第四章『レクイエム』(3)
その惨劇から七年後、あまりにも急に澪斗は動きました。
「そんなっ、家を出るってどういうこと!? 澪斗!」
「兄上、どうかお許しください」
いきなり『氷見谷の家を出る』と言い出した澪斗に、僕は当然驚きました。……いや、本当は心のどこかでなんとなくわかっていたのかもしれません。ですが、突然すぎたので。
「俺にはやらねばならぬことがあるのです。もう俺は子供ではありません……力を手にして、目的を果たします」
「目的……? それはもしかして、春菜さんに関わることなのかい?」
僕達双子には、不思議な連繋感覚があります。互いの感情や感覚を、たとえ離れていてもうっすらと共感できる……科学的な根拠はありませんが、事実なのです。それに、ずっと共に生きてきた弟の考えを読みとるのは、あまり難しいことではありませんでした。澪斗があの真摯な眼をするときは、春菜さんのことを想っている時ですから。
「俺は、兄上にずっと黙っていたことがあります。春菜が亡くなったあれは……確実に事故ではありません」
「……故意によって起こされたものだと?」
自然と潜めてしまう声量で僕が問うと、いつも以上に真剣な目つきで彼は頷くのです。
「あの時、俺は現場で不審な男を見ました。右手に狼の入れ墨をした、男です。俺と目が合った途端逃げ出しましたが……俺達以外にあの場にいた者は全員死んでいます、きっとあの人物が……!」
「でも、あの事故はタイヤの故障が原因で起きた、運転手の操作ミスということになっているよ?」
「あの場所でいきなりタイヤが故障して、あのタイミングでガソリンに誘爆したなんていう偶然に、兄上とて疑問を感じていたでしょうっ? そして、あれが故意であった場合、それを仕掛けられる人物に大きな心当たりがある」
僕だってその可能性は考えましたし、その場合の黒幕が誰か、一度ならずとも思案してしまったことがあります。しかしそれは、なるべく考えないようにしてきたんです。
「俺達のことが邪魔で、今となっては実子に後を継がせたがっている人物――――氷見谷蘭……!」
「澪斗っ、憶測で言っていいことじゃない」
「しかし春菜が死んでからのあの女の態度で、わかるでしょう!? 俺達がいかにあの女にとって目障りな存在か……。証拠が無いなら、引きずり出せばいい!」
「何をする気だい、澪斗……?」
お母様への憎悪を露わにする弟を見て、背筋が凍り付きそうになっていきます。その後に続くであろう言葉が、予想出来てしまうから。
「あれだけの事故に見せかけるとは、おそらくあの男は暗殺屋でしょう。『裏社会』なるところには、そういった者達が集うと聞いています。俺は裏社会に潜り込んで、あの男を捜し出して……俺の手でっ!」
「澪斗そんな駄目だよ、危険な……! 春菜さんはそんなこと望まない!!」
「俺が望んでいることです! ……そうです、俺は他人の考えなどどうでもいい! 春菜が望まなくとも、俺はっ!!」
澪斗が僕に対してここまで激しくなることは、それまでありませんでした。僕はわからなくなってしまいました……弟の本当の心が。そしてそんな自分に戸惑うのです。僕達はいつも一緒だと思っていたのに、いつの間にか澪斗は僕では理解できない人になってしまったのか、と。……どうしようもなく、それが怖かった。
澪斗は確かに昔から他人とは馴れ合わない性格でしたが、人をむやみに憎むような人間じゃない。ましてや、春菜さんの想いには絶対逆らわなかったのに、どうして――――そう、思いました。
「……社会は広いんだよ、そう簡単に犯人が見つかるとは思えない」
「何十年かけてでも、俺は捜し続けます。あの日から、俺の生きる理由はこれだけ……」
僕もあの時のことはずっと引きずっていましたが、忘れようと努力してきました。でも澪斗は、ずっと春菜さんを想いながら生きてきていた。僕は――。
「春菜が死んだのは……俺のせいです。俺が氷見谷の子供でなければ……後継ぎ候補でなければ、あんな事にはっ」
「……それなら、僕のせいでもあるね」
僕達は双子なのですから。澪斗のせいだけじゃない。《僕達双子》のせいで春菜さんが亡くなってしまったのなら、僕が出来ることは。
「澪斗、僕は兄として、君に危険な事をさせたくない」
「……っ」
俯いて、澪斗は両手を握り締めていました。世界がみんな敵になってしまったような、そんな痛々しい顔でした。僕は言葉を続けます。
「――――でもね、君の唯一の片割れとして、僕は僕の出来ることをしよう。君だけに危険な事はさせない。僕も違うカタチで協力するよ」
「兄上……?」
「澪斗の考えがもし当たっているとすれば、僕らが大人……後継ぎに近づきつつある今こそ僕達を抹殺しようとするだろう。蘭様は、その機会をうかがっているはずだ。でも澪斗はこれから家を出る。……とすれば、標的になるのは僕だ」
双子とはいえ僕は長男です、当然狙われるでしょう。なら。
「ならば、それを逆に利用すればいい。僕はね、今とても難しい研究を始めようとしているんだ。困難を極めるけど、成功すれば氷見谷に莫大な利益をもたらす。これを蘭お母様方に説明すれば、おそらく研究が成功するまで僕は殺されないだろう。その間、澪斗は裏社会で犯人を捜せばいい。僕の研究が先に成功すれば、用済みになったその時がまさに好機だ。上手くいけば、僕は春菜さんと同じ暗殺屋に狙われるかもしれない。その時は、澪斗を何らかのカタチで呼ぶから。どうかな?」
思いついた計画を口にすると、澪斗はしばらくぽかんと口を開けていたけれど、はっと我に返ってまずこんな事を言いました。
「兄上そんな駄目ですっ、危険な……!」
「澪斗、それさっきの僕の台詞」
おかしくて小さく笑ってから、弟の目を見据えました。尋常ではない決意が見えて、僕も意志を固めることにします。……あの時澪斗に辛い想いをさせてしまった責任を、感じていたからでしょう。
こうして僕達は、お父様の部屋へ向かいました。
◇
豊臣さんにお願いして、蘭お母様にも来ていただきました。「大事な用件なので」というお願いで渋々蘭お母様もお父様の部屋にいらしてくださいました。まだ幼い勝太君も、その場にいたと思います。きっと彼は覚えていないでしょうけど。
「何の用だ、聖斗、澪斗。蘭まで呼びだすとは……」
「そうですわ。くだらない用件ではないでしょうね?」
蘭お母様は相変わらずでしたが、お父様も首を捻っていらっしゃいました。澪斗は、いつものあの膝をついた格好で無感情に言います。
「この度、俺は氷見谷の家から出たいと思います。名を捨てることを、お許しください」
「な……っ、何を言っているんだ澪斗? 突然……」
「俺は、金にも権力にも興味がありません。この家にいたところで、俺は氷見谷に何の役にも立てません。どうか、俺を自由の身にしていただきたいのです」
「ん……しかしな……」
「いいではありませんか、勝人様」
当然躊躇うお父様に、蘭お母様が優しい声色で仰いました。僕達には見せたことのない天使のような微笑みで、蘭様は頷きます。
「確かに澪斗の言う通り、その家に生まれたからといって束縛するのはあんまりですわ。彼が選んだ道なら、仕方がありません」
少し悲しそうに言う蘭様のこれが演技というなら、疑う目で見なければ、決して見抜けない迫真の演技でしょう。演じる僕らも、表情を崩しません。ここで目的がバレれば、双子同時に抹殺されかねない……!
「まぁ、蘭もそう言うなら……」
「ありがとうございます。氷見谷の名を汚さぬよう、俺はもう氷見谷を名乗ることも、氷見谷としてこの土地に足を踏み入れることもいたしません」
「よろしいですわ。この瞬間から、私達は貴方の親ではありませんからね」
大事な人形を抱くように勝太君を撫でる蘭お母様は、一瞬だけ目を細めました。その感情が悲しみなのか喜びなのか疑心なのか……僕にはわかりませんでした。もしかしたら、わかりたくなかったのかもしれません。たとえ継母とはいえ、信じたかった。
「お父様、蘭お母様、僕もお話があります。僕はこれから、ヒミヤ産業の中で科学者として働きたいと思います。後日また詳しい内容はお知らせしますが……僕が手がける研究は、きっとヒミヤ産業に大きな進展をもたらすでしょう。僕は経営学等にうといので……氷見谷の後継者としてではなく、科学者として氷見谷に貢献したいと存じます。澪斗も家を出てしまうことですし……」
こうすれば必然的に後継ぎは勝太君になります。あまりにも蘭お母様にとって都合が良すぎる感じがあるのもわかっていましたが、それも計算の上です。蘭様の反応を見よう、と。
考える表情のお父様の横で、蘭お母様はふと僕達の背後を見ました。しかしすぐその視線を僕に戻して、うっすらと微笑みを浮かべます。
……何かの感情を堪えているように、僕には思えました。ソレは『歓喜』なのか――。
「……わかった、聖斗、お前の意見も受け入れよう。お前には科学者としての才があると聞いている。そちらに専念させてやろう」
「ありがとうございます、お父様」
澪斗ほどではないけれど、僕も深々と頭を下げました。話が終わり、澪斗は立ち上がります。
「それでは、さらばだ澪斗。何処へなりとも行くがいい」
「はい」
彼はお父様に背を向け、一瞬僕の脇を横切りました。……その時、誰にも聞こえない小さな声で。
「……行って参ります、兄上」
「澪斗、どうか無事で……」
表情一つ変えず、僕達は互いの無事を祈っていました。背後に控えていた豊臣さんが扉を開けて、澪斗と共に出ていきます。
……僕達双子の目的は、その瞬間から始まりました。そして、それから五年が経った――。