夢オチですか?
目覚めると、隣には誰もいなかった。
服は着ている。下着もそのままだ。
昨日となにも変わっていない朝……。窓からスズメの鳴き声がチュンチュンと聞こえる。
やっぱり、夢……だったのか。まだ胸には触れられた感覚が残っているよう。
「あーいい朝。なんか、いい夢みたなあ」
昨日飲み過ぎたのに目覚めは爽やかだった。――全部吐いたから悪酔いしなかったのだろう。
カーテン横で微動だにせずに片手で本を読んでいた彼に気付いたのは、トイレを済ませてカーテンを開けようとしたときだった。
慌てて引き返してトイレに身を隠す――!
――え! ええ? あれって夢じゃなかったの?
てっきり妄想過剰なわたしの……「夢オチ」かと思っていたのに~――。
心臓がドクドクと音を立てる。
ど、どうしよう……。酔っていたからといってわたしったら、なんてことをしてしまったの――。
知らない男の人が朝、自分の部屋にいるヤバさに……ゴクリとツバを飲み込む。
「お……おはよう」
トイレの扉から少しだけ顔を見せ、そう言ってみる。
「おはよう」
また本に視線を落とし、器用に片手で次々とページをめくる。
読んだ本が丁寧に床から積み重ねられており、彼はまた一冊その上に本を積み重ねる。そして本棚からまた一冊手に取って読み始める。
無意識のうちに頬っぺたを摘まみ、ちょっと微笑んでしまった。
「ねえ……。名前……聞いていい?」
「……仕方ない」
……仕方ないんだ……わたしに名前を明かすのって……。
「予の名はファンディル・リョクワール。この地に赴いた理由は……話せないが、しばらくの間、卿には侍女として予に仕えることを命ずる」
よ? めいずる?
初対面の挨拶も……昨日の貴族様ごっこの続きなのかしら? 別に構わないけれど……。
「わたしは次女じゃなくて長女よ。でも、どうしてわたしの名前を知っているの?」
教えた覚えはないわ。……昨日の記憶は曖昧なんだけど。
「予は卿の名前など知らぬ」
「だから、さっきから佳衣って何度も呼んでいるじゃない。わたし名前……左近充佳衣よ」
ちょど昨日二十一歳になったところ……て、どうでもいいか。
「さこんじゅうけい……呼びにくい。予はこれまで通り卿と呼ぶが依存はあるまい」
いきなり呼び捨てって……嬉しくてたまらない。願ったり叶ったりよ。
「ええ、もちろん。じゃあわたしは……ファンと呼ぶけど、依存はあるまい?」
――!
「予を「ファン」と呼ぶつもりなのか!」
……なんか、驚きの表情でドン引きされちゃってる~。この人のスイッチがどこにあるのか分からない。
――ドン引きスイッチ――。ピタゴラススイッチ級かもしれない――。
「……許可しよう。この地での滞在期間中のカモフラージュとして、予も多少の屈辱に耐えねばならぬ」
わたしに名前を呼ばれるのが、侯爵様には屈辱……って設定されたようだわ……。
「じゃあわたしもせめて侯爵令嬢ってことにしてよ。バランス的に」
「――侯爵令嬢なのか?」
そんなわけあるかい! ……ため息が出るわ。でも、彼の顔をじっと見ているだけで、そんなことは砂に書いた文字のよういサラサラと消えていく。
朝から男の人と一緒の空間って、こんなに素晴らしいんだ……。自分だけの朝食を作り、自分の着た服を洗濯し、誰にも褒められず、誰にも求められないような当然の家事でさえ、ファンのためならいくらでも頑張れてしまうような錯覚に陥ってしまう。
――ああ、このなんとも言えない優しくて暖かい気持ち。これが恋心なのね――。
軽くトースターで食パンを二枚焼き、サンドイッチにしてわたしと彼の前に置く。インスタントコーヒーにやかんで沸かしたお湯を注ぐと、狭い部屋に良いコーヒーの香りが充満する。
「いただきます」
わたしがサンドイッチを上品にちぎって口に運ぶが、ファンは食べ始めない。
「食べないの?」
「固形物は自分では食べてはならない。貴族としての誇りなのだと昨日言ったはずだが」
「貴族としての誇りって、なに?」
そんな話は聞いたことがない。
「遥か昔から王族を毒殺しようと企む者が後を絶たず、何百もの王位継承者が食事の際に毒殺されてきた。その名残から、今でも予は自ら食事を取ることはない。王族が自ら肉や食べ物を口に運ぶのは……、耐え難い下品で危険な行為なのだ」
「……ってことは……?」
――朝から、口移しで食べさせろって言いたいわけ~?
……いいけど。
トイレ済ませた後に、歯を磨いておけば良かった……。口の前に手の平をもっていき、一度自分の吐いた息を吸ってみる。
息……まだ酒くさいかも……。
わたしだってお腹が空いていし、仕事に行く準備もしなくてはいけないのだが、まずは彼の食事が先よね。……彼はわたしの侯爵様なんだから。
クチャクチャ……。顔を近づけると、すっ目を閉じる。完璧にわたしを信用している。まるで親鳥から餌をもらう雛鳥のように。
チュ。ズ、ズゾ、ゾルルル……。
顔が……朝からありえないくらいに染まってしまう~。なのに、なんで彼は平気でいられるのよ!
「――美味しい! これはいったい、なんという食べ物なのだ?」
「え、鯖サンドよ」
昨日、職場で余った焼き鯖を捨てるのが勿体ないから勝手にバックに隠して持って帰ってきたのだ。軽くチンして焼いたパンに乗せた……それだけだ。
地元でサバばかり食べていたわたしにとって、珍しくもなんでもない朝食だ。
「もう一口だ」
「……は、はい……」
ズ、ズゾ、ゾルルル……。
ファンは日本語が上手すぎる。それどころか、わたしの本棚の本を朝から何冊も読んでいる。漢字が読めるほど日本語に通じているってことは、どこぞの帰国子女なのだろうか。
わたしの本棚……。漫画と恋愛小説ばかりなのが少し恥ずかしい。せめて「大辞林」や「家庭の医学」くらいは置いておくべきだった……。
彼は時間に構うことなく読書を続けているが、わたしはこれから仕事に行かなくてはならない。
なにかあった時の連絡方法として、家の「Wi-Fi」でのみ使える古い方のスマホを渡しておくことにした。ファンはスマホどころか、携帯電話すら持っていない。財布も持ち歩いておらず、かといってカードなども持っていない。まったくの手ぶら主義のようで、それなのに堂々とした態度を取る。わたしに対して……。
高そうな貴族コスプレの服を着ているクセに……。中身もほんとに一世紀昔の貴族気取りだ。
「なにかあったらこのスマホに連絡するから、画面にタッチしてね。使い方……わかる?」
タッチ操作とかをわざわざ説明しないといけないかと思っていたら、
「なに! スマッホがあるのか!」
身を乗り出して渡そうとしたスマホを手に取った。
……少し触って落胆している。
「ただの通信装置ではないか。……所詮、この地の技術ではスマッホのような物は作れるはずがないか……」
スマッホって……なに? なんか、バカにされている感があるのですけれど……。
それとも、アメリカにはもうスマホの最新機種が販売されているのだろうか?
――次世代スマホ、その名は、『新世紀スマッホ~?』……ダッサ!
「じゃあ使い方は分かるわよね、日本語で説明も出るし。わたし、これから仕事に行くけれど、あまり部屋の中をゴソゴソしないでね。それと、勝手に出歩いちゃダメよ」
「不用意に出歩いたりはせぬ。予はこの地で揉め事に巻き込まれるわけにはいかぬのだ」
「う……うん」
外から鍵を掛け、マンスリーマンションの階段を下りる。
ひょっとして、わたし……罪人をかくまっているのかしら? それとも、どこか異国の重要人物……?
まあ、いい……か。イケメンなんだし。
わたしの方が揉め事に巻き込まれてしまうのではないのかしら……? そんな疑問を頭から振り払い、歩いて二十分のところにある、わたしが働く大きなデパートへと駆け足で向かった。