094 僕は歌わないよ
「黒塚先輩! お久しぶりです!」
僕を見つけた水沢さんが、嬉しそうに僕の方へと駆け寄ってくる。フリルのついたエプロンと、頭に乗せたホワイトブリムが、水沢さんの可愛さを引き立たせているように思う。
教室内を見回してみると、お客さんはまぁ半分くらいだろうか。
興味半分で入った生徒よりは、友人の様子を見に来た生徒が多い気がする。
僕を『メイド執事喫茶』へと引っ張りこんだ沢渡さんは、「蛍、がんばってね」というセリフと共に、すでに教室の外へと出ている。
「水沢さん、久しぶりだね……」
八月二十一日に、僕たち三年生の二学期が始まってから水沢さんに会うのは、今日が初めてになる。
「えへへ、じゃあ席に案内しますね」
トレイを胸に抱えてはにかむように笑うと、僕を教室の一角へと案内してくれた。
「先輩、来てくれてありがとうございます」
「えーっと……、たまたま通りかかったからね……」
僕は椅子に座りながらも苦笑いしかできない。とは言え、沢渡さんに半強制的に引っ張り込まれただけとも言えないし。
「それでも嬉しいです!」
ははっ、水沢さんは元気だなぁ。彼女ができたことを伝えようとしてはいるけれど、どう切り出したらいいのかな……。
「えーと、その――」
「黒塚先輩、わたしのメイド服、変じゃないですか?」
僕が言い淀みながらもなんとか言葉を発しようとしたところで、水沢さんが言葉を被せてきた。
なんてタイミングの悪い……。
思わず口をつぐんで水沢さんの容姿を改めて確認してみるけれど、とても似合っていると思う。
制服の上にエプロンをつけている姿はとても可愛らしいものがある。
「うん……、とても似合ってるよ」
言葉を遮られてしまったけれど、こんなことで諦めるわけにもいかない。
タイミングを見計らって伝えないと。……夏休みの話から入るのがいいかな。
「……よかった!」
弾ける笑顔が僕にはとても眩しい。思わず視線を逸らすと、テーブルの上のメニューが目に入る。
今から伝えようとしていることを考えると、僕の心の中も重くなってきた。
けれど、こんなことでめげるわけにもいかない……!
「夏休み――」
「あっ!」
意を決して僕が切り出した言葉に、水沢さんの驚いた声が重なる。
思わず視線を戻すと、そこにはバツが悪そうな表情で頬を赤らめる水沢さんがいた。
「……ご注文は何にしますか?」
そして自分の仕事を思い出したかのように、水沢さんがトレイの上にメモを用意する。
えーっと……、僕がメニューをずっと見ていたからなのかな。いや別に急かしたわけでもないんだけれど……。
むしろ僕の話を聞いて欲しいんだけれど……。
とは言えこの状況で切り出すほどの勢いは、僕にはもうなくなっていた。
うん……。ここは一旦注文だけして落ち着いてからにしようかな……。
改めてメニューを手に取ってみるけれど、文化祭の喫茶店だけあって種類はそれほど多くない。
「じゃあ、アイスミルクティーとクッキーで……」
「はい! かしこまりました!」
元気よく返事をすると、水沢さんはそのままバックヤードへと下がる。
「……はぁ」
周囲に人はちらほらといるけれど、一人になったところで僕は大きくため息をついた。
なんだかさっきからタイミングがうまく合わなさすぎて、自分の中でだんだんと言いづらくなってきているのを感じる。
悶々とした気持ちのまま待っていると、ほどなくして水沢さんがトレイに注文の品を持ってやってきた。
「お待たせしました」
トレイのアイスミルクティーとクッキーをテーブルに置くと、水沢さんがそのまま僕の向かいの席へと座る。
えーっと、喫茶店って店員さんも同じテーブルに座るんだっけ……? ってメイド喫茶だからかな……?
僕自身はメイド喫茶に行ったことがないのでよくわからない。
でも周囲を見回しても、同じテーブルに着いているメイドや執事はいなかった。
「黒塚先輩は……、このあとで合唱で歌うんですよね?」
三年生全員が合唱なのは全生徒の知るところである。一年生が知るのは、文化祭前日に配られる出店一覧のプリントだろうけれど、二年生ともなれば二回目だ。
「あ、僕は歌わないよ」
クッキーを一口齧る。あ、これ美味しいな。
「……えっ?」
いかにも僕の歌を楽しみにしてますと言った表情が、一瞬にして固まった。
あはは! これはこれでちょっと面白いね。
「僕は伴奏でピアノを弾くからね」
「そうなんですか……? 黒塚先輩って、ピアノ弾けたんですね……」
初めて知ったように驚いているけれど、てっきり僕は水沢さんなら知っていると思っていた。
僕のあの動画はもう十日くらい前から公開されているはずだけれど……。
あ……、そういや雑誌にはまだ載ってないのかな。……でもまぁ、水沢さんが知るのも時間の問題かな。
どうせなら本番で驚いてくれるほうが僕も面白いし、ここは黙っておこうかな。
「うーん……、まぁ、それなりに?」
「じゃあ……、楽しみにしてますね」
僕の中途半端な答えにも、水沢さんは笑顔で応えてくれる。
水沢さんもとてもいい子なんだよね……。なんで僕なんだろう。
すごく楽しそうに話している水沢さんを見ていると、沈んだ気持ちで演奏を聴いてほしくないとも思ってしまったのは、僕のわがままだろうか。
「蛍ー。そろそろ交代の時間だよー」
結局言い出せないまま悶々としていると、教室の入口から女の子の声が聞こえてきた。
教室の外へと続く扉へ目を向けると、執事服を着込んだ女の子が入ってきてこちらへと近づいてくる。
「……え? もうそんな時間?」
ポケットからスマホを取り出すと時間を確認する水沢さん。
「あっ! ホントだ! 急がないと……! って黒塚先輩!?」
「……え?」
「黒塚先輩も時間なんじゃないですか?」
僕もスマホを取り出すと水沢さんと同じく時間を確認する。
……ってホントだ! もうすぐ三時じゃないか!
「うわっ、早く体育館に行かないと……。えーっと……」
結局言いたいことが言えなかったことに言い淀んでいると。
「今日はありがとうございました! 黒塚先輩も早く行ってください! わたしも着替えたら体育館に見に行きます!」
「はいはい、早く行っといで」
交代のために来た女の子が水沢さんを急かし、僕が返事をする間もなくバックヤードへと引っ込んでいく。
しばらく動けなかった僕だけれど、ちょっとだけ残っていたアイスミルクティーを流し込むと、会計を済ませて体育館へと急ぐことにした。
結局水沢さんに言うことはできなかった。けれど、どこかホッとしている自分がいることにも気が付いて、自己嫌悪に陥るのだった。
主人公の思考を修正。2017.07.22