第2話 僕と妹と僕の欲求
「お兄ちゃん」
その日、学校から帰った僕は黒のTシャツにジーパンというなんともラフな格好に着替え、ある場所へ出掛けようとしていた。
しかし今日という日は何かとうまくいかないことが多いようで。
玄関で靴を履き、さあとドアノブに手をかけたところで背後からの声に引き留められてしまったのだ。
「ちょっと、お兄ちゃんってば」
呼びかけに屈することなく外に出ようとした僕だったが。
呆れ交じりに変わった声音に仕方なしにゆるりと振り向くと、そこにはセーラー服を着た妹がいた。
そう、僕にはなんと妹がいるのだ。
そんな妹はというと胸の前で腕を組み、おまけに不機嫌そうに頬を膨らませてこちらを睨みつけている。
これで僕のことを見下ろすことができれば少しは迫力があったかもしれないが。
あいにく玄関土間と床の段差があっても兄である僕の方が目線は上で、その有様は残念ながら必死に上目遣いをしているようにしか見えない。
そして僕は別にこの状況に対して何か特別に感想を抱くこともないわけで。
「なんだ、また靴下が片方どこかにいったのか? 今朝もそれで大騒ぎしたばっかりじゃないか。先に言っておくけど、僕は知らないからな」
「ちょっ……馬鹿にしないでよ! 私だって好きで靴下無くしてるわけじゃないし……だっ、第一『また』って、それじゃあまるで私が常習犯みたいじゃん!」
「違ったのか? それより僕は行くところがあるから。じゃ」
そう言い残して踵を返し、玄関ドアに体重を掛ける僕の腕を慌てて妹が引っ張る。
「だから! そうじゃなくて!」
「何が?」
足止めされて仕方なく妹の方へ顔だけ向けると、頬を赤くして相も変わらず睨めつけてくる妹がいた。
どうやら怒っているようだ。
「何が? じゃないでしょ! 今日の夕食はお兄ちゃんが当番っていう約束だったよね?」
そうだっけ? とわざとらしく惚けてみせると、妹は僕の腕を掴んでいた手で今度は肩を思い切り叩いてきた。
最近どんどん暴力的になっている気がするのだがこれが噂の反抗期というやつなのか。
若干ヒリヒリとした感覚を肩に感じながら、謝罪の言葉と共に僕は努めて人当たりの良さそうな、だけど眉根を寄せて申し訳なさそうな笑顔を作って妹に向けた。
「ごめんって。でも今日は忙しい朝に一緒に靴下を探してあげたわけだし、それでチャラにして」
「な、にそれ、ずるい――ってちょっと、待ってってば!」
面倒になった僕は妹の話を最後まで聞かずに外へ出た。
季節は夏――の、終わり。
ようやく陽が沈むのが少し早くなってきて、その調子で気温も落ち着いてきてくれたらと切に願う、そんな季節。
妹はさすがに諦めたのか特に追ってくる様子もない。
遠くの空が赤く染まってきているのを眺めながら、見慣れた景色の中を通り過ぎていく。
絵画みたいなグラデーションの空を数羽のカラスが点々と横切って行った。
◇
さて、妹の話をしよう。
中学生。セーラー服。まだまだ幼い顔に幼い体つき。
その容姿は特別美人だとか可愛いとかいうこともなくいたって平凡。
おまけに勉強やスポーツの出来も平凡。
まさしく平々凡々。
その点は僕と同じだといえる。
――しかし。
勉強やスポーツといった点を僕が今の地位に保つよう意識しているのに対し、妹がそのようなことを意識し、励んでいるとは到底言い難い。
今の妹の姿というのはおそらく妹が好きなように勉強をし、好きなように運動をした結果なのだろうと、僕はそう考える。
妹は、完全なる無垢であった。
彼女は基本的に自分の感情をそのままに表現してくることが多い。
少なくとも兄である僕の前では。
素直とも呼べるのか。
妹は先程のように見るからに怒ったり、ある時には泣いたり、そうかと思えば体全体を使って笑ったり、様々な感情の起伏を体現してくる。
それではその感情の起伏というのが果たして僕には具わっているのか?
――否、具わっていないに違いない。
喜怒哀楽を容易に見せる妹を僕は心のどこかで軽蔑していた。
冷ややかに、見下していた。
どうかしたらすべての人間の愚かしさを具現化したものがここに存在しているのではないかと、そう思わずにはいられなかった。
もちろん僕にもまったく感情がないというわけではないけれど。
自分の感情をいとも簡単に他人に見せるその姿は、まるで自らを庇護してほしいとでも言っているような、そんな気がしてならないのだ。
実際、すぐ泣きすぐ怒るような者はいつだって誰かに気を遣わせ、意識的にか無意識的にか自らの思い通りに事を運ばせようとする。
それは当の本人にとっては素晴らしく自由な生き方なのだろうが――。
おぞましい。
吐き気がする。
そんなやつを見ると、僕は例えば泣き顔をまとったその皮膚を剥がしてズタズタに引き千切ってやりたくなる。
その奥に隠れた醜い姿をさらけ出したくなる。
――“醜い"?
いや、もしかするとその皮膚の下に潜む淡い桃色の肉の方がよっぽど綺麗で美しいのかもしれない。
ああ、見てみたい。
そんな欲望が僕の身体を這いずり回る。
きっと表層が醜ければ醜いほど、その内面――深層を垣間見た詠嘆は例えようもないほどの甘美に満ち溢れているはずなのだ。
穢れた人間の器をはがした後に残されるものは果たしてどんなに清く美しいものなのか。
おそらくその人間の人格、醜さをすべて忘れてしまえるほどに僕は深く心を動かされるに違いない。
僕はきっと、いつか人を殺すのだ。
憎らしいとか恨めしいとかそんな理由ではなく。
ただ純粋に僕自身の欲求を満たすために。
穢らわしい器に潜んだ、優美な麗しきそのものを、一心に求めて。
ただそれだけのために、僕は人を殺すのだ。