PL『いつかの悪夢』(2)
「あれ、なんやもう澪斗来てたん? 今日は早いなァ」
「……」
いつもは一番に事務所に来る真が、先に席に着いていた澪斗に声をかける。が、澪斗は黙ったまま視線さえ合わせない。
「どうしたん?」
「…………」
腕を組んだまま、じっと目を伏している部下。何かに気付いて、部長は追及を止めた。
真は知っていた。時折、澪斗がこのように《昔》の状態に戻る日があることを。
支部が創設されてから間もない頃の澪斗は、いつもこんな感じだった。何も喋らず、独りで何かを考え、そして誰より冷たいオーラをまとう。そのオーラは空気さえ支配し、他の干渉を一切許さない。
……徐々にその空気が和らいできたのは、いつ頃からだっただろう。言えばきっと本人が怒るので口にはしないが、性格が丸くなってきている。一応、これでも、だ。
が、まるで何かを思い出したように、ふと《あの頃》に戻る日がある。感情に支配されることの無い澪斗が、だ。きっとよほどの事があるに違いないが、それ故に原因を尋ねることが出来ない。
……そして……何故だろう、真は、この空気が懐かしい。思い出せないが……確かに、どこかで経験している、ずっと前に。
その空気と沈黙を守ったまま、三十分ほどが経過する。居座りづらいが苦という程でもないので、真は適当にファイルの資料でも読んでいた。やがて、希紗が出勤してくる。
「おっはよー!」
「おはよう、希紗」
少し間をあけて、希紗は事務所内の空気に気付く。一つの空間を、自分のオーラの空気で支配できるのだから、いろんな意味でスゴイと真は苦笑して思う。希紗はこういった空気が苦手なので、「コンビニでお昼買ってくる」と言い訳を作って出勤直後に事務所から出ていった。
「んー……」
別に澪斗に非は無いのだが。注意するようなコトではないけれど、この空気の元凶は明らかに澪斗だし。数日経てば元に戻るけれど、その間、支部の空気が……。
結局考えるのを諦めて、真はこの空気に従順することにする。他のメンバーには、なんとか誤魔化そう。
おそらく相当寄り道をしてきたであろう希紗が戻ってきたが、遼平達が出勤してくる気配は無い。(連続遅刻一ヶ月記録まで、あと四日……)と、部長はデスク上カレンダーの今日の部分に赤ペンでバツ印を書く。
この記録を達成したあかつきには、二人に『女装したまま丸一日東京中を練り歩く』という極刑を下してやるつもりである。
ちなみに、この記録は別に新記録というわけではないので……つまりこの刑は既に二人も経験済みなワケで。あの時、遼平は既に妖怪と化していて、確かにある意味《鬼》だった。純也はというと……一日中男からナンパされまくったらしい。外見は可愛らしい少女そのものだったからか。後日談によるとストーキングにまで遭ったらしく、本人は涙目で「男らしくなりたい」と嘆いていた。
……そんなこんなと考えている内に。
「うをおおぉぉー! やべぇーっ!」
相も変わらず乱暴にドアを蹴り開け、遼平達が出勤(及び遅刻)をしてくる。事務所の入り口で息を切らして膝で両手を支えている二人の頭を、真は軽くハリセンで叩く。
「はい遼平と純也遅刻〜。残り四日で再び《例の極刑》が執行されま〜す」
「ちくしょーっ、悪夢だ〜っ!」
「もういっそのことココに泊まるかァ? なァ、《遼子ちゃん》?」
「やめろっ、その名で呼ぶな! 自分で言うのもなんだが、アレは人間じゃねえ!!」
「確かに、私も二度とアレは見たくないわ。純子ちゃんはカワイイけど」
「やめてよ〜、もうスカートは履きたくないよぉ〜……」
「なら遅刻すんなや」と真は苦笑する。少しは効くかと思ったのだが、再発防止としては不完全な刑だったか。今度はもっとスゴイ(ひどい)刑を考えようか?
「…………」
「……あ?」
いつもならここで、「愚かな貴様にはお似合いだ」とか言ってくる人物が今日はまだ一言もけなしてこないのを不審に思い、遼平は澪斗を確認する。まるで何も気付いていないように、男は瞳を閉じて腕を組み、黙していた。事務所が、妙な沈黙に覆われる。
「澪君……?」
「どうしたよ紫牙、いつもの唯我独尊的セリフはどうしたぁ? 風邪か? バーカ」
「……」
遼平らしい子供のような言葉に、一度瞼を上げて彼を一瞥するが、澪斗はそのまま何も見なかったように目を伏せた。その軽蔑しきったような態度に、不意を突かれながらも遼平は怒る。
「てめぇバカにしてんのか!? ンだよ今のっ」
「遼っ、そんな言いがかりみたいなのやめてよ」
「…………」
「……ちっ、調子狂うぜ」
まったく動かない澪斗に、吐き捨てるように言う。そんなふてくされた遼平とも、全員が席に着こうとした時。
あまり聞かない電子音が、事務所端の棚の上にあるファックスから鳴り響く。今時ファックスなど、滅多に来ないのに。一応中古品を置いておいて正解だったか。
「何やろ、また金貸し業者か?」
軋んだ音を立てながら、ファックスが一枚の紙を吐き出す。その紙を受け取り、ざっと紙面を読んで……部長は硬直した。
「なにバカみてぇに口開けてんだよ、真」
「い……依頼が……」
「依頼だったの? どーせまたロクなのじゃないんでしょ? わかってるって」
「こ……ここ、この依頼……!」
ガタガタと小刻みに震えながら、ぎこちなく真は振り返って紙を指差す。その顔は薄笑いが引きつったような、奇妙なものだった。
「マトモやァーっ! しかもめっさデカい!!」
「「「えぇぇーっ!?」」」
(澪斗を除き)全員が総立ちになる。警備らしい仕事などほとんど来ないと、皆覚悟していたので、予想外の言葉に動揺していた。折角警備なのだから喜べばいいのに、第一反応が『驚愕』とは……なんとも悲しい。
「しかも聞いて更に驚けっ、クライアントはなんと、あの大富豪『氷見谷』や!」
「「「おおっ」」」ともう一回驚きの声。「そんな、まさか……」という純也の言葉も不思議は無い。
大富豪『氷見谷』といえば、遼平さえ知っている、有名な巨大企業のトップを占める富豪一家である。化学、生物工学分野で発展する『ヒミヤ産業』は、海外にも広く知れ渡っている、日本の三大企業の一つ。
「ちょ、ちょっと真君見せてっ」
半ば呆然としている真から、ファックス用紙を受け取る。あんな大富豪から、こんな小さな支部へ依頼が来るとは思えない。悪戯か何かではないか。
「えっと……、
『裏警備会社ロスキーパー中野区支部御中。この度、私どもヒミヤ生物工学開発部より、警備していただきたい物があります。我が開発部の研究成果のディスクを、護っていただきだいのです。警備規模はそちらにお任せしますので、どうかお願いします。日程と場所は下記の通りです。尚、この依頼はご内密にしてください。――――ヒミヤ生物工学開発部部長より』
……だって。すごいや、これ本物だよ! ほら、ココに判子が――」
そう言いかけて、純也は目の前に立った人物に紙を奪い取られる。……険しい表情の、澪斗に。
「れ、澪君?」
「……」
純也を見下ろすその瞳が、まるで敵を相手にしたように鋭い。その視線に純也はたじろぐ。こんな風に睨まれたことは、一度も無いからだ。何か悪いことをしただろうか、と少年は自問するが皆目見当がつかない。
「…………この依頼は、引き受けない」
「え?」
「キャンセルしろ。厄介な依頼に違いない」
「何言っとんのや? 折角のデカい依頼なのに……」
「そうよ、厄介な依頼なんていつものコトでしょ?」
「黙れっ!!」
その剣幕に、四人は一瞬気圧される。俯いて叫んだ澪斗は、淡緑の前髪で表情が見えない。
「な……っ、なんだよ紫牙! てめぇ今日おかしいぞ!」
「……」
僅かに怯えた純也の横に立ちながら、澪斗はまた黙り込む。そして、ファックス用紙を何度か破ったうえで真新しいシュレッダーに押し込んでしまった。
「あっ……」
「澪斗っ、あんた何を!」
「……氷見谷には、関わるな……」
低い、だがしっかりとした声で、それだけ言って澪斗は事務所から出ていった。困惑や呆然といった表情の、四人が残される。
「澪斗……?」
「あァ〜、依頼がァァ〜……」
「おい純也、大丈夫かよ」
「う、うん……。でも……澪君が……」
まだ怯えているような純也に、「紫牙が?」と尋ねる。足下を見つめていた純也は、残った三人を見上げて告白するように口を開いた。
「澪君……ずっと震えてたんだ……」