第四章『レクイエム』(2)
◆ ◆ ◆
「兄上、今日は何処へ行くのですか?」
「えっとね、お父様の催される記念パーティーだよ。確か、中国に系列会社が設立されるお祝いなんだって」
執事の豊臣さんが用意してくれた真新しいスーツを着て、僕は答えました。澪斗は「わかりました」と頷いて、素直に着替えをします。僕の部屋で夜になるのを待っていると、やがて純白のドレスを美しく着こなした春菜さんが僕達を迎えにきてくれました。
「春菜さん、キレイですね!」
「ありがとう、聖斗。でもちょっと派手じゃないかしら」
「案ずるな、……似合っている」
春菜さんが僅かに驚いたように澪斗を見ると、彼はぎこちないながらも優しい眼をしていました。彼なりの、最高の褒め言葉だったのだと思います。
笑顔で僕達二人の頭を撫でて、春菜さんは本邸前に用意された車へ向かいました。運転手はいつもの豊臣さんではなく、知らない男性です。なんでも豊臣さんは、お父様と共に先に会場へ向かわれたのだとか。春菜さんを挟み、僕達は両脇に座りました。
夜も更けてきた暗闇の中、車は長いこと走りました。渋滞を避けるためか、人気の無いトンネルを通過し、抜けた頃。
「ところで春菜、何故急に予定が入ったんだ? 記念パーティーの話など、聞いていなかったが」
「えぇ、私も昨日いきなり勝人様に言われたの。蘭様が急用で来れなくなって、その代理なんですって」
「……奥方が?」
蘭お母様の代理、というのが引っかかったらしく、澪斗は怪訝な顔をしました。今考えると、澪斗は相当蘭様のことを嫌っていたのでしょう。義理でもお母様であるというのに、いつも蘭様のことを『奥方』と呼んでいました。蘭様が僕達を子供として見てくれたことなど、一度も無かったのは事実ですが……。
「蘭お母様、どうされたんでしょうね〜?」
「そうね、ご病気とかじゃないといいわね」
……あの時の僕達は、身に迫った危機など全くと言っていいほど感じていませんでした。いつものように平和な時間を過ごしていた……なのに。
地揺れのように激しく、突如車体が揺れました。運転手が焦ってハンドルを切るのが見えて……次の瞬間には、大きく視界が横転していったんです。すごい音がして、それから目の前が真っ暗になって――――。
「……う、うぅっ」
僕の喉から、意識の回復と共に自然と出る音。どれほどの間気を失っていたかは、わかりません。ふと、うつ伏せに倒れた僕の顔の前に小さな黒い水たまりが。
「せい、と……大丈夫……?」
上からの声に、僕はやっと今の状況が把握できました。頭上から滴り落ちてくる黒い液体は、うつ伏せの僕の身体をかばうように覆っていた、春菜さんの顔からの出血。僕の横には、同様に春菜さんにかばわれた澪斗が、まだ気を失っていました。
春菜さんの上には、潰れた車の屋根がのし掛かっていて、自動車が横転事故を起こしたのだと気が付きました。もう車体は原型をとどめていなく、手を伸ばせばなんとか割れた窓から外に出られそうでした。
「春菜さん、これは……」
「わからないの……聖斗、あそこから抜け出して。澪斗も……」
子供の小さな身体のおかげで、僕は粉砕した窓から這いだしました。ガラスの破片に何度も身体を浅く切られながら、外に出て、周囲の惨状を見渡したんです。ただの横転にしてはひどく壊れた車体と、どこから発火したのかわからない小さい炎――――あとは闇だけで、他は恐ろしく静まり返っていて。
「聖斗、お願い、澪斗を……」
春菜さんの微かな声で我に返って、腕を伸ばして気絶したままの澪斗を引きずり出しました。見たところ澪斗にはひどい傷は無さそうで……僕はそれでも冷静な判断が出来なくて彼を必死に揺すったんです。
「澪斗っ、澪斗!」
「……ぁ……兄上?」
「よかった……。大変なんだ、車がっ」
「え……」
澪斗は急いで身体を起こし、瞬時に事態が理解できたようでした。そしてまず、「春菜は!?」と僕の肩を掴んで言うんです。
「まだ車の下に――」
「春菜っ!」
言葉を最後まで聞かずに、澪斗は飛び出していました。車の割れた窓ガラスから、中へ腕を伸ばして春菜さんを引っ張るのですが……二人で力を合わせても、ほんの少し、春菜さんの顔が見えた程度でした。
「無理だよ澪斗っ、僕達だけの力じゃ!」
「兄上、周囲に大人がいないか見てきてください! それまでは俺が……」
「わかった!」
トンネルの方向へ戻っていっても人気が無さそうだったので、反対側へ走っていきました。少し高い所まで行って……僕は絶望感を想います。不思議で仕方が無いほど、辺りには何も無かったんです。とても遠くに街の光が見えましたが……僕達は都市へ向かっていたはずなのに、どうして。
必死に冷静さを取り戻そうとして、深呼吸し、澪斗のいる事故現場の方を見下ろして――――異常に気付きました。車のガソリンが漏れて流れ始めていたんです。このままではやがて引火して爆発することが、子供の僕にも容易に予測できました。
僕が急いで駆け戻ってくると、澪斗達の声が聞こえてきます。
「おねがい……逃げて。はやく」
「馬鹿を言うな! 死にたいのかっ」
春菜さんは爆発を予期していたのです。まだ澪斗は気付いていませんでした……このままでは僕達全員が。
「澪斗っ! もうすぐここにも引火する!」
「ですが春菜がっ!」
「れいと、せいと……聞いて……」
もう弱りきった声色で、春菜さんは口を開きました。最後の力で、なのにしっかりと。
「あなた達は生き延びてね……そうしてくれたら、私は何の悔いもないから。きっとこれは天罰かな……私、幸せすぎたもの。どうか氷見谷を……二人に幸福を……大好きよ、私の愛しい子供たち……」
澪斗の手を振り払った腕で、春菜さんは最期に僕達の頭をいつものように優しく撫でてくれて……手を落としました。
「俺は嫌だ! 春菜っ、貴女を……!」
「聖斗、澪斗を……」
春菜さんの言葉の意を察し、僕は暴れる澪斗の身体を後ろから抱きかかえてその場を離れました。そして直後、ガソリンに一気に炎が点火して――――。
「春菜あぁぁぁぁー!!」
澪斗の絶叫は、轟く爆音に掻き消されていきました。車体の破片が飛び散り、猛烈な炎を伴って、澪斗を押さえている僕にも火の粉が降り注いで。
弟を押さえた腕が雫を感じて、僕はより強く腕に力を込めました。その時が……僕が最後に見た、澪斗の涙だったように記憶しています。
澪斗の瞳に愛する人の最期を焼き付かせた僕は、許されない劣悪者――――僕こそが、心無い卑怯者なのです。