第四章『レクイエム』(1)
第四章『レクイエム』
……あの方はいつも、僕達のことを優しい眼で見ていてくれました。
僕達だけの花畑でのことです。
「ねぇ澪斗っ、この花キレイだよ」
「兄上っ」
浅はかにもバラの茎をそのまま掴もうとした僕の手を払い、澪斗は先に棘のある茎を握り締めました。僕の手に棘が刺さるのを、小さな手で防いでくれたんです。……その代わり、当然澪斗の手は皮膚を刺されて血を流しましたが。
「澪斗! 大丈夫っ? ごめんっ」
「……これくらい、平気です……」
その当時僕達は十才ですよ? 泣いたっておかしくない状況なのに、澪斗は強がって無表情を装ってました。僕は当然焦って、近くにいらっしゃったあの方のもとへ走ります。
「春菜さんっ、澪斗が!」
「どうしたの聖斗、澪斗がどうかしたの?」
僕を落ち着かせる笑みで目線を合わせるようにしゃがんで、春菜さんは首を傾げました。肩までちょうどかかるくらいの濃い緑色の髪を揺らして、綺麗な顔で微笑んで。澪斗も歩いてきて、小さな花畑の前で春菜さんを前にします。
「澪斗が僕のせいで手をケガして……」
「手を? 澪斗、私に見せて」
「なんでもない。心配するほどのものじゃない」
むすっとして手を後ろに隠す澪斗に、春菜さんは困ったような微笑みになりました。そしてしばらくじーっと澪斗と目を合わせていて、いきなり自分の頭を押さえたんです。
「痛いっ、なんだか頭が痛いわ……」
「春菜っ!?」
澪斗は驚いた顔で急いで春菜さんの手に自分の小さな両手を当てました。それをしてやったという勝利の表情で春菜さんは素早く澪斗の手を握ります。
「澪斗、つ〜かまえたッ」
「あ……。騙したな春菜っ」
血を流す右手をしっかり掴まれて、澪斗は悔しそうな顔をして。やっぱり僕達はまだ子供でした。春菜さんは澪斗の手をじっくり見ると、水で洗って白いハンカチを巻いて、いつものように。
「痛いの痛いの、飛んでけ〜」
「お、俺は痛くなどないっ!」
「澪斗いいなぁ〜。春菜さんっ、僕も!」
「兄上! そんな子供のような……!」
「何言ってるの、澪斗も聖斗もまだまだ子供よ。私のだ〜い好きな子供達っ」
とても嬉しそうに、春菜さんは僕達二人を抱き締めてくれました。温かくて、優しい香りがして。澪斗はずっと顔を赤くしてましたけど。春菜さんは僕達を、死んだ母の代わりにどこまでも愛してくれていました。彼女にとって僕達は亡くなった姉の息子……ただの甥でしかないのに。
本邸の東端にある部屋は、僕達の遊び場でした。春菜さんがお父様に頼んで用意してくれた部屋で、室内の中央には花畑があって。勉強や習い事の合間をぬってそこで三人で遊ぶのが、僕達の楽しみだったんです。あの場所だけは、他の大人が入ってこられない憩いの場……。
僕達がまだ物心もつかなかった幼い頃に、お父様は再婚されました。相手は母と同じ、資産家の方。それが蘭様です。紫牙家も名高い資産家の一つだったんですよ。それなのに、春菜さんは姉の代わりにと氷見谷家で僕達の教育係をかって出られた。
ただ……蘭様は、前妻の妹である春菜さんを良く思っていらっしゃらなかった。そして、僕達のことも。
蘭様の、僕達双子に対する嫌悪感はよくわかりました。でも、蘭様が何か言おうとする度、春菜さんが誤魔化してくれたんです。僕達の前では、嫌な想いをさせないように。
……ただ、澪斗は知っていました。僕達の見えないところで、春菜さんが蘭様に散々けなされているのを。澪斗はそれを僕には言わず、独りで蘭様を憎んでいたようです。僕がその事実を知ったのは、随分と後のことでした。僕は、あまりに人を恨むことを知らなかった……。
だから、蘭様の従者の目もあって、僕達はいつもあの部屋で遊んでいました。澪斗はずっと春菜さんを気遣っていた……そんな感じがします。もちろん僕も春菜さんが大好きでした。実の親子以上に、愛していたのでしょう。
ですがそんな幸せは、ある日突然崩れ落ちます。あまりにも急に、あっけなく、残酷に……。