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残されたわたし


 ガチャリ。


 扉の閉まる音が重々しく聞こえる……。もうろうとした意識のまま帰りついた。


 小さな丸いテーブル。つい一時間前までファンがいて本を読んでいた。水が僅かに残っているガラスのコップに水道水を入れてまたテーブルの上に置く。ファンは、自分では水をよそおうともしなかったもの……。


 コートを脱いで、ハンガーに掛ける。さっきまでファンの重たいマントが掛かっていたハンガーを……そっとクローゼットへと片付ける。


 ファンの忘れ物がないか、部屋の中を見渡すと、また視界がぼやけてしまう。

 ぼやけた視界なのに……彼のいた姿が鮮明に見える。


 本棚の横で立ったまま本を読むファン――。

 テーブルに座って、本を読むファン――。


 初めて鯖サンドを食べて、美味しいといってくれたファン――。

 アオサの雑炊を食べた時は、ファンの猫舌に驚かされた。


 シャワー室でカッポンをして掃除している時、ずっとシャワー室の外からわたしのお尻ばっかり見ていたファン――。気付いていたんだからね!


 シャワー室を覗いたファン――。もう、バカ! バカバカ! わたしのバカ!

 ファンの裸……。一生忘れることなんてできない――。


 わたしの隣で眠るファン――。

 スースー寝息を立てて眠るファン――。


 ファンの唇の感触……。


 もう、二度と触れることのできない彼の唇……。

 握ることのできない彼の大きな手……。

 崩れ落ちるようにベッドに顔を突っ込み、また泣いた。もう誰も……慰めてくれない。泣いても泣いても誰も慰めてくれない。


 くぐもった泣き声が、深夜遅くまで狭い部屋に響き続けた。



 次の日、デパートへ出勤できたのは、奇跡だったのかもしれない。


 一人で狭い部屋の中にいると、本当に死んでしまいそうな恐怖に見舞われたからだ。生きていく自信がぐらつくなんて、今まで一度もなかったのに……。


 でも、ファンはそんな結末を望んでいない。最後に頬を叩いたことを強く後悔していた。彼の幸せをわたしはこれからもずっと……願う。だから、彼もわたしの幸せを願ってくれている……。

 どこに行ってしまったのかも分からない。でも、わたしが一人で泣いて、一人で死んでしまっても、……決して喜ぶはずなんかないもの。

 寝不足で重い体を無理やり引き起こし、コートを着て赤い瞼のままデパートへ出勤した。



 呆然と肩を落としたまま魚の刺身をラップする。

 仕事のやる気までなくしていた……。

「なんでえ、ラップがシワシワじゃねえーか、はがして張り直せ!」

「……すみません……」

 一度はがしてやり直していると、ラップにポタリ、ポタリ、と雫が落ちてくる。なにかしら。……雨漏り?


 瞳から零れ落ちた涙に、気が付かなかった……。


 ジジイが……指を口にくわえてアワワと困った顔を見せると、ババがため息交じりで歩いてくる。

「仕方ないねえ。ちょっと休憩しようか」

「……え? あ、ごめんなさい!」

 慌ててラップの上にかかった雫を布巾で拭き取った。


「フラれたんでしょ。彼氏に」

「……」

 わたしには手の届かない人だったのかもしれない。でも、遊ばれていたわけじゃない。彼もわたしのことが好きだった。


 お互いが好きなのに……どうして一緒にいられなくなったの? わたし達――。


「佳衣ちゃん。あなたは本当に頑張った?」

「え?」

 ……涙目のままババの顔を見る。ババの目はわたしの心の底まで見通してしまうような眼光を発している――。

「イケメン彼氏ができたって喜んでいたけど、いなくなったらそれで終わり?」

「……だって、遠くの人なんだもん。どこにいるのかも分からないんだもん」

 布巾で涙を拭く。口元を押さえ泣いてしまうのを必死で我慢した。

「好きなら探しなさい。努力しなきゃダメ。幸せは歩いてこないものよ」

「……努力?」


 ……わたし……なにも努力していない……?


 彼のためならなんでもできるはずなのに、何も努力せず、ただ訪れた別れに涙をながしていただけだったのに気付いた……。


 ――悲劇のヒロインのように、自分の悲しみを美化しているだけだ……。


 そうだわ……。

「わたしみたいな……普通の女子が、努力を怠ったら幸せなんて決してつかめやしない……」

 なんとかファンにまた会いたい。もう一度会って、話がしたい。キスだってしたい。一緒の布団で二人っきりで眠ったのに、わたしはまだなにもしてもらえていない。


 なにもしてあげていない――!


「その意気よ。あんたも頑張って、あたしと同じようにいい男と結婚しなさい。幸せを、根性と努力で勝ち取るのよ!」

「いい男って? ――あれが?」

 ジジイの方を見ると、ジジイは包丁を片手に腕まくりをして力こぶを作って見せるものだから、思わず泣いた顔のままで笑ってしまった。

 仲がいい荒波夫妻。いつも一緒で幸せそうだ……。ジジイは……昔いい男だったと言われれば……そう見えてくるから不思議だ。


 ――よし!


 いつまでも泣いてウジウジしているわけにはいかないわ! 



 その日の夜、優香と菜々美が……わたしの失恋慰めパーティーをしてくれた。イタリアンレストラン、『エークタスパ』は、今夜もほぼ満席状態だ。


「あれ? 思ったより平気そうじゃない」

 優香の一言に憤りを感じる。

「平気なんかじゃない! 地球に海がもう一つできるかと思うくらい泣いたわ!」

「いやいや……ふつうは失恋して落ち込んだら、次の日に会社なんて来れないって」

「そうよ、わたしだって高校の時、彼氏にフラれて一週間は学校を休んだんだから」

 菜々美は休み過ぎなんだと思う。

「それに……次の日に「失恋慰めパーティー」って、普通は断るわよ」

 優香は呆れ顔でソーセージを食べる。

「奢ってもらえるんなら、しっかり食べて体力つけなきゃ」

 わたしもソーセージを食べる。今日は水ではなく、赤ワインが小さなグラスに注がれてわたしの前にも置いてある。

「おお、その意気その意気。男なんて世の中大勢いるんだから」

「そうそう。全人口の半分が男だからね」

 ……それはちょっと幅が広過ぎない?

「若い時にたくさん恋愛して失恋して、女は綺麗に成長していくのよ」

 優香も……語らないけれど、たくさん失恋してきたのかもしれない。美人だから失恋しないなんて保証はどこにもないのだ。

「じゃあ、わたしも頑張らなくっちゃ」

 菜々美がそういって、チラッと厨房の方を向いた。


 その先にチョビ髭の店長がいたことに、わたしも優香も気付かなかった。


「ねえ、どこかで潜水道具って借りれないかしら」

「はあ? スキューバーダイビングでもするつもり?」

 優香に無理難題な質問をする。


 広い客層を持つ優香にはこれまでも色々相談に乗ってもらい、問題ごとや心配ごとを解決してもらってきた。優香は大人だ。いつだって頼りになる。


「いいんじゃないの。失恋の傷を癒すために、正月に南のあったかい海にでも行くのね?」

「だったら……現地で借りた方が安いわよ?」

 そうじゃないのよ……。

 そんな温かくて綺麗な南の海にサンゴ礁を見に行きたいわけじゃないのよ……。

「そこを……なんとか……」

「うーん、ああ! わたしの学生時代の知り合いなら持っているかも……」



 早くも次の日の朝、優香が職場に持って来てくれた……。


 重そうな黒いウエットスーツと空気ボンベが入った大きなバッグをドサッと置く。


「おはよーございー」

「こら! 神聖なる職場に土足で入ってくるな!」

 ジジイのツバが刺身に散る……。

「まあまあ、直ぐ出ていくから固いこと言わないの」

「……」


 黙ってしまったジジイ。……若い娘には弱いんだわ。


「警察の備品らしいからくれぐれも無くさないでねって。それと、「初心者なら必ずスクールに通うか、現地インストラクターにしっかり使い方を教わってね」って」

 バッグの中を確認すると空気ボンベと真っ黒のウエットスーツ、さらに頭に付ける防水の懐中電灯まであるのが泣けるほど嬉しい。

「うん。ありがとう。わたし、これでも潜水は得意なのよ」

「へえー、そうなんだ。以外だわ」

 うん。潜るのは得意だわ……たぶん。


 浮かぶのは苦手だったけど……とは言わない。スキューバーダイビングなんて、やったことすらないですわ。


「お、おめえ、なにする気だ? そんな潜水服なんか借りて?」

「海女ちゃんでもする気?」

 ジジイとババがまじまじと大きなバッグを見つめる。

「正月用の鮑でも取ってくるってか? ボンベ担いで潜って見つかると、漁業組合とか海上保安庁に怒られるから、――真夜中だけにしろよ――」


 ……。


 懐中電灯を試しに点けてみる。確かに真夜中でも使える十分な照度だわ――。さすが警察。

「うお、眩しい、こっちへ向けるな!」

「ハゲ頭が反射するわあ」

「誰がハゲ頭だ!」

 優香とババが眩しそうにジジイを見て大笑いをする。


 ――よし。


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