「贄」
それから数日。
地方騎士団も王宮騎士団も通常の業務を最低限にして、
来るべき戦いの準備に専念するようになった。
街には物騒な姿の傭兵たちがあふれ、街の人たちの表情も皆不安げだ。
私も不安な気持ちは同様だったが、彼らとは立場が違う。
私はもう、守られる者ではなく、守る者となったのだ。
鍛冶屋のおじさんが寝る間を惜しんで磨いた双剣を、腰にしっかりと固定する。
心の中の弱い自分を押し込めて、グレッグ団長の話す訓示に耳を傾けた。
そして・・・作戦当日。
決戦の火蓋が、今ここに、切っておとされる―。
これまでの静寂はなんだったのだろう。
一度、王都に異形が襲ってきてからは、静かな日々が続いていたと思う。
だが、今私の目の前に広がる光景は―王都から関所までの、あの平和で広い草原は―
まさに、地獄絵図・・・そういいきっても言いすぎではないほど、凄惨たるものだった。
偵察に行った騎士が、死に物狂いといった形相で逃げてくる。
関所からあふれ出てくるのは、どれもこれも、異様な姿をしたものばかりだ。
例の、鋭い牙のついた口蓋の化け物、それから異様に腕と足の長い顔なしの巨人、
体中が棘のようなもので覆われた人のようで人でないもの、なんとも形容しがたい者たちが、
遠目にも見えて背筋が震える。
そうしてその化物たちは皆、きっと一様にあの腐臭の体液を
皮膚から染み出させているのだろう。
「・・・ルシアも、もしかしたら勘付いたのかな?偶然かな?でもいいタイミングだよね」
背後でクライストがそんなことを言っている。
「・・・く、クライストさん・・・?
どうしてここに?確か王宮の指示に従うからってあっちに・・・」
クライストは作戦の要だった。
王宮の直接の指示に従うため、さっきまで王宮騎士団の陣にいたはずだが・・・
ちなみに王宮騎士団の陣は、ここ地方騎士団の陣の少し離れた真横に展開している。
関所から出てくる異形をちょうどふたつの騎士団ではさみ打つような布陣を敷いていた。
「あんなところじゃ息もつまるし精神集中もできないよ。
どうせ手順はわかってるから、いいんだよ」
そういいながらクライストはうーんと伸びをする。
私を含め、並んで関所を見ていた騎士たちがクライストをうさんくさげに見やった。
緊張感なさすぎ・・・
多分、皆そんな思いを抱いたことだろう。
だが、その余裕はいかに、彼が凄まじい力を持っているか、ということの証明でもあるのだ。
異形たちがどんどんこちらに近づいてくるのが見える。
「くるぞ!弓兵構え用意!!!!」
「あー!ちょっとまってちょっとまって、トリスタン早すぎだよ!まずは俺が先!」
「なんだと!?作戦の指示どおりに・・・」
トリスタンの掛け声に、クライストがストップをかける。
トリスタンが振り返ってクライストをにらみつけた。
「違うよ、指示どおりなら俺が先!先に矢なんか放ったら王宮連中からサボったって
煩く言われる」
するとグレッグ団長がすかさず叫ぶ。
「クライストの言うとおりだ、トリスタン!弓兵構えやめ!!!」
・・・大丈夫なのかな・・・
初めての戦場。一抹の不安がよぎった。
トリスタンが短気でそそっかしいことは知っていたが、こんなところでドジを踏むなんて・・・
といったら彼に失礼だろうか。
「全く困るよ・・・ただでさえ王宮の連中はうるさいんだからさ・・・」
クライストがぶつぶつ言いながらも前に出る。
地方騎士団の陣の最前列、グレッグ団長の前まで来ると彼はうつむき、
地面に視線を落としてぐっと両の拳を握り締めた。
そうして、ゆっくりとその掌を広げ、地面にかざす。
微かに彼の体が、蒼く発光したような気がした。
皆がそれを固唾をのんで見守る。最後列の傭兵団には見えないが、
異形たちが近づくともあって騒いではいないようだ。
「な、なんだありゃ・・・」
騎士のひとりが声をあげた。
クライストの前方、遠くに山々を望む広い草原の、その地面にそして空に、
蒼い光線で描かれた巨大な『魔方陣』が姿を現していた。
そう・・・あれはクライストさんが魔法を使うときに出る、魔方陣だ・・・そしてルシアも・・・
だが、あそこまで巨大なものは初めてだ。
人間なら30人ほどはゆうに入れるだろう広さがある。
その魔方陣は一度かき消え、今度は分裂して異形たちの足元に出現した。
同時にそれと連動しているのか、空にも地面のと同じ位置に魔方陣が現れる。
「さあ・・・まずは第一弾と行こうかな」
クライストがうつむいたままぼそっとつぶやく。
いつのまにか地面にかざした手はそれが見えないほどに青き光に包まれ、
彼自身の足元にも小さい魔方陣が光を放っていた。
グレッグ団長も、トリスタンや他の騎士たちも目を見開いて言葉もなく彼を見つめている。
『・・・あらゆるものを形どる秩序の霊よ、契約によりわが言霊に答え、
その地に立つものを粉々に砕きつくせ・・・』
クライストの低くうなるような声が、私の耳にも聞こえてくる。
だけどこれは本当に彼の声なのだろうか。
そう考える暇もなく、クライストが地面に勢いよく、だんっと両の手をついた。
体が鋭い光を放つ。まぶしさに目がくらんだ。
「きゃっ・・・」
『わが声にこたえよ!』
耳をつんざく轟音が、クライストの叫び声と混じる。
地面が大きく揺れて、転びそうになり慌てて足を踏ん張った。
くらんだ目をかばいながら異形たちのほうを見ると、あの巨大な魔方陣から
白い光が天にのぼり、そこに立っていた異形たちが忽ちに掻き消えていく。
・・・す・・・すごい・・・
見たこともない『魔法の力』に、ざわつく騎士たち。
王宮騎士団のほうからも馬のいななきが聞こえ、あちらも騒然となっているようだ。
だが、関所からはまた次々と異形たちが姿を現す。
魔方陣から放たれた光で、こちらに向かっていた大部分の異形は倒されたようだが、
うまく回避した者もいる。
身の毛もよだつような大きな咆哮をあげ、猛然と近づいてくる異形。その数は少なくない。
10・・・20・・・ううん、それ以上いる・・・!!
関所からもまだまだ出てくるようだし・・・
「きりがないって、こういうことかな。
やれやれ、あとは頼んだよ。俺は本命を潰してくるから」
クライストが言って、右手に例の魔剣・・・アグレアスを出現させる。
そうか・・・クライストさんは、ルシアを直接倒しに行くんだ・・・
魔剣に対抗できるのは、魔剣しかないものね・・・
その表情はいつもと変わらないようだが、ちょっとだけ疲れが見えていた。
やっぱりさっきの大きな魔法だったから、疲れはするのかな・・・
「ひるむな!!弓兵!!構えーーーっ!!!」
グレッグ団長が大声を張り上げる。
弓騎士たちは一斉に動きをそろえ、弓を引き絞った。統制のとれた無駄のない動き。
さすがは団長だ。
「打てーーーーーっっっ!!!」
何本もの矢が、異形めがけて放たれる。
すると、クライストがいきなり声をかけてきた。
「さあて、じゃあ、イレインちゃん行こうか」
「えっ!?」
ど、どういうこと!?クライストさんと行くなんて聞いてないけど・・・
「お、おいクライスト、お前の監視役は俺のはずだぞ!!」
クライストの言葉を聞いたトリスタンが声をあげる。
クライストは微妙そうに顔をしかめた。
「冗談じゃないよ、どうせ監視されるなら女の子のほうがいいに決まってるだろ」
「貴様!ふざけるなそんなことが許されてたまるものか!」
「・・・監視役がイレインちゃんじゃないなら、俺はエルムナードに行かない」
「なっ・・・なんだと・・・グレッグ団長・・・」
トリスタンがグレッグ団長を見る。
団長は目を閉じ、しばらく考えていたようだが顔をあげて、渋々うなずいた。
「・・・仕方ない。王宮から言われた監視役をトリスタンからイレインに変更する」
「だ、団長・・・いいんですか!?」
団長はトリスタンを見て、私を見て、それからクライストを見つめた。
「・・・王宮からの命令がなければ、監視をつけなくてもいいとわしは思っている」
グレッグ団長・・・そんなにクライストさんのこと、信用してるのかな・・・
「・・・ありがとうございます。団長」
クライストが丁寧にお礼を言う。
普段はふざけたような態度でも、締めるべきところは締める。
本当は、ちゃんとした人なのかもってことを、団長は見抜いているの・・・かな?
「それじゃあイレインちゃん、団長の許可も出たことだし、行こうか」
「は、はい・・・じゃ、じゃあ馬を・・・」
「・・・俺の馬を使え。くれぐれも、置き去りにはするなよ」
「あ、ありがとう・・」
トリスタンが貸してくれた馬に乗ると、クライストがひょいと私の後ろに飛び乗る。
「ひゃああっ」
「いやあ、楽しいな。ふたりで相乗りなんて」
「ちょ、ちょ・・・っと」
「ねえ、後ろから抱きしめてもいい?」
「やっ・・・やめ・・・」
実際には抱きつきはしてこないけど、耳元でそんなことをささやかれて顔が熱くなる。
「・・・・・・頼んだぞ、クライスト、イレイン」
「・・・・・・・」
団長が複雑な表情でクライストと私を鼓舞し、
トリスタンは胡散臭そうな目つきでクライストを睨む。
「お任せください。団長も、ご武運を。トリスタンも、せいぜい怪我しないようにね」
「このやろう・・・」
トリスタンが拳を握り締めて震えている。
「え、えーと・・・そ、それじゃ行ってきます!!」
私は戸惑いつつも馬に鞭を打って陣を離れた。
「そういえばさ、ライオネスの姿が見えなかったけど、彼は逃げたの?」
「・・・・・。ライオネスは傭兵さんたちの統率で後ろのほうにいたから・・・」
「へえーそうなんだ。傭兵の統率まかされるなんて、なかなかだね」
クライストがめずらしく他人を褒めている。
だが、私はそれに反応しているほど、余裕はなくなってきていた。
目の前に異形の群れが迫っているのだ。
クライストの魔法とさっきの弓隊の攻撃で、大分数は減っていたがそれでもかなり多い。
・・・どうしよう・・・どうやって突破すれば・・・
そのまま群れを避けながら駆け抜けることはできるだろうか。
馬が怖がる可能性も出てくる―。
『ヒヒーンッ!!』
「きゃっっ!!!」
あの独特の腐臭が鼻をつきはじめたとき、馬が急にいなないて、足を止めた。
「こ、こら・・・!!進みなさいっっ!!走れ!!」
『ブルル・・・』
どれだけ促しても、馬はおびえたように足踏みするだけで、前進しようとはしない。
そうこうするうちに異形の群れはどんどん近づいてくる。
もう、異形のひとつひとつをはっきり確認できるほど近い。
・・・ど・・・どうしようっ・・・・!!どうすれば・・・
「あー・・・気持ち悪いからね、馬が怖がるのも当然だよね」
クライストがのんびりと後ろでつぶやいている。
「そ、そんな悠長なこと言ってる場合じゃ・・・!」
「わかってるよ。俺に任せて」
振り返ると彼はにっこりと笑って、目をつぶった。
・・・クライストさん・・・?
『さあ、落ち着いて、大丈夫だよ・・・』
クライストは馬の体に触れて、そうつぶやいた。すると、馬は途端におとなしくなる。
「いい子だね。それじゃあ、行こうか、イレインちゃん。異形のほうは俺がなんとかするから」
「わ、わかりました・・・」
クライストさんの一声で、馬がおとなしくなるなんて・・・これも魔剣の力なの・・・?
疑問に思いながらも、私は改めて馬に鞭を打つ。馬は驚くほど素直に走り出した。
よかった・・・とにかくこのまま突っ切れば・・・!
異形の放つよどんだ空気を切り裂くように馬は草原を駆け抜ける。
避ける、とは言うものの、やはり何体かは襲ってきた。
だが、私たちに近づいた瞬間クライストが炎で一瞬に焼き尽くす。
その力に圧倒される暇もなく、私は懸命にただ馬を走らせ・・・
やがてエルムナードの城下町にたどりついた。
馬を降り、私たちが城下町の広場・・・
あのライオネスが負傷して死にかけたあの場所までくると、
見覚えのある姿がそこにはあった。
・・・エルムナード女王、ルシア・・・!
ルシアは広場に描かれたあの魔方陣の上にたち、私たちを認めて目を細めた。
「・・・貴様は・・・あのときの・・・」
「やあ、その節はどうも」
クライストは軽く挨拶する。ルシアが忌々しげに顔をゆがめた。
「クレールの騎士どもが動き出したと知り、大層な歓迎をしてやろうと思うたが・・・
我らもなめられたものよ。小僧と小娘、ふたりだけとはな」
「ふたりだけで十分だよ。長い話は嫌いなんだ。さっさとはじめよう?」
「小僧っ・・・!」
ルシアの右手が赤い光を帯びる。
何もない空間にあの真紅の魔剣、ヴァエルがその姿を現した。
「この間はしとめそこねたが、今日こそは息の根を止めてやる・・・!」
「どうぞどうぞ。できるものなら」
クライストがその右手に蒼い光剣を出現させる。蒼く輝く魔剣、アグレアス。
ルシアがそれを見て、目をすっと細めた。
「お前が一体何者なのかは知らぬが・・・
わらわの復讐を邪魔するものは、誰であろうと殺すのみ」
クライストはそれには答えず、ただ静かに後ろの私を振り返った。
「・・・さあ、イレインちゃん、下がってて。なるべく俺から離れて。いいね?」
「く・・・クライストさん・・・」
「大丈夫だよ」
クライストがにっこりと笑顔を見せる。
私は戸惑いながらも彼から離れ、民家の影に身を隠した。
様子をうかがうと、ふたりの魔剣士は対峙し、互いににらみあっている。
クライストの声がかすかに聞こえた。
「悪いけど、本気でいかせてもらうよ。好きな子にいいとこ見せたいからさ」
・・・今・・『好きな子』って・・・いったの・・・?
「ふざけおってぇぇぇぇぇぇっっっ!!!!!!」
ルシアがヴァエルを振り上げ、クライストに襲い掛かる。
が、その刹那、クライストの体が蒼く光り輝いた。
同時に強い風が周囲に巻き起こる。
「きゃっっ・・・」
まぶしさに目がくらむ。
襲い繰る強風から身を守るように私はうずくまった。
剣戟が耳に届いて、おそるおそる瞼を開くと・・・
ルシアがかろうじてクライストの魔剣を受け止めていた。
ルシアは必死のように見える。
対するクライストは後姿で表情は見えないがその体は全くぶれもしない。
やがてクライストがあっさりとヴァエルをはじき返し、
ルシアはよろけながらも後ずさった。
「くっ・・・くう・・・」
「降参なら降参でかまわないよ。
あ、でも、首とってこいって言われてるから首はもらうかもだけど」
「誰が・・・降参など!!!」
ルシアは怒ったように左手を天に振り上げた。
その手が鮮やかな赤い光を放って、それが忽ちのうちに収束する。
「くらえっっ!!」
・・・魔法・・・!?
そう思うやいなや、ルシアの声とともに、真っ赤な炎の柱がクライストの周囲に現れた。
「!!!クライストさんっ!!」
あれでは、逃げられない・・・!
炎の舌がクライストを包んで-
そのとき、彼の体が蒼く微かに光を放った。
「えっ・・・」
同時にあれだけ燃え盛った炎が一瞬のうちに消える・・・というよりまるで、
クライストの体に取り込まれたかのように見えた。
・・・ど、どういう・・・こと・・・!?
私は目を見開く。それはルシアも同じようだった。
「・・・な・・・なんだと・・・?なぜ・・・魔法が・・・
貴様・・・きゅ、吸収したというのか・・・!?」
あとには、何もなかったかのように佇むクライストの姿がある。
彼は肩をすくめた。
「まだまだ、だね」
そうしてバッと両手を左右に広げる。
(・・・?・・・・!!!え・・・・!!)
気づいたら、地面が小刻みに震えていた。足元の小石が、踊っているかのように跳ね回る。
「・・・なっ・・・な・・・・」
ルシアは驚き、ただ茫然としてあたりを見回している。
その足元に、あの例の魔方陣がゆっくりと這い出すように現れた。
「ひいっっっ!!」
それがなんの意味を持っているのか、ルシアにはわかりきっているようだった。
「か・・・体が・・・うごか・・・」
そこから逃げようとしているようだが、
彼女の体は何かに縛られてもいるように微動だにしない。
足元の魔方陣が青い光に包まれ、至極ゆっくりと点滅する。まるで呼吸でもするように。
そして、次の瞬間。
「ぎいいやあああああぁぁぁぁっっ!!!」
魔方陣から青白い光が空に立ち上り、ルシアは光の中、もがきながら悲鳴をあげた。
無人の街にこだまする、女王の断末魔。
聞いていられなくなって、私が思わず耳をふさぐ直前。
「・・・潰す」
・・・えっ・・・
クライストの低い、ぼそりとつぶやいたような声が聞こえた。
目をやると彼は右腕をばっと空にかざす。
するとルシアの頭上、空高くにもあの魔方陣が現れ―
ずんっと音がしたかと思うとそこから生えた錐状の物体が、ルシアの体を無残に貫いた。
「ぐ・・・ぐあああああっ・・・ぁぁぁぁ・・・・!」
蒼い光に浸食され巨大な錐に体を突き刺され、
小さくなる悲鳴とともに、ルシアの体が消えていく。
やがて・・・・・・・・ルシアも光も、完全に消え去ったあと・・・
クライストはがくりとその場に膝をついた。
「う・・・く・・・っ」
広場に描かれた魔方陣も消え、まるで何もなかったかのように、そこには静寂が訪れている。
「クライストさん!」
私が彼に駆け寄ると、彼は疲労した表情で私を見、笑って見せた。
「クライストさん、大丈夫・・・?」
「ごめん、大丈夫だよ。ちょっと、張り切りすぎたかな・・・君の前だから・・・つい」
「!!」
クライストさんの・・・目の色・・・!
私は驚いて言葉を失う。こちらを見たクライストの瞳は、真っ青に染まっていた。
蒼い・・・あのアグレアスの色と同じだ・・・
「・・・く、クライストさん、その目・・・」
「ああ、これ・・・大丈夫、すぐに・・・元の色に戻るから・・・」
そういう、ことじゃなくて・・・でも聞いても、はぐらかされるかな・・・
そんなことを思いながら私が躊躇していると、急に空が赤く染まり始めた。
「!?」
「・・・来たか」
「え・・・」
何かを知っているようなクライストの声に、私は思わず彼を見た。
まるで血溜まりが広がるかのごとく、空がその全てを禍々しい真紅に覆われていく。
な・・・なんなの・・・?
不安に思いながら私があたりを見回していると、
急に体が重石でもつけたようにずっしりと重くなった。
・・・体が・・・重いっ・・・動かないっ・・・・・!
「うぐっ・・・く・・・う・・・」
苦しそうな声。
はっとクライストのほうをみると、彼が胸元を押さえて地面にうずくまっている。
「く、クライストさんっ・・・!?」
見ると彼の胸元は青い光を放ち、あの魔剣のように点滅していた。
「あっ・・・はぁ、はぁ・・・」
光が点滅を繰り返すたび、クライストは苦しそうに息をする。
「クライストさんっっ!!」
「・・・ヴァ・・・ヴァエル・・・・」
「えっ」
苦悶の声をあげる彼が発した言葉。魔剣・・・ヴァエル。
・・・ルシアを倒したとき、魔剣も消えたわけではないの・・・!?
そのとき、『声』が響いた。
『アグレアスの小僧・・・我らが復讐の邪魔をするか・・・』
雷鳴轟くような、もしくは地の底から這い出してくるような、ねっとりとした声音。
・・・いったい・・・どこから・・・
空からのようでもあるし、あるいは地下の奥深くからのようでもある。
背筋も凍るようなその『声』に四方八方から襲われているような、
そんな恐怖を感じ、体が震える。
・・・この声が・・・魔剣ヴァエル・・・?でも・・・剣・・・が声を出すっていうの・・・?
だが、空の赤い色はあのヴァエルの色に酷似している。
・・・それに・・・『復讐』って・・・ヴァエルが・・・ってこと?
・・・クレールに復讐を考えたのは、ルシアだけじゃないの?
恐怖に震えながらも、頭の中には次々と疑問が浮かんでくる。
『声』はまた語った。
『まあよい・・・いずれお前の肉体は、我らの贄よ・・・』
『我が力を高めるそのときまで、首を洗って待っているがいい・・・』
・・・贄・・・クライスト、さんが・・・?
私はクライストを見た。
「うっ・・・く・・・あ・・・」
彼は真っ青な顔で光を放つ胸元を押さえ、必死に何かに耐えているようだ。
額には脂汗が浮き、見ているこちらまでが苦しくなってくる。
『・・・アグレアスもお前につかのまの力を与えながら、
そのときを嬉々として待っていることだろう・・・』
・・・アグレアス・・・クライストさんの・・・魔剣が・・・待っている・・・!?
訳が分からない。クライストが、贄・・・?
そのときをアグレアスが待っているとは・・・
体の重みに耐えながら苦しむクライストを見つめると、ふいに体が軽くなった。
「あ・・・」
すると赤い空の色も消え、またもとの空を取り戻す。広場はまた、元通りになった。
「はあ、はあ、はあ・・・・」
「クライストさん!」
私は息を整えているクライストに駆け寄る。
クライストは額に汗を浮かべながらも微笑んだ。
「・・・ああ、イレインちゃん、ごめん・・・心配かけたね」
「・・・その・・・さっきのは・・・」
彼の胸元ももう光を発してはいない。なんだったのだろう。
「・・・ヴァエル・・・魔剣、ヴァエル」
「えっ・・・でも・・・ヴァエルは剣で・・・」
言うと、クライストは目を伏せた。長い睫が愁いを帯びた目を覆う。
「・・・・・・・・・・」
「クライストさん・・・?」
「いずれ、話すよ。今はともかく、早く戻って団長に報告しよう」
そういってすばやく立ち上がると、彼はさっさと歩き出した。
さっきまで苦しんでいたのが、不思議なくらいの体の動き。
・・・・クライスト・・・さん・・・・・・・?
私は戸惑いながらも彼の背中を追い無人の街をあとにした。
心の中に様々な疑問や疑惑が生まれるが、今はどうすることもできない。
はがゆい気持ちを押し込め、城下町の門で待っていた馬に飛び乗った。
草原に戻ると・・・そこはもう、散々な有様だった。
グレッグ団長とトリスタンは、関所の近くで待っていた。
彼らも装備が血や異形の体液にまみれ、疲弊しきった表情を浮かべている。
「・・・首をとってこいという約束でしたが・・・魔法で消し去ってしまったため・・・」
「・・・わかった。ご苦労だったな。
どちらにしろあとで、確認のために何人かをエルムナードに向かわせる」
クライストが団長に報告し、グレッグ団長がうなずいて今後の行動について説明がなされる。
あたりを見回すと、倒れている者や負傷者がほとんどだったが、無事なものもいる。
遠目にライオネスやランスロット、ヴァンディットの姿まで見られて私は胸をなでおろした。
・・・よかった・・・とりあえず、無事だったみたい・・・だけど・・・
私は団長やトリスタンと話すクライストを見る。
頭の中には、さっきのヴァエルの言葉が不気味に響いていた。
『いずれお前は、我らの贄よ・・・
我が力を高めるそのときまで、首を洗って待っているがいい・・・』