98.Road
ジェットブーツの最速は、常人ならば視界に捉えることすら困難だろう。強い向かい風で、俺の皮膚が裂けるほどだった。血が流れ、直ぐに再生する。それを繰り返しながら、空中を蹴り続け、神のもとへ近付く。すると、ある地点を境に泥の柱から、そして地上の泥だまりから何本もの渦が発生し、俺へ向かって襲い掛かってきた。その数たるや二桁をゆうに超えていた。
「黙って行かせてはくれないよな」
渦は巨大で、速度も恐ろしく速かった。飲み込まれないように全力で上昇し続けても、少しずつ追いつかれていく。
一つの生物が起こした現象とは到底思えない。これは、まさに災害だ。何百もの泥の塊が迫ってくる様は、世界の終末を想像させるには十分だ。幾千もの戦いに繰り出してきたが、流石に、恐怖を感じる。だが、当然、足を止めることはない。
いよいよ渦から逃れることが難しくなってきた。俺は空を走りながら師匠の銃を抜き、渦へ向かって発砲した。残念ながら、渦は破裂しなかった。銃弾を飲み込み、更に巨大になると、再び俺に向かって伸びてきた。
「おいおい……卑怯だろ」
俺は銃をしまい、鞘に手をかけ、剣を抜く。斬撃を放つと、渦は二つに割れた。効果はあったが、渦は直ぐに接着する。当然か。相手は泥だ。半液状の物質。刃が効く道理はない。
段々と思考にさく時間が減っていく。このままでは飲み込まれる。俺はバーサーカーの鞭を右手に、黄金の槍を左手に持った。両手が塞がり速度は下がるが仕方がない。鞭と寄生植物の蔓で泥を叩き落とす。目論見は成功した。
「よし……」
一つ叩き落とす。続けて次が来る。それも叩き落す。繰り返す。渦の数は無限、その上、増加を続ける。いよいよ、視界の全てが泥に覆われた。
俺は自分の身体を寄生植物で覆った。足が止まり、落下する。しかし、それで渦を一時的にしのぎ、寄生植物を解除すると同時に泥を叩き落とした。立ち止まる時間はない。再び上昇する。
そこで異変に気が付いた。段々と、寄生植物の生成が鈍くなっている。生じた蔓は小さく、動きも遅い。更に、ジェットブーツの速度も落ちてきている。
UL不足だ。一度に使用するULの量が過剰で、自分の身体の生成量を上回ったのだ。滅多に生じる現象ではない。それどころか、俺自身経験したことも、見たこともない。噂で聞いたことがある程度の、稀なケースだ。
困惑するよりも先に、納得がいった。ジェットブーツの出力は100%、身体は常に傷を負い、鞭の電撃と寄生植物の蔓にULを与えていた。有限なエネルギーならば、枯渇して当然の有り様だ。
だがULを節約する訳にもいかない。節約すれば泥に飲まれて終わる。
「限界を、超えろ」
重い疲労感。久しぶりの感覚だ。面白い。俺は人間に戻っている。
速度が落ちても、身体が鈍くても、俺は鞭と蔓を振り回し続けた。少しずつ、傷は回復を止めていく。血は流れ続け、体中が痛む。当然だ。これが生きるということだ。
ついに鞭の電撃は消え、寄生植物は芽が出る程度になった。俺は鞭と槍を手離す。遥か遠くに落ちていく。右手にブレイド、左手に刀を持ち、襲い掛かってくる泥を斬り裂いた。一時しのぎだ。だが、無意味ではない。僅かに時間を稼げればそれでいい。
今や、俺は雲の上にいた。太陽の光が皮膚を焼く。呼吸もできているのかどうかわからない。意識もはっきりしない。だが、難しいことは何もない。ただ、上に向かって進むだけだ。
泥の渦の数は減った。地上からの渦が届かなくなったからだ。迫りくるのは柱から延びる泥だけ。
だが、最早、ほとんど機能しなくなったジェットブーツではその程度が脅威となった。俺は、ついに泥に飲み込まれる。
それでも、諦める訳にはいかないのが英雄の辛いところだ。
俺は泥の中で剣を離し、左手を伸ばした。リストブレイドの射出機能を作動させる。ブレイドは飛んでいき、泥の柱に突き刺さる。全くの偶然だが、突き刺さるということは、もはやその範囲は流動状ではないということ。つまり、この天空において、何者かが存在できる場所、ということだ。
俺はブレイドのワイヤーに引っ張られて泥から逃れ、そのまま、勢いをつけて身体を捻り、上空に飛び出した。そして、右手に銃を持ち、トリガーを捻る。
銃口の先には、人間の形をした者がいた。下半身は泥に飲み込まれるような形で、ただ柱の頂上で佇んでいた男。彼は俺を見ると、一瞬目を大きく開き、全てを悟ったように笑みを浮かべると、瞼を閉じた。
神、あんたが間違ったわけじゃない。
ただ、俺とあんたの道が重なっただけだ。
問題なのは、通れる者が一人だったこと。
俺は行くぞ。
「悪いな。助けてやれない」
あんたは、もう休め。
俺が引き金を離すと、神の頭を銃弾が貫いた。
泥の柱が崩壊する。
大量のULの塊が、地上へと落ちていく。
俺も、地上へ向かって落下した。
止める手段はない。ULは空っぽ。身体も動かせない。
生存は不可能。
でも、まぁ、冷めたただの学生だった奴が、よくも、ここまで来たものだ。
人生には意味がある、前世の俺は、この言葉に縋って、意味のないと思われる道を歩いていた。
まさか、死んでから、こんな大役を任されるとはな。
今となっては乾いた笑いが浮かぶ。
人生ってのは、わからねぇもんだな。
俺は瞼を閉じ、その時を待った。
「諦めるな!!」
誰の声だ?
気持ちよく眠ろうと思っていたのに、誰だ?
「諦めるな!!」
うるさいな。
俺がもう一度目を開けると、大陸が見えた。戦場だ。ああ、そうだ。北の雪山、東西の密林、南の砂漠。ここで俺は、俺達は戦ってきた。
なんのために?
「生きるためだ!」
俺は歯を食いしばり、ジェットブーツを起動する。ULの枯渇した身体では大した出力もでないが、空中を蹴り飛ばすことはできた。
落下の勢いは全く衰えない。このままでは地面に身体を打ち付ける。少しでも生きる可能性が高そうな落下場所は……あそこだ。密林の中で湖が見えた。
俺はジェットブーツで自分の身体をひたすら移動させた。湖の真上まで来ると、駄目だ、雲よりも高い場所からの落下だ。水の上に落ちてもただじゃすまない。
俺は湖に向かってチューブガンを向け、撃った。勢いをそぐためだ。果たしてどの程度の効果があるのかは不明だが、やらないよりましだ。チューブガンを可能な限り連射する。
そして、思いっきり着水した。
ああ、格好いい最後じゃないよな。わかってる。
はっきり言えば、無様だ。大人しく死ぬことを拒否して、不細工になっても必死になって生き残ろうとしたんだから。
言い訳をすることはできる。
例えば、俺が死んだら誰かが悲しむ、その為には死ぬわけにはいかない、とかな。まぁ、それは少なくとも嘘じゃない。そう思ってる。
他には、しろの「生きて」という声が聞こえた、とか、どうだ? 感動的だろ?
でも、こうなんじゃないか、って理由を並び立てて見ても、俺の心は釈然としない。どうやら、違うみたいだ。俺が生き残ろうとあがいたのには別の理由がある。
「諦めるな」と、声が聞こえた。
あれは、俺の声だ。
とても、とても、簡単な話さ。
俺は死にたくなかったんだ。
生きて、幸せになりたかったんだよ。
だから、湖からなんとか這い出て、そのまま仰向けになって空を見上げた時は、心の底から生きてることに感謝した。
ただの青い空が、狂おしいほど愛しく見えた。
人間、最後まで足掻いてみるもんだな。
だが、この時の俺は気の利いたセリフなんて思い浮かばなかった。
息を長く吐いて、小さな声で言ったよ。
「あーよかった」
ってな。




