96.Mud
神の言葉は奇妙な温かさを持っていた。彼の共通思念による声が俺の心に届くと、否応なく感情が揺れた。おそらく、これが多くのキメラに影響を与えた神の力なのだろう。
神はその赤い目で俺の瞳を見詰めながら、そっと続ける。
『そう、私は昔、君のもとで世話になっていたしろという兎の記憶を持つ』
「……なんだ、そりゃ」
俺が前世で飼育係として受け持っていたうさぎ。それが神の正体だと?
『いいや、厳密にいえば正体、ではないよ』
俺の心の中の問いに、神が答えた。言葉として発したつもりはないのだが、成る程、これも神、か。俺がやや強引に自分を納得させると、神は話を続けた。
『しろは、私の中の一部だ。私は3万5900匹の様々な生物から身体を合成されたキメラ。君のペットとしての記憶もあれば、その他の多くの生物の記憶もある。勿論、人間としての記憶ももっている。私自身の意識がどの生物のものなのか、はたまたどの生物でもないのか、判断は付かないがね』
ああ、またもや規格外だ。3万以上の生物が一まとめになったキメラだって? 最早、頭の中がどうなっているのか想像がつかない。
『私は死したキメラの記憶を読み取ることができる。ところが、君が活躍を始めた初期の頃、私は君に関する情報を得ることができなかった。その結果、君が私達にとってどれほど危険な存在なのかを、同胞に伝える手段がなかった。そして、君の手によって多くの同胞を失った。私が君に関する記憶を読み取れなかったのは、私の中に混在する意識の中で、君の情報をシャットアウトするように妨害していたものがいたからだ』
それが、しろか。考えただけで、神は『ご名答』と返事をする。
『随分と、兎に気に入られていたようだね。でも、通常はそんなことはあり得ない。3万5900分の1の生物によって私が能力を阻害されるなんてね。そこで記憶をたどるうちに判明したのが、君の死因だ』
突然、そんな情報を明かされては困惑する。
「さっきから、何の話をしているんだ。俺を動揺させるつもりか」
『そうではないと、理解しているだろう?』
俺の怒りを感じても、神は微塵も揺らがない。
『では、続けるが、君はそのしろを助けるために命を閉ざした』
高校の檻に入れられていた兎のしろがある日、脱走した。飼育員が捜索するも見つからなかった。たかが、兎一匹。飼育員なんてほとんどの人間が無理矢理押し付けられた仕事だ。だが、まぁ、俺は可愛がってた兎がいなくなるなんて困るので、必死に探したわけだ。それこそ、一人になっても。
で、下校途中に偶然、しろを見つけた。俺は大慌てで捕まえに行こうとした。そこから、記憶はない。
『君は、私が電車に轢かれるそうになっていることに気が付いた。そこで、慌てて私を突き飛ばし、逃げようとするも間に合わず、死んだ。君は死んだが、しろは助かった』
ああ、そうだったか。すっかり忘れてたよ。その話を聞いたら、ヴェロニカは喜ぶんだろうな。おかげで、兎のしろは神の一部になった後も俺を助けてくれたらしい。
「随分スケールの小さな話になってるな。戦争のクライマックスだってのに」
『決して、そんなことはない。君という一つの人生の終わりだ。非常に重要な話だ』
ああ、そうか? 慰められている気分だ。
『仮に、それが小さな話でも、ことは大きくなっている。君はその行為のおかげで死に、戦場に辿り着き、過去最高の結果を出した。私はその行為のおかげで助かり、後に戦場で君の情報を読み取ることができず、失敗を繰り返し、今まさに敗北しようとしている』
まるで、バタフライエフェクトだな。何が起こるか分からないもんだ。だが、
「俺はあんたを殺すつもりはない、って、分かってるよな」
『ああ、わかっている。君はリデルと戦った時もそうだった』
成る程な。なんでキメラ連中が俺の名前を知っているのか理由が分かった。そういえば、リデルに名乗っていたんだっけな。リデルの記憶を読み取った神が広めたわけか。
「まぁ、いいさ。あんたの中にしろがいるって聞いたおかげで余計にそう思う。あんたを殺したくない。殺さなくても解決する方法はある」
『休戦か』
「そうだ。あんたが今後送られてくるキメラも含めて人間に手を出さないように連中へ命令すればいい。そうすれば、少なくとも、キメラと人間が戦う必要はなくなる」
動物と人間の戦いは残るが、そこは仕方がない。生存競争はいつの時代だって存在していた。少なくとも、キメラが人間を襲わなければ、この戦争の有り方は相当変化する。
「悪くない提案だろ?」
『私が今まで君達にしてきた全てはどうなる。許すとでも?』
「それを言うなら、人間だって同じだろう」
『条件は同じ、ということかい?』
「ああ、そうだ」
この案が成立すれば、未来人には形式上戦争が続いているように見える。ギークの革命がどうなろうが、未来人が俺達に手を出すことはなくなる。
俺が神からの返事を待つと、神はぼそりと呟いた。
『同じ、ではない』
「なんだって?」
『リズ、ブラック、キングが死んだ』
残存していた3体のキメラか。
『葉鳥秋也。理解しているはずだ。そんなことは、延命でしかない。この島の、死者の、延命だ。果たして、そんな行為に意味があるかな?』
「ああ、延命だ。いつかは滅びる。でも、それは死者だけじゃない。命のある全てはいつかそうなる。なら、限りある命を続けるのが俺達の使命だろ。あんた言っただろ。人生には意味がある。しろなら知ってるよな。俺の好きな言葉さ」
『そういう訳にはいかないんだ。葉鳥秋也』
神の言葉に初めて揺らぎを感じた。
「……なんでだ。死にたいのかよ」
『そうだ』
違う、と言われることを期待していた。
『葉鳥秋也。私は全てを終わらせる』
「何言ってる」
『この島そのものを終わらせる』
自分が死に、人間も巻き添えにする、という意味か?
「俺があんたを殺しても、未来人はこの島に手が出せない。そうなるように策を仕込んだ」
『ああ、知っている。今この場で、君の意思を読んだからだ。ウーヴェ・ランゲルト。彼の策だな』
だが、無駄だ、と彼は言った。
『長い戦いで死んでいった同胞達の為にも、私はこの戦場でただ敗北することは選ばない』
「だから、休戦をっ」
『人間と共に生きるつもりなど毛頭ない!』
神の共通言語が響いた。なんて奴だ。
「お前も人間だろ」
『私は人間ではない。動物でもない。キメラだ。人間を激しく嫌悪するように製造されたまがい物の命だ。だが、まがい物にはまがい物の誇りがあり、仲間がいた。私の存在は彼等の希望となるためだけにあった。そうなるようにこの私が決めたのだ。だが、その仲間も、今やいない』
神の深い絶望を感じ、辺りが一層暗くなったように感じる。立っているのも重苦しかった。
『葉鳥秋也。君に殺されるつもりだった。殺され、未来人の手によって君達も滅びる。それで終わりのはずだった。だが、計画を変更する。君達が抜け道を用意したのならば、それもまとめて滅ぼす』
「そこまで、俺達が憎いのか」
『そうだ。すまない、葉鳥秋也。君の優しさは痛いほど心に染みた。だが、それで立ち止まることはできないのだ』
神が叫び声を上げると、床一面が汚泥に変化した。
「なんだよこれ!」
『私は神、あらゆる生物の複合体だ。この洞窟も私の一部でしかない』
白い鹿の姿は消滅し、泥のうねりが辺りを覆いつくす。俺は寄生植物で自らを囲い込んだ。
『私の中に存在する莫大なULの暴走だ。全てを飲み込むまで止まることはない』
神に戦闘力はない。確かにそうだろう。だが、これは戦闘力という次元の問題ではなかった。俺は寄生植物を泥の中で伸ばし、洞窟の中にいた生存者を全員蔓で保護し、まとめて泥の外に出ようと動かした。
地面をえぐってその中を感覚だけで数キロメートル移動し、蔓を解除した。俺が囲った数十名の生存者たちは泥まみれで困惑を現す。
「何が起こったんだよ!?」
「ここはどこだ!?」
混乱の中で、俺の存在に気付いた英雄達やパーカーが尋ねた。
「葉鳥!」
「やっぱり君の蔓か。助かったよ」
「葉鳥、あれはなんなの?」
隻腕のマッチョナース隊長が尋ねた。俺はギョッとしつつも、答える。
「神……です」
「仕留めそこなったの?」
「葉鳥さんが?」
仕留めそこなった……確かにそうだろう。直ぐに殺しておけば、こんなことにはならなかった。
遠くからドローン兵器に乗った北の一団が駆けつけた。ギャンブラーが崩壊する洞窟から彼等を助け出したらしい。一足先に洞窟を抜け出た彼等も、突然現れた泥の塊に困惑していた。
「あれはなんなんだ」
「どんどん広がっていくよ……」
「芸術性は感じられませんね」
泥は中央が天まで伸びてその先端が見えなかった。そして、その根元の泥は円状に広がり、どんどん密林を侵食していく。泥に飲み込まれた木々は薙ぎ倒されていった。
「どこまで広がるんだ」
「街まで行けばみな助からんぞ」
「止める手段はないのか」
俺は絶望的な光景を視界におさめながらため息を吐いた。
戦争は終わった。その代わり、全てを飲み込む泥が出現した。
「困っちまうな」




