93.Lizu 4
遠くで私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
声を辿って目を開けると、温かい日の光の中で、お姉ちゃんが制服姿で私の顔を見詰めていた。
「〇〇、やっと起きたの?」
時計を見ると、大変だ。もう学校に行かなくちゃいけない時間だ。私は飛び起き、
「なんでもっと早く起こしてくれないの!」
と、お決まりのセリフを上げる。すると、これもまたいつものセリフ。お姉ちゃんは呆れた顔を浮かべ、
「何度も起こしたわよ」
と告げた。
階段を駆け下りてキッチンに行くと、お母さんとお父さんがご飯を食べていた。
「もう、〇〇! ごはん早く食べちゃいなさい」
「〇〇は朝が弱いなぁ」
お母さんも、お父さんもそう言ってから笑顔を浮かべる。
ご飯を急いで食べて、「行ってきます」と大声を上げてから、「いってらっしゃい」の返事を微かに耳に入れて、玄関の戸を開ける。そこで、ちょうど新聞配達のアルバイトから帰ってきたお兄ちゃんが、「おっ」と驚いた顔を見せた。
「〇〇、今からか」
「うん、行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
光に包まれ、再び目を覚ますと、私は洞窟の暗闇の中にいた。
最近何度も見る夢。いや、夢じゃない。私にはわかっている。これは、記憶だ。
私の記憶。私のもとになった人間の記憶。温かい世界、家族……未来。永遠に続くと感じていた時間。
『こっちだ!』
『いたぞ! この反応は、キメラだ!』
私が目を向けると、何人もの兵士達が私に武器を向けていた。私は鈎爪を伸ばし、間もなく戦いに飛び出す。銃弾を避け、剣を受け流し、身体を切り裂く。兵士の身体は薄い盾に守られている。でも、何度も攻撃すれば盾は砕ける。なら、何度でも爪を振るおう。
戦っている間も、私の頭の中は先の記憶に捕われていた。
私は、いいや、記憶の中のあの子は間違いなく幸せだった。家族に囲まれ、友達もいて、夢もあった。ある日、突然それを奪われ、私にされてしまった。人を甚振ることに快感を覚える私に。
何人も殺した。どんな人も容赦なく。私は切り裂き、食らい、自分の糧にしてきた。
「ごめんね」
あなたの夢を叶えてあげられなくて。
私は兵士にとどめの一撃をくらわそうと腕を振った。その腕は、弾かれた。風を纏うブーメランによって。
『……久しぶりね』
ショットタウンの新たな英雄、風使い。敢えて、そう呼ばせてもらおう。
『セシリア、どうする?」
『キャサリンさん達は前へ。私の隊はここで彼女を……』
『……わかったわ』
私は、前に進もうとする兵士達を無視した。無視して、風使いをじっと見つめた。後ろにいる兵士達は目に入らなかった。
私は叫び、前に進んだ。私がすることは変わらない。例え、相手が誰であろうと。
全速で空中を飛び、爪を振るう。風使いはブーメランをいくつも取り出し、順番に投げる。私はそれを避け、弾く。
『隊長! 私達は』
『手を出さないで』
風使いは一人で戦うつもりのようだ。ブーメランはこの洞窟では扱いにくいだろう。それでも、一人で。
私はつむじ風を生み出すブーメランを力いっぱい弾き、更に前進する。弾いたブーメランは洞窟の壁をえぐり取り、地下水があふれ出した。私は水を浴び、遠い記憶を思い出す。
「〇〇!! ねぇ、〇〇!!」
酷い雨の日だった。制服姿のお姉ちゃんは傘もささずに、私の身体を抱えている。
私の身体は動かない。自分の身体から温かい血が流れ、お姉ちゃんの制服に染み込んでいく。ああ、せっかく綺麗なお姉ちゃんが、私のせいで汚れてしまう。
「返事してよぉ!!」
ぼんやりとする頭の中で、お姉ちゃんの声だけがはっきりと聞こえる。
私を轢いたのが誰なのかはわからない。私の全身が砕かれているところを見て、直ぐに逃げ去ったからだ。でも、そんなことはもう、どうだってよかった。
「〇〇!」
いよいよ、お別れの時だ。死にたくない。みんなと一緒の世界にいられなくなるのがつらい。私はお姉ちゃんの手を最後の力で握り、全てが消えた。
簡単だ。簡単に終わってしまう。感謝も、愛も、誰にも伝えられなかったのだから。
私は水を浴びながら風使いに接近する。もう、爪が届く間合いだ。風使いはブーメランを投げつくした。これで、私が爪を振れば、全てが終わる。
「さようなら」
私の爪が届く瞬間、私の肩を何かが斬り裂いた。
私は地面に倒れ、風使いを見上げる。彼女は、一本の剣を持っていた。木の柄の真剣。その柄は、どこかで見た覚えがある。さぁ、どこだったかな。
『隊長!』
『やりましたね!』
歓声が聞こえる。私が死ぬことへの喜びを感じる。
『あなた達は先に行きなさい』
『え、でも』
『いいから』
部下を先に向かわせ、風使いは膝を地面につけて、私を抱えた。
『覚えてる? 昔、こうしてよく抱っこしてあげたの』
言葉の意味は分からない。でも、感情だけは伝わる。その顔を見れば、誰にだって分かる。風使いは笑顔を見せながら、涙を流していた。
『最初見た時は、そんな訳はないと思った。でも、見間違う筈がない。あなたは私の大事な妹だもの。あなたが逝ってしまってから、小さな頃の写真は、毎日見続けていたから』
私の身体から流れる血が、再びお姉ちゃんの服を汚す。私は動かず、じっとしていた。
『リル……リル・アパーテ』
ああ、そうだ。私の名前は、リルだった。
「リル、やっと起きたの?」
「もう、リル! ごはん早く食べちゃいなさい」
「リルは朝が弱いなぁ」
「リル、今からか」
記憶の中の言葉が、やっと聞こえるようになった。兄さまも、随分と似た名前を付けてくれたものだ。
お姉ちゃんの涙の雫が私の顔に落ちてくる。なぁに? せっかくの綺麗な顔が台無しだよ。
「泣かないで……お姉ちゃん。泣かないで……セシリア」
私が口を開くと、お姉ちゃんは驚いた表情を浮かべ、抑えていた全てが噴き出したように、大声で泣いた。言葉は通じない、通じることなんて、ない、筈だ。
お姉ちゃんに痛いほど抱きかかえられながら、私は意味はないと分かっていても、言葉を紡いだ。
「お姉ちゃん、ありがとう。大好きだよ」
「私も! 私も大好き! リル! リル!!」
ああ、神様は最後に、なんて素敵な贈り物をくれたのだろう。罪深い、こんな私に。
意識が遠のいていく。終わりの時がきたんだ。
兄さま、貴方にも救いがあるといいのだけれど。
私は救われたよ。最期の最期、その瞬間に。




