王都
そっと彼の唇が近づき……わたしの唇に触れる……。
整った顔と少しクセのある綺麗な金髪が頬を撫でるように優しく触れる……。
彼は遠い異国の侯爵様――。
住むところも、身分も、わたしとはまったく異なるのに……。
チューチュルル、ズズ――!?
ドン!
ちゃぽん。
……いてて~だよ。いったいなに。
あと……なんか、「ちゃぽん」って聞こえなかった?
十一月の最後の日、夜の大阪は例年にない寒波の影響で気温は十度を下回っていた。
東京に行ったことがないわたしにとって、ここ大阪は大勢の人で賑わう、まるで王都のよう……。デパートや商店街はクリスマスの飾り付けがフライング気味で煌きを放っている。
街を行き来する人たちは、訪れるクリスマスに浮かれ気味で、カップルが手を繋いだり腕を組み体を寄せ合ったりしていて、まるで寒さを喜んでいるみたい……。
そんな中、小さな川にかかる橋の欄干にコートを着た女性が一人俯向き、飲み過ぎたのか……嘔吐を繰り返している……。
それが――わたし……。
吐く息からは白い湯気が立ち上り、冬の到来を静かに告げている……。
あ~飲み過ぎた……。
誕生日を友達が祝ってくれ、調子こいて飲み過ぎた~。真っ赤な色をしたワインが、今は少しだけ憎らしい。
吐いたのは久しぶりだわ……。中学の時、妹が台所用洗剤で作った自家製シャボン液をわたしがジュースと勘違いして飲んでしまった時のことを思い出してしまう……。「洗剤をガラスコップに入れてストローを入れっぱなしにしておくな!」と悲鳴混じりで喧嘩したっけ……。
ふと隣を見ると、いつから立っていたのか、若い男の人が……欄干から川に向かって右手を伸ばし、歯を食いしばり……「――もっの凄く悔しい仕草――」ってやつを全身で表現している。まるで映画のワンシーンのように。
寒空の下で月夜に照らされるその横顔……。高い鼻と透き通るような青い瞳。着ている服はツヤのある黒い……コート? いや、ひょっとしてマント?
――ちょっと、ヤダ! ドン引きしてしまうようなイケメンなのに……まさかの「王宮貴族コスプレイヤー」なの? ちょっとイタイ。
――勿体ない! やっぱドン引きしてしまう~!
何も言わずに彼は、黒光りするずっしりと重い高級絨毯のような分厚いマントをそっと……わたしに掛けてくれた……。
……のではなく、ただマントを脱いで放り投げたところに、たまたまわたしがしゃがんでいただけ……。
わたしは四つん這いになって嘔吐していたのだ。どちらかというと、わたしの方が……イタイわ……。ドン! っとぶつかったのも、彼がわたしにぶつかった音だった。
こんなところで屈んでいるから……歩いていて邪魔だったのね……わたし。
そんなわたしに構うことなく面倒臭そうに絹のように光り輝く白いシャツの袖を少し捲り上げると、川に飛び込むかの勢いで欄干に登ろうとした――。
「危ないわあ! 阪神優勝してないのに道頓堀に飛び込んじゃダメ〜」
ふらつく足に咄嗟に力を入れて立ち上がり、両手で抱きかかえてそれを阻止した――。
どさくさに紛れてイケメンの胸にわたしが飛び込む。……ああ~。温かくていい匂いだわ~。酔った勢いだったら、許されるわよね~。
どうでもいいけど、キラキラ輝いているシャツの前ボタン……多過ぎない? 頬っぺたにボタンの跡がついてしまいそうだわあ~。
彼は欄干から飛び込むのを諦めたのだが、
「……」
なにも言わない。あれ、まさか、怒ってる……? って、当然か。わたしだって酔った勢いで変なおっさんとかが自分の胸に飛び込んできたら……。
肘と膝で絶妙な角度から撲殺を試みるだろう――。
恐らく日本人じゃないのね……。
金色に輝くクセっ毛と、堀の深い青白く美しい顔立ち。青い瞳はまさに、わたしがずっと思い描き続けてきた――貴公子様! 顔を上げると……何も言わないまま見つめ返され目が合ってしまう――。
急に恥ずかしくなり、慌てて離れ、口についたままだったゲロを自分のコートの袖で拭き取った。
やだ、ドキドキして……、
――また吐きそう……。
酸っぱいツバを何度も飲み込み、込み上げてくる熱い想いを胃へと抑え込む……。ゴクリ。
黒いマントを拾い上げ手渡そうとすると、なにも言わずにそれを受け取る。
「……」
「あの……」
なんて話しかけたらいいのかしら。日本語……通じるのかしら。英語なら……AからZまでなら言える……。なにか話しかけたいけれど、わたしの頭の中身は酒漬けと緊張で、なにも気の利いた言葉が何も思い浮かばない。
――格好いい男の人の前にでると、いつもなんだけど……。
それでも今日は、勇気を振り絞って喋ってみる!
見ず知らずのイケメン男性に、話しかけるのだ――!
酔った勢いで――!
「わ、わたし、タクシーで帰るんだけどお~、一緒に乗ってく?」
「……?」
ちょっと困惑した表情を見せる彼。なにを言っているのかさえ伝わっていないようだわ。観光客ならそれも仕方ないのかもしれない。
偶然通りかかったタクシーを、親指を立てて呼び止める。わたしが先に乗ると……彼も同じように乗り込んできてくれた。
ひょっとして、これって……!
タクシーに乗っても無言のままで移動する。
彼にどこに行くか聞いても何も答えてくれない。言葉が本当に通じていないのだろう。それか……、わたしと同じで飲み過ぎて気持ち悪いのかしら? 青白い顔をしている。
「ほ、ほ、ホテルにでも……行く? ――じゃなかった! 泊まっているホテルとか分かる?」
キャ、キャー恥ずかしい! どさくさに紛れてなんてこと言っちゃってるのかしら、わたしったら~! 見ず知らずのイケメンとまさかの……ほ、ほ、ホテルだなんて~! やだやだやだあ~、チラ?
「……」
あれれ、まさかの無反応? もしかして、酔っ払いの戯言に困惑しているのかしら。
可愛いい……。イケメンで可愛いなんて……。
罪よ~!
「仕方ないなあ〜。じゃあ……わたしの家に……、お持ち帰りしちゃおーかなあ~」
酔ったわたし、無敵だわあ。
「……」
あ、照れてるのね? そうして欲しいのよね? うんうんよちよち。可愛いったらありゃしないわ。
さっきから、運転手が白い目をしている。バックミラーでチラ見して目が合うんだけど、ちゃんと前見て運転しなさいよお~って怒ってやりたい。
いや、もっとチラ見してもいいわよ~とも言ってやりたいら~。
――だって、生まれて初めて見つけたわたしだけの王子様なんだから――。
王子様お持ち帰りで――。
レジ袋はいりませんわ~!
「うざ」
運転手が……なにか呟いた……?
タクシーの中で小銭をバラまいてしまい、半ば怒りながらタクシーはわたしと彼を降ろすと、ブオンと排気ガスを吹かして走り去った。ワンメーターは走ったのに、失礼なタクシーだわ。プンプン!
二階建てのマンスリーマンション。階段を上がるとき、酔ったわたしをさりげなく支えてくれる彼。気が利くわあ。そっと腰に手を当ててくれるのが、ジェントルマンだわあ。
初めて男の人を部屋に入れるのに、お酒のせいでもう――気持ちがしっちゃかめっちゃかの状態。嬉しいのと恥ずかしいのと緊張とが複雑に絡まり合う。
「あ、ちょ、ちょっちょっとまって、おにいさ~ん」
「……?」
先に部屋に入ると、まずは目に付いた洗濯物を慌てて洗濯機に放り込み、床の端に溜まっている綿ぼこりや髪の毛を、履いている靴下でさっと拭き取る。
……ま、いいか、少々汚くても。
外は寒いし、そんな寒い中でイケメンを冷やしちゃいけないわ。
靴やサンダルで足の踏み場もない玄関に彼を通すと、彼は帝国貴族のように黒光りする皮靴のまま部屋へと上がる……。
コツッ、コツッ、とその勇ましい姿と音が……たまらないわ~。部屋なんて拭けば綺麗になるんだから、、ぜんぜん構わないしー。
小さな丸いテーブル横に座ってもらい、わたしはコートを脱いでエアコンを点ける。ブオーと吹出す音に彼は、一瞬だが驚いた仕草をしていた。
「すぐ温かくなるから、ちょっと待っててね」
「……予をどうする気だ?」
初めて口を開いた彼の声、美しく透き通る声――。
「や~ん! ドキドキしてしまうじゃない。日本語上手! 喋れるならもっと早く言ってよ~」
「……これまでの会話を聞いて言語を理解するのに手間取ったに過ぎぬ。予をこの地に捕らえたとしても、人質にはならない。――予にも貴族としての誇りと覚悟がある」
彼の声が部屋に甘く広がる。もっとその素敵な声が聞きたくなる。
「あー素敵! わたし、貴族とか侯爵とかって大っ好きよ」
……厨二病かしら? イケメンなら構わないわよね、そんな病気。治る治る! それに、貴族って設定、まさにわたしの憧れ!
「それより、お腹空いてな~い?」
「……」
表情を変えずにわたしの顔をじっと見続けている。
「空いてるんでしょ~。遠慮しないで。わたしもぺこぺこ――全部吐いたから」
「……」
おやかんに水を入れてガスにかける。冷蔵庫の取っ手にS字フックで吊ってあるビニール袋の中を確認すると、カップ麺が残り一つしかないのに気がついた。
「あー、しまうま! カップ麺が一つしかないー」
「……」
ほんとうに無口ね。でも素敵だわ。ずっと見ていたくなっちゃう。
顔にはホクロとか一つもなく、まるでカリスマスタイリストが求める究極のマネキンのような白く整った顔立ちと抜群のスタイル。切れ長で見るものを魅了する瞳に……。
ああ、早く……きゃっ!
わたし、わたくし……、本日、二十一歳の誕生日に、
――乙女を卒業いたしま~す!
ジュー!
あちい~!
沸騰したやかんの蓋が怒ったようにカタカタ揺れ動く。慌てて火を止め、蓋を半分以上剥がしてしまったカップ麺にお湯を注ぐと、少しお湯が溢れたが、まあいいわ。
百均ショップで買ったお椀と箸を丸いテーブルに置くと、彼の横に来客用折り畳み椅子を出してきて座った。
ほぼ寝るためだけの狭い六畳間に今日だけは感謝を覚えてしまう。素敵な彼と二人っきりの空間は、狭ければ狭いほどいい。
ああ~。早く三分経たないかしら~!
二分三十秒で蓋をめくった。
わたしは固め派。
彼用のお椀に箸で取り分け、スープを傾けて入れる。
「どうぞ、遠慮せずに食べて!」
きゃい~ん、新婚夫婦の夜食みたい~!
彼が貴族を演じるというのなら、わたしは貴婦人を演じるわ! それとも侯爵令嬢?
しかし……。とんでもない言葉を彼は口にした……。
「公爵たる予は、固形物は……自らの手では食べぬ」
「え? 固形物を食べぬう?」
ラーメンは飲み物なんですけど……なんちゃって。
「じゃあいつもはどうやって食べるの?」
音を立ててラーメンをすする行為を外国人が嫌っているのを思い出す。ヌードルハラスメントってのがあるくらいなのだ。ヌーハラと聞いて、最初は「脱ぐ迷惑な奴」って勘違いしていた……。
「侍女が噛み砕いて口移しで食べさせてくれる」
――!
「食事は――口移しですって!」
なにそのぶっ飛び飛んでも設定~――!
……でも、わたしだって、キスくらいなら経験があるわ。中学卒業の時、三年間憧れていた彼の唇を……奪ったの。
隙をついて……。
あの時は……凄く怒られた――。ボタンのない学生服の袖で唇を何度も何度もゴシゴシ拭かれ、罵声を浴びせられ――わたしは泣いた。男子は……女心なんて分かってくれないのだと、初めて気がついた……。友達とも数人連絡がとれなくなった辛い思い出……。
女子高の三年間、誰とも付き合わなかった。スカートも長めにし、男なんて、男なんて……、二次元で十分よ――と、すさんだ自分に言い聞かせて生きてきた。
でも、違ったの……。
今日、この場をもって、その信念をゴミ箱に捨て去り封印いたしま~す!
ゴクリ。
「いいわよ。受けて立つわその設定! でも、わたしは次女じゃなくて長女だからね」
「……?」
ラーメンを少しすすり、口の中でモグモグと噛む……。酔っているからといって……本当にいいのかしら。
「んーんーん、んーん?」
「ああ」
恐る恐る彼の顔にわたしの唇を近づける。彼は冗談でもない真顔のままでわたしを見続けて、
そっと唇と唇が重なり合った――
チュル、チュルチュルチュル~!
――! わたしの唇か彼の唇か分からないが、チュルチュル音を立てながら口の中の麺が彼の口の中へ吸い込まれていくと、思わず顔が赤くなり、頭の先から茹で立てのタコのように湯気が昇る~。
ずっとそのまま口づけしていたかったが、彼が顔を離すと、
「……なにをしている。もう一口だ」
「え? ……ええ」
「予は……空腹だ」
わたしはさっきより少しの麺を口に含み、その貴族様ごっこに酔いしれた……。
涙が出るくらい……楽しい……。気絶してしまいそうなくらい……嬉しい……。このまま昇天してしまいお星様になってしまいそうな夜――。
とうとうわたしも、もう戻れないところまで来てしまったのね――。