7.Common
川の水で顔を洗う。服に飛び散った血を落とす。
熊を殺してから随分と身体の調子がいい。不気味なほど力が湧いてくる。この土地に来てから恐怖の対象だった怪物を倒し、一歩次の段階に進んだようだ。
ところが、俺はそんな自分に違和感を持っていた。命を奪うことに喜びを感じる、文字に起こしてみれば、とんだ異常者ではないか。
しろが傍に寄って、タオルを貸してくれた。洗濯機も洗剤もないこの世界で、彼女の持ち物は何故か良い匂いがする。俺は礼を告げてそれを受け取る。
「しろ……さっきの俺……」
どんな表情してた?
言葉を飲み込んだ。答えを知るのが怖かったからだ。
しろは微笑んで、手をぐっと握った。
すごかったよ。そう言っているように思った。
「はは……そうか」
そうじゃないんだけどな。
俺達は旅を再開させた。
熊が死んでから、何度か例の猿や大きな昆虫、大きな蝙蝠に襲われた。俺は全て、俺達に近付く前に射殺した。
何度か人の死体を見つけたが、全て白骨化しており、着ている服も俺達の時代の物に近かった。武器も近くに見当たらないところを見ると、この世界に訪れて直ぐに化け物に襲われて死んだのだろう。俺達はこの世界に来た時、死ぬ直前に来ていた服を着せられていたから。
しろが一つの死体に注目して動きを止めた。間もなく死体のバッグを漁り始める。彼女のこういう点に、俺は正直なところ若干引いていた。こういう点というのは、死体に全く臆しないところと、死体とはいえ人のバッグを勝手に漁るところだ。育った時代が違うから、特に彼女が生きた時代は大変な時代だから、考慮して口には出さないでいた。
「メモ帳か……」
彼女が取り出したのは2019年と記された予定帳。
師匠が言っていた。蘇生され送られてきた人間は、皆死ぬ直前の持ち物を再現し、所持して送られてくる。方法は知らないが、未来人はミイラ化した死体の生前の持ち物を知る術と、それを作り出す技術も持っているようだ。全く余計なところに力を入れてくれる。そんな手間をかけるぐらいなら、未来人の武器を渡してほしい。現状の説明書付きで。
「しろ、俺の国の言葉だから読ませてくれ」
メモ帳は日本語で書かれていた。この死体は日本人らしい。スケジュールが細かく書かれている。メモ帳の中身まで再現してあるのか。
「特に情報はないな。この人、こっちに送られてから、このメモ帳を開いてすらいないんじゃないか」
デートだのテストだのの日付が書かれている。白骨化しているから分かるはずもないが、この人も学生だったらしい。死んだ時代は僅かに違うが、俺と同じだ。
しろは残念そうに肩を落とした。その反応はいつもの彼女らしくない。妙だなと思う。現状、俺達がやることは決まっているのだから、そんなに気を落とさなくてもいいのに。それに、この世界の事情を知る前に死んだであろうこの死体から、新しい情報など手に入ることはないだろう。何を期待していたのだろうか。
それから先も、しろの様子はおかしかった。辺りをやたら見渡したり、先行しようとしたり、生えている植物を図鑑と照らし合わすのに時間をかけていたり。
日が暮れて、俺達は休息をとった。しろは俺に自分の分の食料を勧めてきた。
「どうした? 今日ずっと、いつもと違うけど」
気になって尋ねると、彼女は押し黙った。
随分と沈黙が長い。長すぎて、寝ているのかと思った。
「しろ? しろさ~ん」
呼びかけると、彼女は観念したようにジェスチャーを始めた。
わたしは、あなたの、役に立たない。
せめて、できることを、しなくちゃいけない。
しろは悩んでいたらしい。自分が俺の重荷になっていると。
熊との戦いで、俺と熊が超接近したとき、自分が何もできなかったことが悔しかったのだと。
「君がいなければ、俺はとうにダメになってるよ」
しろは首を傾げた。
どういう意味?
「ほら、守るパワーってあるだろう。守りたい人がいると、俺は強くなるんだよ」
少年漫画の理論だ。彼女には通じなかったらしく、口を開けてぽかんとされた。悲惨だ。滑り倒した気分だ。俺は咳払いをして凍り付いた空気を払いのけようとする。
「俺は怖がりだからさ。一人でこんな森にいたら、訳がわからなくなって戦うどころじゃなくなる。君がいてくれるだけで落ち着けるんだよ。それに、女子の前だと格好つけたくなるパワーで、いつもより強くなれる。本当だよ。男ってのはそういうもんだからな」
自分で喋っていても本音なのか冗談なのかわからない。とにかく俺はペラペラと話した。
彼女は引いているだろうと予測する。別に構わない。申し訳ないと思われるより、俺のことを変人だと思ってくれた方が付き合いやすい。昔から、そうやって生きてきた。
ところが、彼女は目に涙を浮かべていた。
どうしてそんなに優しいの?
意外な反応だ。今の発言のどこに優しさがあるんだ。
「優しくないよ」と返すのが精一杯だった。
共通言語という言葉がある。これも師匠から聞いた話だ。
「ULを投与された人間は、言語間の隔たりがなくなる。私が英語を話し、お前が日本語を話していても、会話が成立する。時代や方言、細かなニュアンスも伝えられる」
故にこの世界では人間であれば皆が会話できるという。
「言語障害があった者でもULの再生能力で言葉を話せるようになることが多い。ところが、しろはULの恩恵にあずかれていない。生前の喉の負傷が、ULで再生しきれなかったようだ。幸い、共通言語は通じるようだが、お前達がコミュニケーションをとるのは非常に難しい」
と聞いていたのだけれど、気が付けば、俺はしろのジェスチャーで細かい感情までくみ取れていた。それだけではなく、彼女の感情が、気持ちが、直接心に届くような感覚があった。
共通言語ならぬ共通感情か、これもULの力なのか。よくわからない。
何故こんな話を今したのかというと、彼女の心がダイレクトに俺の心を揺さぶったからだ。
俺への感謝の気持ち、それを伝えきれないことの悲しみ、無力感からの焦燥。
突然、俺の脳裏には、彼女の遠い記憶が浮かんだ。
彼女は、家族と無理矢理引き離され、暗く、汚い所に送られた。悲しみの中で、仲間を励ましていた。
その空間で彼女は太陽のように輝き、希望となった。それをよく思わなかった看守は彼女を酷い目に合わせた。そして、最期は皆の目の前で吊るされた。最後の彼女の記憶は、自分を見上げる同胞たちの悲しみと諦めの眼差しと、看守の笑った顔。
俺は彼女を思いっきり抱きしめたくなった。涙を流していたかもしれない。俺の比較的強い理性がそれを押し留めたが、彼女が気の毒で仕方なかった。
しろは驚いただろう。隣にいた男が、急に挙動不審になったんだ。
「俺は何にもないただの高校生だけど……絶対、守る。君だけは守る」
そんなことを言い出した。俺自身混乱していたのもある。そもそも、俺は気の利いたことは言えない。不器用だからだ。
「無理しなくていい。今度こそ幸せになってくれ、頼む」
彼女は状況を理解しきれていなかっただろう。
相棒が訳の分からないことを喋りながら泣いている。ドン引きだ。
我に返って「ごめん、驚いたよな」と謝ると、彼女は微笑んでいいよと伝えた。
大丈夫?
彼女の問いに、俺は頷いて答える。
戦う意義は見つけた。例え他の命を奪っても、だ。
次の日、俺達は問題なくグレートウォールへたどり着いた。
密林の中で、十メートルほどの石の壁が目の前に広がる。
この世界の人工物の登場は、心を湧かせる。




