紙袋を無造作に稲葉に差し出した。


やっぱり僕??


「ほれ、受け取れ。約束のものだ。

まったくこんな人通りの多いとこまで来させやがって。

いいか?ボスに言っとけ。今度から金は前金でよこせってな!」


「え?あの、え?」


「いいからさっさと行けよ!ごちゃごちゃぬかすとぶっ殺すぞ!」


「は、はいっ!」


あまりにドスの利いた声と目つきで睨まれたので稲葉は何も言えずに紙袋を受け取り、数歩後ずさりする。

男はもう一度稲葉を睨むとまたフラフラと人混みに消えてしまった。


唖然として立ちすくむ稲葉。


間違えられたんだ・・・。誰かと間違えられたんだ!どうしよう、返さなきゃ。


けれども男はもうすっかり人混みに消えて見えなくなってしまった。

たとえ居たとしても、もうさっきの男に「人違いですよ」などと言う勇気もなかった。


途方に暮れて稲葉はその小さな使い古した紙袋をじっと見つめた。

どうか大したものじゃありませんように。

そう願いながらのぞき込んだが中の物は新聞紙で乱雑にくるまれていて中身はよくわからない。


ぼくのせいじゃないよな。これは。


小さいくせにかなりズシリと重量感のあるその紙袋を稲葉は溜息混じりに目の前にかざした。


ハッと大事なことを思い出した。


前園先生。


時刻は10時40分。

あのきっちりした先生がいくらなんでも遅すぎだ。

携帯番号も渡してあったのにどうしたのだろう。

稲葉はショルダーバッグの中の携帯を探した。



・・・ない。 忘れた。



こんな大事な日に、どうして!?

稲葉は全身に嫌な汗をかきながら自分のバカさ加減を呪った。

これでは前園先生は連絡取りたくてもとれるはずもない。

今から自宅にもどっても小一時間かかる。

ダメだ、最悪だ。


稲葉はその場にうなだれた。

清掃のおばさんがさらに気の毒そうな視線を投げかけて来たので

稲葉はいたたまれなくなり、人気のない路地に逃げ込んだ。


わけのわからない紙袋がやけにズシリと重い。


なんだよこれ。こんな物ここに置いていってやる!

いや、さっきのおばさんに見られてるからそうもいかないか。


稲葉は急にそのつつみが憎らしくなり、ガッと掴み出すとバリバリとその新聞紙をめくり始めた。



「・・・・・・。」


中身はすぐに顔を出した。


稲葉は無表情のまま少し固まっていたが、

急にまた無表情のままガサガサと包みを元に戻して中身を隠すとそのままもう一度固まった。



どっからどう見ても拳銃だった。



一瞬触れた指先がその妙な冷たさを感じ取ったのに、まだ稲葉は今見た物が信じられない。

だいたいそんな物が自分の手の中にあるなんて馬鹿げている。

でも、事実だ。さらにその手の中の塊は重量感を増して稲葉に存在をアピールしている。


稲葉は急に怖くなりあたりをキョロキョロ見回した。


どうしよう。警察か?いや、待て。僕は見られてる。

あれはどう見ても取引現場じゃないか?

かといってこんなもの、ここに置いて行くわけにもいかない。

どうしよう。


とっさに脳裏に宇佐美が浮かんだ。

バッグに手を伸ばし携帯を探す。


「・・・・・。」 忘れてたんだった。


再度稲葉は自分を呪った。

けれど凹んで居る場合じゃない。

自宅に携帯を取りに帰るよりもラビット事務所の方が圧倒的に近い。

行こう!

第一こんな物持ってデートなんてあり得ない。


すぐに稲葉はタクシーを止めて事務所に向かった。

そして降りるときに気が付いた。



財布を忘れた・・・。



幸い小銭入れは持っていたので支払はできたが、すっかり稲葉は自信を無くしていた。

朝も小銭で電車に乗ったので今まで気がつかなかったのだ。


けれどもやはり凹んでる場合じゃない。

ふらふらしながら13階の事務所に上がっていく。

日曜日だから二人とも居るはずだった。


“あれ?デートじゃなかったの?”って、ぜったい李々子は言うな。

昨日得意げにデートのことなんて言うんじゃなかった。

ますます稲葉の心はしぼんでいく。


ドアを開けると事務所の中に二人の姿はなかった。

けれど鍵はかかってなかったわけだから誰かいるに違いない。

電気だってついたままだ。


少し気がとがめたが、稲葉は宇佐美の自室へつづくドアをそっと開けてみた。

鍵はここもかかっていない。やはり居るみたいだ。

稲葉はなぜか、なんとなくそうっと足をしのばせて部屋に入っていった。


入ってすぐは沢山の書棚が壁一面に造り付けてある広めのリビングダイニングだった。

奥に小綺麗なキッチンがある。

その横にはバスルームに続くガラス張りのドア。

リビングの横にもう一つあるドアは寝室に続いていて、奥でバスルームに繋がっているのだろう。

とにかく片づいたきれいな部屋だった。

壁一面に納められた書物は全て医学関係の難しそうな本ばかりで、稲葉は思わず息をのんだ。

いったいあの人は何なんだ?



“コン・・・”


奥から微かなくぐもった音。そして人の声。


ハッとして稲葉は我に返る。


もう一度耳をすませてみる。・・・・水音だ。

シャワーの音。

そして聞こえて来たのは李々子の声だった。


くすくすと笑いながら何かしゃべっている。

シャワールームから隣の部屋にいる誰かに話しかけている。

いつもよりさらに艶っぽい、可愛らしい声で。



「・・・・・あ。」



稲葉はとっさに動きを止めた。

そして頭の中に浮かんだイメージをブンブンと頭をふって振り払った。

全身にまたしても汗をかきながらジリジリ後ずさりする。


さっきは気付かなかったが、テーブルの椅子に李々子のバッグと、

見覚えのある鮮やかなカーディガンが掛かっていた。


さらにそーっと足を忍ばせてドアの所まで行くと、注意深く音をたてないようにそれを閉めた。

そのまま、まるでゼンマイ仕掛けの人形のようにぎこちなく事務所をぬけて廊下に出る。

なんとかエレベーターに乗り込むが、

もはやボタンを押すのも忘れて正面の鏡に映った自分をただ見つめていた。

何の罰ゲームか、手にしわくちゃの紙袋をさげて立たされている男が映っている。



・・・・いや、いや、いや、全然おかしくない。

そうだよな、うん、そうだ。

僕が動揺する方がおかしいんだ。そうだよ。

ぜんぜん、おかしくない・・・・。


・・・ぜんぜん・・・。



急にガタンとエレベーターが動き出した。

誰かが呼んだのだ。体が降下していくのがわかる。


・・・僕はどうしようかな。お金も携帯もない・・・。


今日は喫茶鳳凰も定休日だ。

手に持っている紙袋がさらにズシリと重い。



もういっそのこと、このエレベーターが地の底まで行ってくれたらいいのに。


自分の不運とバカさ加減に打ちのめされて、稲葉はがっくりとうなだれた。




                    (つづく)



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