敗北のおかわり
ダイニングなキッチンに立つ。
以前ここに立ったのは高校入学直後だったから、一年ぶりに立ったことになる。
目の前には、昨晩のうちによく研いでおいた包丁が置いてある。研いだのは私じゃなくてお父さんだけど、それは気にしない方向で。その横には、綺麗に除菌されたまな板と玉ねぎや人参をはじめとした食材が並んでいた。これも私ではなく、お母さんが揃えてくれたものだけど、それも気にしない方向でいこう。
包丁を持ち上げ、キッチンの窓から入り込む真っ昼間の太陽の光に照らす。刀身が光をギラギラと反射してこれから始まる戦争を予感させていた。
「今日の私の包丁は……絶好調だわ」
意味もなく鼻からため息を吐いた。ちなみに、刃物を太陽光にかざすという一連の行動に、意味はない。ただ『私、料理できます』オーラを出すために、もっと言うとそれっぽいからという理由で、こんな恥ずかしいことをしたわけだ。だがこの様子を見せつけたかった肝心の翔太はというと……
「え? 伊藤? なんか言った?」
私が自分の部屋から持って降りてきた少女漫画を、リビングのソファーに寝転んで行儀悪く読んでいた。
私が冷たい目線を向けていると、翔太は何も言わない私を疑問に思ったのだろう、起き上がって私と向き直り、首をひねる。
「まあいいや。それにしても少女漫画ってあまり読んだことなかったけど、結構面白いな」
翔太は真顔で、私が持って降りてきた少女漫画を掲げた。私が何も言わないと、すぐに体をソファーに預け、漫画を読み始める。
その様子に少々イラッと来た。
私の好きな漫画を、翔太が面白いって言ってくれるのは、心から嬉しいことなんだけど……。それはいいとして、翔太は見るべきところが違う。
見るべきなのは私のエプロン姿であって、漫画ではないし。
褒めるべきは私の気合の入り方であって、漫画の出来ではない。
なんでそんな簡単なことにも気が付いてくれないのか。
私は思わず頭を押さえて、しゃがみ込んだ。ついでに聞こえないように文句を言っておく。
「鈍感ヤローめ」
そうだ。こういう翔太の鈍感さを何とかしたくて、私は夏休みにもかかわらず、わざわざ翔太を家まで招いたんだ。今日こそは、その落ち着き払った鉄面皮を引き剥がして、笑顔にしてやる。そして、私が女の子であることを十二分に理解させてやるんだ。
「私のお手製『親子丼』でな!」
発した言葉の勢いそのままに、卵をキッチンの角に叩きつけた。
……さぁ、戦争の始まりだ。
***
「で、これは何?」
――二時間後。
完成した親子丼を目の前にドンと置いてやった。私はエプロンをはぎ取り、腰に手を当てて仁王立ちをする。
「親子丼!」
「おやこどん?」
翔太は顔を顰めた。目線は忙しく、私の顔と丼を行ったり来たりする。
「え、嘘、翔太、親子丼知らないの?」
「いや知ってる。そっか、これ……親子丼だったんだ」
「まったく。女の子が作ったメニューを間違えるなんて、失礼な」
「悪かったと思ってるけど……。でも……」
翔太は箸を持ち、丼の中へ突き刺した。そして、ゆっくりと中身を確認していく。それこそ爆弾を解体する爆発物処理班のような手つきだった。その様子が私にとってはすでに気に入らない行動なんだけど……。
翔太は丼の一部を箸で摘みあげ、口の中に放り込んだ。しばらく咀嚼すると、箸を静かに置く。
その様子を見て、私は「やっぱり料理漫画みたいに大きなリアクションは取らないんだ」なんて到底的外れなことを考えていた。
「伊藤さんや……聞きたいことがいっぱいあるんだけど……」
少し咽ながら、翔太は重々しく言った。
「なんでそんなに他人行儀? いいよ聞いても」
「じゃぁ、遠慮なく。……なんで全体的に緑色なの?」
内心でガッツポーズを決めた。
いくら鈍感でもそこには気が付いたか。私はにやりと笑って見せた。
「卵で閉じるときに、ブツ切りにしたほうれん草を混ぜ込んだの。ほうれん草には疲労回復効果のあるビタミンB1が含まれているから、貧弱で夏バテしそうな翔太に最適だなって思って」
「貧弱は余計。しかしなぜブツ切りで?」
「その方がビタミン死なないかなって思って」
「それと口の中ジャリジャリ鳴るんだけど、卵の殻ちゃんと取った?」
「え、卵って中身だけ使うの?」
「………………………………………………マジか」
何に対しての「マジか」なのか、わかりかねる。
「次。鶏もも肉が半生なのには何か狙いが?」
「ミディアムって高級っぽいじゃない?」
「食べないでよかった」
翔太は心底安堵した表情を浮かべた。
食べないでよかったなんて、失礼な。
「最後に、なんで下のごはんはケチャップライスなの? そして色が赤色なのにどうしてカレーの風味がするの?」
「好きだからだけど?」
翔太は開いた口がふさがらないといった表情で、私を凝視していた。
「いかにもごく普通の親子丼を作ったはずなんだけど……。まあ確かに、多少私のオリジナルを混ぜてしまったが、それでもおいしく仕上がっていたはずなんだ。味見してないけど」
「味見して! 味見してよ! なんでそんなに自信満々でいられるのさ。伊藤、本当にわけわかんないよ! こんなの食材に対する冒涜だよ!」
その言い分に、さすがの私もカッチーンと来た。
「そんなに駄目か! じゃあ翔太が作って見せろ! 私のより速く、断然美味くな!」
「上等! 少し待ってろ!」
翔太はドンと机を叩いて立ち上がった。その目に宿るのは怒りにも似た情熱だ。腕まくりをする翔太を尻目に今度は私がソファーに横になる。
背後にあるダイニングキッチンで、翔太が料理をする音が部屋を埋めていた。その間、私は近くに置いてある少女漫画に手を伸ばす気にもなれず、ただただ天井を見上げていた。
せっかく、翔太の為を思って作ったのに、そんなに言わなくてもいいじゃないか。怒らなくてもいいじゃないか。そこは男として、女の失敗を優しく受け止めるところじゃないのか。ああ、そうか。私のこと女として見てくれていないのか。それじゃあ、しょうがないな。
翔太に意識してもらうために料理をしたはずなのに、真逆の結果になってしまった。張り切って自分も相まって、とても惨めに感じてしまい、急速に悲しくなってくる。
「料理できないのだって、苦手なのだって知ってるって」
暖かい言葉がソファーの後ろから聞こえてくる。
「だから伊藤は無理しないでいいんじゃないかって思う」
――無理でもしないと、翔太に認めてもらえないでしょ。
「ゆっくり変わっていけばいいよ、俺も力になるからさ」
――翔太のことなのに、翔太を頼るわけにいかないじゃない。
「ほらできたぞ」
掛かった時間は大体十五分ぐらいだったと思う。翔太が作った親子丼はまさしく親子丼らしい親子丼だった。鶏肉と玉ねぎは汁を吸い込んで茶色に色づき、覆う金色の蓋はふんわりとした卵だ。白身と黄身の絶妙な色合いは、どうやって作っているのか全く想像できない。そして、卵の蓋と鶏肉の茶色を分けて出てくるのは、光を受けてきらきらと輝く白米だ。こんなのかきこまずにはいられな……
「おかわり!」
「速っ! 多めに作っといてよかったわ」
慣れた手つきで親子丼をよそう。私はその様子をじっと眺めていた。
「なんで、親の仇を見るような目で、俺の親子丼睨んでるの?」
「好きだから!」
「ああ、そう」
翔太から満タンに補充された親子丼を奪い取る。
そんな私を見て、翔太は肩をすくめた。
「よくわかんないな、伊藤は」
いつかわからせてやる、と心の中で呟いて、私は丼に顔を埋めた。
昔、真剣にパンの修行をしようと思って、専門学校に入ろうとしたことがあります。
親に止められました。
同時期に『焼き立てジャパン』が私の中で流行っていたので、一過性のものだという親の判断の為でしたが……うん親が正しかった。今はどちらかというとご飯の方が好きだから。
料理うまくなりたい。人に出しても問題ないくらいに……(何年先だろう?)。
それではまた。