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蛍の光窓の雪


 大きなバッグを担ぎタクシーで帰ると、エントランスで――またあいつと鉢合わせてしまった。

 下の階の住人、村野太治(むらのたいじ)……。

「あれ左近充さん、こんばんは~。彼氏は?」

 階段の上や周りをキョロキョロと確認する。

 ――。

「もしかして、やっぱり浮気された?」


 ……悔しい。

 事実なのが一層悔しい――。


 今日は村野も酔っていないみたいだが、少し離れて距離をとる。笑っている様子もなく真顔で、近付いてきたりもしない。

「……寂しくなったら、いつでも僕のところにおいでよ。僕はイケメンなんかじゃないけれど、女の子を泣かすなんて酷いこと、絶対にしないから」

 それだけを言うと、意地悪することもなく一度ウインクをして自分の部屋へと歩き去っていった。


 ホッとする……怖かった。……本当はいい人なのかもしれない。でも、酒を飲んだら変わってしまうのかもしれない。


 イケメンは浮気するの?

 じゃあ、イケメンじゃない男は、絶対に浮気しないってわけ?


 人は外見で選んではいけないけど、ファンは正真正銘のイケメンだった。……だから婚約候補者なんかが四人もいたの?

 それともファンが言っていたとおり、王太子と結婚し、いずれは王妃の地位と権力欲しさに近づいてきたの? じゃあファンはどうするの? どうしたいのよ?

 わからないよ――男心なんて――。


 ……でも、たった一つだけ分かることがある。それは自分の今の気持ち……。


 自分が好きだって思っていないと、どんなに優しくされても、どんなに上手にキスされても、ドキドキなんてしないんだわ……。たとえファンに婚約候補者がいようとも、わたしが一生、侍女か奴隷として扱われたとしても……、

 ――ファンじゃなきゃ、もうドキドキしない――。


 それに、ファンだってわたしじゃなきゃ駄目なはずだわ――。帰る前日の夜に言ってたもの。

 別れが……辛くなるから……と。


 だからわたしは決意したのだ――。

 頭を振ると、頬っぺたをパンパン叩いて気合を入れる――。



 部屋に帰ると、全身ウエットスーツに着替える。水着なんて持っていないから、裸で直接着る。真冬でも寒くないらしいのだが、生肌に冷たいウエットスーツが張り付くと、全身がヒヤッとするわ。

 上から下まで着込み、足ビレを付けた時、重大なことに気が付いた。

「こんな格好で、どうやって移動すればいいのよ!」

 ペンギンみたいにペタペタ歩くの? いや、無理だわ。それに、不審者として通報されること疑いない~。


 冬にウエットスーツで外を歩いている女性……見たことがない。


 ――! そうだ、タクシーだ!

 スマホを手に取り、登録している格安タクシー会社へ通話する。


 トゥルルルル、ガチャ。

『――はい、MKAタクシーです』

「もしもし、タクシーですか? 一台大至急でお願いします……」

 手短に場所を告げ通話を終えると、コップ一杯の水を飲みほし、部屋に鍵を掛けて表へと出た。


 ……階段、下りにくい。

 誰にも会わなかったのだけが、救いだった。


 エントランス前にタクシーが止まり、一度扉が開く。乗り込もうとしたら、扉が閉まるではないか――。

 ――そうはさせるか! 慌てて閉まりかけた後部ドアの取っ手を握って開ける。不審者に怯え逃げ去ろうとするタクシー。――そうはさせるか!


「……どちらまでですか」

「道頓堀まで行って! 早く!」

 早く行かないと、タイムリミットが迫っている。シンデレラではないが、時計の針は……十時を過ぎようとしていた。


 無言でタクシーを運転する運転手。ウエットスーツ姿のわたしをチラチラとバックミラーで確認する仕草に、なんか違和感を覚える……。

「あの彼氏とは、うまくいってるのかい?」

 ――!

 驚いた。なんで初対面のわたしにそんなことを聞いてくるのよ……! いや、初対面じゃない!


 あの日あの時、あの場所で拾ったタクシーなんだわ――!

「そ、そ……」

 言っても信じてもらえないこと、他人のプライベートに踏み込もうとしてくる運転手、困惑と驚きに、気が付くと涙が流れた。

「あ、あれ、どうしたんだろ。わたしったら……」

「……」

 一生懸命涙を袖で拭う。……黒いウエットスーツの袖に濡れた跡を作る。


 道頓堀の橋の上。彼と初めて出会ったところでタクシーを止めてくれた。

「料金は……いらねーから、さっさと下りな」

「え?」

 気が付くとわたしは財布もスマホも何も持たずに、空気ボンベとマスクだけを握りしめているのに気が付いた。

「あ……ありがとう……ございます」

「急いでるんだろ。礼なんていいから早く行きな」

 足ヒレを車の扉にペチペチとぶつけながら、苦労して下車する。

「若い時は、迷っちゃいけねえ。自分が正しいと信じた道を突き進みな。後悔だけはしないようにな――。あばよ」


 ブオンと大きな音を上げ、タクシーは走り去った。

 この街の温かさに……初めて触れた気がした……。



 いきなりタクシーからウエットスーツで降りたわたしの姿に、通行人はどよめき、スマホでカシャカシャと勝手に撮影する。大笑いしている人もいる……。


 人の視線など気にもせず、橋の欄干の上になんとか登ると、夜の道頓堀川にダイブした――。


 船からのダイビングで、背中から落ちるのを見ていたから、橋の欄干から背中向けに飛び降りるのは、かなりのスリルが味わえましたわ――あ――。

 

 ドッボーン!

「――ゲッホ、ゲッホ!」

 一度外れたマスクを慌ててくわえる。多少、川の水を飲んだぐらいで、死にはしないわ!

 前に……この川に嘔吐したんだっけ……? 今ではいい思い出よ! 


 あの日が二人の始まりだったんだから。


 それに……まだ、終わってなんかいない――!


 ボンベからのホースに付いているバルブを適当に触り、ボコボコ空気が出てくるのを確認すると、川底へと潜り頭のライトの光だけを頼りにして泳ぐ。

 川底に溜まった泥が舞い上がり、視界を悪くするが、それでも進み続ける。


 なんとしても、あれを見つけ出したいのだ。

 彼の……スマッホ――。


 あの時、たしかに「チャポン」と音が聞こえた……小さい物なのだろう。

 わたしが渡した古いスマホを「スマッホ」と見間違えていた……。似たような薄型の形をしているはずだわ。


 まだ壊れていないのなら、彼が言った通り、そのスマッホでわたしも彼の元へ行けるかも知れない――。「宇宙の歪みは予想不可能な動きをしている~」と言っていた……。あれからもう数日経っている。彼が衛兵に連れられて戻った場所から、どれだけ位置が歪みでズレているのか検討すらつかない。


 バカバカしいことをしているのかもしれないが、何もしないでいる訳にはいかない。彼と別れてからどんどん好きになっていく――。

 悲しくて立ち直れない日々がいつまでも続いていく――。


 結果がどうあれ今は彼が地球に残した、たった一つの物……スマッホをなんとしても見つけるんだ――!。



 空気ボンベの残りが少なくなり、どこからか突然アラームが聞こえだす。

 ――嘘でしょ?

 一時間くらいは潜れるはずなのに、もう空気がないなんて――!


 もう、探せないなんて――。


 あれから大雨の日があった。もっと下流にまで流されていれば、どこにあるか分からない。一人で探したって見つけることはできない――。


 さらに頭のライトもバッテリーが切れ、消えて視界が真っ暗になると、パニックを起こした。上も下も分からない――!


 ゴボゴボゴボ……。誰か、助けて――!


 マスクの内側に涙が流れ、息がだんだん苦しくなっていく……。ここでわたし……死んでしまうのかもしれない……。悲しみのままに……。


 その時……、


 真っ黒かと思われた川底に、役目を終え死にかけている蛍の光を……見た気がした。

 子供の頃、田舎の田んぼによく捕まえに行った蛍。


 ……妹が、「蛍って(つぶ)しても光る」って日記を書いて……先生を驚かしていたっけ……。(むご)いって……。


 妹の手の中で潰れても光り続けていた蛍……。まさに今、同じ色が川底で薄っすら光り続けている……。

 黄色でも緑でもない優しい光に手を伸ばすと、水の中でも点灯し続ける薄型のスマホだった……。

 ストラップもケースもなにも付いてない彼の……スマッホ! 裏側には彼のマントの裏側に施された刺繍と同じ複雑な模様が刻印されている――!


 黒い手袋でしっかりと握りしめると、ゴボゴボっと息を吐きながら一気に川底から浮上し、ゴーグルとマスクを外す!

 ボンベが重すぎてまた沈みそうになるが、両足を必死にバタバタさせながら浮かび続ける――!


「――あそこにいたぞ! 大丈夫か!」

「こんな夜中に何をしているんだ君は! 今年は阪神、優勝しとらんぞ!」

「お巡りさん! いましたよ!」


 橋の上や堤防沿いには、深夜だというのに数人の野次馬が集まっていた。わたしを指さし、警察官が数名、駆けつけてくる――。

「大丈夫かね、早く上がりなさい! ――ってええ、それ警察機動隊のウエットスーツやないか! どこの所属や!」

 小さな懐中電灯でわたしを照らし、小型無線機を手に取る。


 気にもせずにわたしは急いでスマッホを触った。パッと画面が眩しく表示されて目がくらむ。


 そこに映し出された文字に、愕然とした――。


 不思議な文字や模様と記号で、なにが書かれているのか分からない……。――ファンの星で使われている文字なんて、わたしに分かるはずがない――!


 でも、たった一つだけ分かることがあった。――色だ。

 中央に二つの丸い印。一つが緑色で、一つが赤色。


 どちらも点滅し、まるで触られるのを今か今かと待っている……。どちらかが「転送」で――どちらかが「拒否」――!


 彼が前に……教えてくれていた。あの時の言葉が鮮明に蘇る――。

『予が触る部分を誤っただけだ――』 


 わたしは迷うことなく画面をタッチした瞬間、彼のスマッホは燃えるように熱くなり、眩しい光を放ちながらこの世界から、チリチリ……チリチリ……と音をたてて消滅していく――。

「え、どうして――! なんで消えてしまうのよ――!」

 わたしは間違えてないのに! ちゃんと緑色の部分を触ったのに――!


 やめて、まって、行かないで! 消えないで――!


 彼の最後の思い出の品……スマッホが、手の中から……この地球から消えてしまった――。


 ……わたしを道連れにして――。



 一瞬の眩しい光が収まる……、

「……あれ? どこへ行ったんだ?」

「また潜ったのか~!」

「やれやれ、世話が焼けるなあ」


 道頓堀には初雪が降り、音を立てずに川沿いを雪景色へと変えていた……。



 警察官が無線で応援を要請し、朝方まで捜索が続いたが、わたしは見つからなかった。

 突然姿を消したわたしは、行方不明者として次の日からも捜査活動が行われた。


 たくさんの人に迷惑をかけた。電柱に張り紙もされた。

 ウエットスーツを貸してくれた優香の友達は、始末書を書かされた。


 優香と菜々美は、警察署で何度も取り調べを受けた。

 「日本海直送」の荒波夫妻も、泣きながら取り調べを受けた。


 家族は長年にわたり、捜査を続けてくれた……。見つかるはずのないわたしを探し続けてくれた。


 わたしはみんなに……ごめんなさい、今までありがとうございました。と……言えなかった……。


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