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冬の雨に濡れ


 目が覚めると外では雨が降り続けていて、もう七時近いのにカーテンの外はまだ夜のような暗さのままだった。


 マンスリーマンションの屋根は雨の音がよく響く。最初はそれだけでも眠れなかった。

 いつものようにファンと朝食を済ませると、憂鬱な雨空の下へと折り畳み傘を広げて飛び出す。

 道路隅の排水口が多すぎる降雨を流しきれず、ところどころに大きな水溜まりを作り、徒歩で通勤するわたしの気持ちをトホホと落胆させてしまう……。



 そんな天気のせいでもないのだが、朝から仕事で失敗をしてしまった。


 ――カッシャ―ン!

 焼きたての鮎の塩焼きを床にバラまいてしまったのだ。十匹。

「大事な注文の品なのに! なんということに~!」

「鮎はもう仕入れてないわよ! どうする気さ!」

「ごめんなさい!」

 ついボーっとしていて、焼きたての鮎を大きな業務用ガスグリルから取り出すとき、手が淵に触れ、その熱さに条件反射で手を放してしまったのだ。

 十匹の鮎が、鋭い眼光でわたしを睨みつける……。

「拾って詰めたら駄目かしら……」

「バカ野郎! ……見ず知らずの客なら……それでもいいが、お得意さんだからなあ……」


 ……見ず知らずの客なら……良かったのに……とは思わない。

 鮮魚コーナーの床は、毎日わたしが洗剤でゴシゴシ掃除し、靴は仕事専用の長靴に履き替えているから、衛生上は綺麗な状態を保っているが、あとはモラルの問題……。――ブラックかホワイトかの問題だ。ここにグレーゾーンやオフホワイトは存在しない。


「仕方ねー。あっちの鮮魚コーナーに行ってくる」

 ジジイは白いエプロンを外し、ステンレス台の上にバサッと置く。

「――! あんた、魚屋さんが魚屋さんで魚を買う気かい?」

「仕方ねーつっただろ、鮎がなけりゃあ話にならん!」


 数分後、ジジイが戻ってきたかと思うと、二匹ずつラップされた鮎を五パック、バラバラと服の中から出す。

「お前さん! レジ通さないと、それ窃盗よ」

「バレなきゃいいんだよ、バレなきゃ! どうせ向こうだって同じことをやってるハズさ」

 おもむろに掛けてあるラップを破り裂き、大きな発砲トレイに十匹並べる。

「よし、佳衣、これをラップしろ」

 無言で手早くラップをする。ジジイが破り裂いたラップをゴミ箱の奥の方へと押し込む。「日本海直送」のシールを勝手に貼ったのだが……鮎は日本海でも捕れるわよね?


 その日、それから一言もジジイは喋らなくなった。わたしも気まずくて喋らなかった。

 反省はしている。悩み事や考え事をしながら仕事をしてはいけないって……頭では分かっていても、その対処方法は難しい。


 出勤する時からずっと……昨日の事ばかりを考えていたのだ。今日は、ランチに行かなかった。


 優香からはゴメンの一言もなかった……。謝ってくるまで、わたしからは何も言わないことにした。悪いのはわたしじゃない――。

 デパ地下でお昼ご飯を買い、鮮魚コーナーの中央にある大きなステンレスの業務用テーブルで一人食べる白身フライのタルタルソースと巻き寿司は、大好物なのに……あまり喉を通らなかった。



 ゴオー。ザッザザアー!

 仕事が終わり帰る途中、急に横殴りの突風が吹くと、わたしの折り畳み傘が悲鳴を上げて折れまがり、使えない状態になってしまった。

 ……最悪だわ……。

 ファンに連絡を取って、傘を持って迎えに来てもらおうかとも考えたが、わたしの居場所が分からなかったり、迷子になったりすれば、より一層大変だと思うと、一度取り出したスマホをまた鞄へと仕舞った。


 失敗して落ち込み気味なわたしを、冬の冷たい雨が叱責するように叩きつける――。

 指先は感覚がなくなるくらいに冷え、コートは撥水が追い付かないくらいにドボドボに濡れてしまった。身も心も……今日はクタクタに疲れた。


「ただいま……」

「おかえり」

 濡れたコートを脱いでハンガーに掛ける。テーブルで朝と同じ姿で本を読み続けているファンに、タオルを渡してくれるとか、夕食の準備を手伝ってくれるとか……期待なんてできない……。

 濡れた髪をドライヤーで乾かしながら、これから夕食の支度をして、服を洗濯して、コートを乾かして……やらなきゃいけないことを考えていると、急にゾクゾク――っと寒気を感じた。


 嫌な寒気……。おでこを触ると、手が冷たいからか分からないが、少し熱がある。


 侯爵様である彼は、看病なんてしてくれないだろう……絶対に。それどころか、わたしがご飯を食べさせて……あげないと……いけない? そう考えると一層熱が上がる。


 朝作ったアオサの味噌汁の鍋に冷やご飯を入れて、卵を溶き入れて雑炊を手早く作る。

 熱が出て動けなくなる前に、出来ることをしておかなくちゃ……。


「……ご飯、できたわ」

「うむ」

「……」

 今日は一人で食べてと言いたかったが、昨日、わたしは侍女の仕事を一人でこなすと言ったばかり。自分の体調不良を原因に、それが出来なければ……彼はきっと「別の人を侍女とする」とか言い出しそうで悲しくなってしまう。

 自らスプーンを持たないファンに、わたしがフーフーして一度食べ、そっと口付けする……。


 チュズズズ――!

「――アヂィ!」

 ……まさかの猫舌? ちゃんとフーフーして、一度わたしの口の中で冷やされているというのに。

 次の一口はもっと念入りにフーフーした。


 チュ、チュチュ、チュチュチュ……。

 慎重に、少しずつ吸っている……。熱のせいか、いつもみたいにドキドキしない……。


「顔色が優れないようだが、大丈夫か?」

「……大丈夫だから、ファンは早く食べて」

 フーフーするのもしんどくなってきた……。それでも何度か口移しでご飯を食べさせ続け、ハッとした。

「――こんなことしていたら、ファンに風邪がうつってしまうわ」

 風邪薬なんて買ってない。これから薬局に買いに行く気力も、体力もわたしにはもうないのに……。

でもファンはそっと目を閉じて顔を少し横に振る。

「大丈夫だ。予は卿らのように、ウィルスに感染などはしない」

 そして次の一口は……、

「んん……!」

 わたしが彼に食べさせようと……口移しした物が、ドロドロとわたしの口の中へと舞い戻ってくる~!


 ――熱が四十℃越えするような恥ずかしい感覚……。顔が紅鮭色にカ~っと急変したと思うと、やっぱりドキドキしてくる――!


「卿も食べて、早く横になるんだ。すぐに良くなるよ……」

 ……。

 お互いの鼻がくっつくような距離でニッコリとそう微笑まれると、ボーっととろけそうになってしまう。口の中から体全体に温かさが広がるような感覚……。


 恋の熱かしら……。インフルエンザは……まだ流行っていないはずですわ……。



 先に布団で休んでいると、今日は早目に部屋の電気が消され、布団に入ってきた彼が後ろからそっとわたしを……抱きしめてくれた。

 熱があるのに、……これ以上ドキドキさせないで欲しい……。寝ないと治らないのに――、これじゃ逆に眠れないわ――。

「明日になったら熱なんて下がっているよ」

 優しく……凄く優しく彼の大きな手がわたしの頭を撫でてくれる。


 ……凄く温かくて……優しい……。まるで世界中の優しさに包まれているかのよう……。

 涙を流しながら眠りついていた……。



 次の日、熱は嘘みたいに下がっていた。

 まるで魔法でも掛けられたかのように、本当になんともなかった。


 カーテンの外からは明るい日差しが差し込み、ファンはもう本棚の前で立って本を読んでいた。



「おはよう……ございます」

 出勤して挨拶をしても、ジジイは返事をしてくれなかった。昨日のこと……まだ怒っているのかしら。煙草を手に取ると、店の裏口からどこかへ出て行ったしまった。

 はあ~。なんだかやるせなくなる。昨日からため息ばかりついてる。


「悩みごとかい?」

 一人で座っていると、ババも隣に椅子を持って来て座った。まな板の上では、さばかれている途中の天然ハマチが、口を開けてジーっとこちらを見つめている……。

「……うん」

「言ってごらん、聞いてあげるから」

「実は……」


 イケメンの彼氏と付き合ったこと。それで友達がちょっかいを出してきて喧嘩したこと。それで昨日は仕事でも失敗してしまったこと……。ババはわたしの目を見て自分のことのように真剣に聞いてくれた。


「懐かしいねえ。あたしも五十年前はそんなことでよく悩んだもんよ」

「そうなの……?」

 ジジイとババはおしどり夫婦にしか見えない。

「肝心なのは、佳衣がそのイケメンの彼のどこが好きかってことと、彼が佳衣のどこに惹かれたかってことね」

 ――え?

「イケメンってさあ、イケメンなのは見たら分かるじゃない。でもね、イケメンだから好きですって言われて喜ぶようなイケメンなんて、実際にはいないのよ。だってそうでしょ、可愛いから好きだって言われたら、可愛くなければ好きじゃないって言われているようなものでしょ」

 ……考えたこともなかった。

 ファンがイケメンだから……そんな格好いい彼と付き合っているから……そのことを二人に自慢したかった。

イケメン以外の好きなところを……わたしはまだ見つけられていない……。

「でも、佳衣も彼もまだまだ若いんでしょ。失敗してもやり直しなんかいくらでもできるんだよ」


 ――失敗……?

 やり直し……?

 そんなこと考えられる余裕なんて……なかった。ファンのことを、友達や他の人に奪われたくない一心だ――。

「友達だってそうさ。何年も一緒に楽しく仕事していたのに、急に出来た彼氏に佳衣を取られたらさあ、おもしろくないに決まってるよ。さらにイケメンだったらなおさら……」

 ……わたしも高校の時、彼氏ができた友達とは少しずつ遊ばなくなっていった。でもそれは、意地悪じゃなくて、その友達に気を遣って……だった。

 自己嫌悪に陥ってしまいそうだわ……


「佳衣がどうしたいのかが肝心だよ。友達よりも彼氏? 仕事よりも恋愛? 最後に選んで決めるのは他の誰でもない。佳衣自身」

 そう言ってわたしのおでこを人差し指でつつく……。


 わたしが……どうしたいか……。


 両親や友達にも相談できないようなことを、まさかババが相談に乗ってくれるなんて……。

 高校を卒業して一人暮らしを始め、成人を迎えたけれど、まだまだわたしはババに比べったら、世間を知らない子供なんだわ……。


「それに、ジジイはもう怒ってないよ」

「……ほんとに?」

「ああ、鮎に「日本海直送」ってシール貼ったぐらいで、あの人がずっと怒ってるわけないじゃない。アッハッハッ」

「――そっち?」

 ……そっちで怒っていたの?

「ハハ、ハハハ……」

 作り笑いが……歪んでしまう……。



 ジジイが喫煙所から帰ってくると、わたしは素直に謝った。

「昨日は……ごめんなさい」

「ああ? なんの話だ?」

 ジジイはそういうと、さばいていた途中の天然ハマチを刺身にし、大きな鯛とヒラメを次々と刺身にさばいていく。横ではババが大きな大根をケンにする電動つま切り機へ大根を押し当て、

「一日寝たら忘れるんだよ、その人は」

 笑いながら次々に出てくるケンを大きなボールへと受けた。ジジイも少し頬を赤くしながら、刺身の切れ端を口に放り込む。

「さっさと準備してラップをしておくれ。今日は鯖を焼くからね」

「――はい」


 慌てて長靴とエプロンを身に付けた。


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