2.Strange
川だ。
水の流れは激しかった。濁流の中で何度も回転しながら、滅茶苦茶にもがいた。
上手く岸にたどり着けたようで、地面に手をつけて幼児のように這って上がる。大きく深呼吸をして、崖の上を見ると、例の熊が遠くに見えた。あの化け物も、流石に崖から飛び降りる気にはならないらしい。
安心する間もなく、一緒に落下した少女の存在を思い出す。溺れまいとあがくのに必死で忘れていた。焦りのあまり考えもなく川に戻ろうとすると、息を乱しながら少女が川から上がって来た。
俺は手を差し出した。謝罪を込めて。彼女は驚きの表情を浮かべて、俺の手を取った。彼女の手はぞっとするほど冷たかった。
水の流れる音と、服から滴り落ちる雫の音。俺は無言に耐え切れず、言葉を吐き出した。
「ごめんな。崖なんて、思ってもなかった」
一度喋り始めると止まらなかった。
「しかし、なんなんだよあれ。信じられねぇよ。熊……馬鹿みてぇに追っかけてきやがって……殺す気満々じゃねえか。その上、あの死体……最悪だ。滅茶苦茶だよ。何がどうなってんだ。くそ……」
一人でペラペラ喋る俺の肩に、彼女は優しく手を置いた。視線をやると、自分の胸に手を当て、すーはーと大きく深呼吸している。意味は理解できた。「落ち着いて」ということだろう。
「悪かった」と言おうとして、彼女の薄い服が水で透けていることに気が付き、視線を遠くにやった。
落ち着きはしないが、気は紛れた。
河原は砂利の広場だが、隣接する空間は見渡す限りのジャングル。俺達は密林と河原の境目を歩いた。再びジャングルに入る気は起こらないが、何もしないと余計なことを考えすぎてしまう。砂利が足の裏に突き刺さる痛みも、気を紛らわすのにちょうどいいぐらいだ。
途中、布の塊を発見した。近付いてみると古びたジーパンが無造作に落ちていた。持ち主はどこに行ったのか。周囲を見渡しても誰もいない。
「ズボンを落とすなんて、神経を疑うよな」
拾い上げて軽口を言う。彼女は声を上げずに笑みを浮かべる。
そのジーパンのポケットにライターが入っていた。見る限り安物だが、壊れてはいないようだ。空を見上げると暗くなり始めていたので、たき火でもしようかと決めた。暖を取れるし、服も乾かせる。獣除けにもなるはずだ。大きな石を拾って囲いを作り、密林の枝を拾ってきた。枝には中々火がつかなかったのでジーパンに犠牲になってもらった。
次第に闇が訪れ、月明りが輝いた。
俺達は温まりながら月を見上げた。綺麗な満月だ。月を見る限り、ここは地球らしい。当たり前の確認は、俺に安心感を与えた。
「年はいくつ?」
俺が尋ねると、彼女は砂利の地面を指でなぞり、数字を書いた。
「17」
「うわー俺の方が年下か。俺16なんだよ。誕生日は?」
「2/2」
「学年も上か。敬語で喋った方がいい?」
彼女は笑みを浮かべたまま首を横に振る。
「俺さ、なんかここに来る前の記憶があやふやなんだよな……でも、さっきよりははっきりしてきた」
彼女は自分を指さし、頷いた。「自分も同じ」ということか。
「俺はさ、学校の帰りに歩いてて……なんか光が見えて……」
その先は覚えていない。
「君は?」
俺が聞くと、彼女は自分の首を自分の手で押さえた。
どういうことだろうと考える間もなく、視線を感じた。
何かに見られていると、頭の中で確信があった。
反射的に体を動かし、急いで密林を見る。
いつの間にか、密林に茂る樹木の幹に無数の目が光っていた。
月の光を反射する丸い瞳。何かはわからないが大群だ。
俺の動きに反応して、密林の中からギャーギャーと叫び声が聞こえ始める。
「……猿か?」
俺はプッと笑った。たかが猿か。何をビビってるんだか。安心した俺は彼女に言ってやった。
「大丈夫、猿だよ。さっきの熊よりよっぽど……」
彼女は首を振って指をさす。俺は改めて密林を見る。
月明りの僅かな光の中、目を凝らすと、猿の姿が徐々に明瞭になる。
猿は口が目の横まで裂けていた。歯と爪が金属でできているようにギラギラと輝く。
猿の、化け物だ。
「冗談じゃねぇ」
ギャーという声と共に猿の大群が襲い掛かって来た。背後は川で逃げ場はない。俺はたき火で燃やしている枝のうちそれなりの太さの一本を引きずり出して手に持ち、彼女を背中に追いやった。こんな松明にするのも不安な燃えている棒が武器になる訳もない。何もないよりましだの精神から出た行動だった。
木の棒を振り回すが、猿はひるんでもくれなかった。先行してとびかかって来た猿を棒で打ち払うが、一匹吹っ飛ばしただけで棒がへし折れた。
大群に飲み込まれそうになったその時、乾いたパンという音がした。続いてパンパンと何度が音が続く。どこから聞こえる何の音なのかわからない。すると、再び飛びかかって来た猿が、俺の目の前で爆発した。
猿の汚い体液を存分に浴びた俺は、それでも状況が判断できなかった。続いて、猿が何匹も破裂していく。残った猿は困惑しながら密林に戻って行った。
ジャリジャリと石を踏みつけて歩く音が聞こえた。川の上流から、西部劇に出てくるようなガンマンの格好をした男が現れた。
「間に合ったようだな」
男は、ピストルをくるくると回してホルダーにしまうと、頭の帽子のつばを上げた。
年齢は60代は超えているだろう。西部劇の映画で見た酒場の用心棒そのものだ。ただでさえ訳が分からない状況なのに、余計分からなくなる。
「なんだ……あんた」
「命の恩人に対してその言葉遣いはどうだ、小僧」
日本語が通じた。どう見ても米国人なのに。その上、言葉遣いを注意された。米国人に。
「それは……すみません」
ガンマンは溜息を吐く。
「何年生まれの何人だ」
俺は「は?」と聞き返す。質問の意図が分からない。
「西暦何年生まれの何人だと聞いている」
見たら大体わかるだろ、という質問を飲み込む。理由は目の前の爺さんが怖かったからだ。見かけもさることながら口調も怖い。そもそもピストルを持っている。
「2000年生まれの日本人だ……です」
「どおりで動きがとろい」
「はい?」
喧嘩を売っているのか。
「判断も遅い。故に死ぬ。戦士でもなければ兵士でもない。命を懸ける戦いをしたことがない。平和な時代の平和な国で生きた証拠だ」
時代を間違えた変なじいさんの説教だ。不愉快だが、この日の俺の頭はわりと回った。
つまり、平和な時代の平和な国で生きたことを批判されるなら、そうでない人間は歓迎されるということで、この場所にはそういう人間がやって来ることもあるということだ。
じいさんは俺の後ろにいた彼女にも同じ問いをかけた。彼女は戸惑い、俺は急いで弁解した。
「この子、声が出ないんです。でも、年は17歳だから1999年生まれだと思います」
じいさんは「成る程」と声を上げた。
「成る程、まだそういう段階か」
彼女が背後から俺の背中をツンツンと突いた。何だろうと振り向くと、彼女は首を横に振っていた。とても驚いた顔で。
「1927」
彼女は地面にそう書いた。
乾いた音がパンと響いた。驚いてじいさんを見ると、じいさんはいつの間にか銃を抜き、密林に向けて発砲していた。木から何かが落下する音。俺達は猿がまた襲撃の準備をしていたことに気が付く。
「二人とも私についてきなさい」
じいさんはそういうと密林に向かって歩き始めた。




