第三章『閉ざされた思い出』(2)
楽しそうな笑顔の純也を連れて、所々の曲がり角で注意しながら勝太は一階の行き止まりまで来た。行き止まりの廊下の壁に、南京錠が鎖と一緒にかけられた古びたドアが一つ。
屋敷中にある両扉とデザインは同じだが、掃除がされていないのかその扉だけ埃被っていて薄汚い。氷見谷の中にもこんな部屋があるのかと、純也は驚いて扉に指を触れてみる。埃で指先が汚れた。
「そこからは入れない。こっちだ」
勝太は言って、汚れた扉から手前、右壁にある普通のドアへ入っていく。中は狭く、誰もいない。よく見るとモップやバケツがあることから、清掃用具置き場だと思われる。
オーダーメイドであろうスーツを汚しながら、勝太は清掃用具置き場部屋奥の高い窓まで、バケツを積み上げて手をかける。どうやらあの窓から外へ出るらしい、と察した純也は、勝太を押し上げて手伝う。屋敷の外へ着地できた勝太の声で、「早く出てこい」と聞こえて、純也は身体を捻って小さな窓から抜け出た。
警備服の長袖をさすってしまう、容赦ない北風。勝太は外の氷見谷家警備員に警戒しつつ、整備された庭を走って横切り、あの古びた扉の部屋の窓であろうガラスを、両手で押し上げる。……と、鍵がかかってないのか、簡単に窓は開いてしまった。
「勝太君、入ってもいいの? この部屋、たくさん鍵がかかってたよ?」
「いいから来い。俺が許す」
勝太の権限がどれほどなのかは知らないが、あの鍵の量は許す・許さないのレベルではないような……。
躊躇っている純也に構わず、勝太は開いた窓から身を乗り出して入っていってしまう。ここで外の警備員に見つかるとまずいので、純也も片腕で窓の縁を掴んでさっと転がり込んだ。
室内は電気が通っていないのか、薄暗かった。今入ってきた窓からの光だけが光源で、目が闇に慣れるのに時間がかかる。やがて、荒れた部屋が見えてくる。
「ここは……」
「今は俺の秘密基地だ。ココには、誰も入ってこない」
そう言われて、純也はポケットにしまっていた氷見谷家本邸のパンフレットを確認する。先程外に出た時に確認した太陽の位置関係から、ココはおそらく東端の部屋。この部屋の名前は……。
「あれ?」
空白。
ココだけ、部屋の部分に何も書いていない。何の部屋なんだ……?
そんなに広くない部屋……足下に、僅かに土が散乱している。室内中央に、円形にレンガで囲まれた花壇らしきものがある。
「この部屋は使いの者達に何故か『開かずの間』と言われていてな、誰も入ろうとしない。理由を訊いても、誰も答えない」
「だから秘密基地にしたんだね〜。でも、元は誰かの部屋だったみたい……」
中央の花壇の所まで歩いていって、純也は土をよく見る。もうボロボロだが、植物が生えていた痕跡が微かにあった。天井にも園芸用らしきライトがあるし、ココは昔、花が広がっていたのではないだろうか。
「今は俺の部屋だ。母様も、まさか俺がこの部屋にいるとは思わないだろう」
「蘭様もココには近づかないの?」
「俺にこの部屋に近づかないよう言ったのは、母様だ。……言っておくが、絶対に秘密だぞ!」
「わかってるよ。約束するね」
そう言って小指を差し出す純也に、勝太は首を傾げてその指を見た。「なんだそれは」と、訝しげに小指の形を真似する。
「あ、コレね、約束のしるし。こうやって小指と小指を絡ませると、『約束する』って意味なんだ。指切りって言うんだよ」
「ほぉ……じゃなかった、くだらんっ」
一度感心しかけて、勝太は首を激しく振る。なんだか無理に自分を抑えているようで、その感情をやはりどこかで知っている。ここまで激しくなかったが、確かに……。
「変なコトを教えるなっ、この《愚か者》が!」
「あっ……あ〜! 澪君だ!」
ビシッと勝太を指差し、強く自分の言葉に納得する。やっとわかった。初めて会った気がしなかった理由。この人物、性格が澪斗に似ているのだ。
「な、なんだお前いきなり……。俺のことを指でさすな!」
(ミニ澪君だよ……これ……)
本当に澪斗と勝太は義理の兄弟なのか? 聖斗とより、勝太と本当に血が繋がってないか? 命令口調といい、自己主張主義といい、そっくりではないか。きっと大きくなったら、人のことを見下した目で「貴様」とか呼びだすに違いない。
やはり大富豪の息子という環境が、こうさせるのか? 聖斗は例外なのだろうか……。
「ご、ごめんね……。ところで勝太君、紫牙澪斗って人知ってるよね?」
「シガレイト……? 知らん、誰だ?」
「え……」
腹違いとはいえ、兄を知らない? ……そういえば澪斗が家出をしたのは五年前だ、勝太にはまだ物心がついていなかったかもしれない。もし誰からも澪斗の存在を教えられなかったら、ずっと知らずに……?
「聖君……聖斗お兄さんの双子の弟だよ。勝太君のお兄さんにあたる人なんだけど――――」
そこまで言って、勝太がすごく嫌そうな顔をしているのに気付いた。子供らしく、嫌悪感を露わにしてくる。
「お前、聖斗に会ったんだな」
「う、うん、依頼人さんだから」
「純也、言ったはずだ。あいつは悪魔なのだと。あいつの言う事なんて全部悪いことだ。そんなの、嘘に決まってる」
「そんな、聖君はいい人だよっ。澪君だって本当にそっくりだし……。どうしてそんな事言うの? 勝太君のお兄さんじゃないか」
「うるさい! あんな人間の弟だなんて、俺は嫌なんだ!」
純也を睨み上げて、勝太は叫ぶ。埃舞う薄暗い部屋で、その声はよく響いた。純也は自分より小さい子供に、怯んでしまう。
「悪魔が父様の子供だなんて……嫌なんだ……! 俺と血が繋がっているなんて……っ」
「どうして……一体何があったの? 理由を教えてよ」
そこまで勝太が憤る理由とは? まるで聖斗の存在そのものが禁忌のようだ。勝太は純也に背を向けて、しばらく押し黙る。あたかも、当然の常識を説明するのに困っている人のように。
「俺は昔から、母様に『アレは悪魔なのだ』と教えられてきたんだ。氷見谷聖斗が悪魔である理由は…………あいつが、氷見谷の乗っ取りを企てているからだ」
「な……乗っ取りって……っ?」
「まだ父様は知らない。でも、母様はそれをずっと知っていて、あいつの野望を阻止するために俺に後を継げと言うんだ。俺は、氷見谷を悪魔から護る!」
少年から告げられる、衝撃の一言。隠されていた聖斗の企みと、奥方蘭の意志。だがそれは真実なのか? 本当に、聖斗は……。
「あっ、コレも他人には言うなよ! 特に聖斗には絶対だ! わかったなっ!」
「わ、わかった……」
聖斗は今回の研究で氷見谷の支配権を……? 澪斗はそれを知っているのか? いや、もしかしたら澪斗はそれを事前に知っていて……。
(そんな、まさか……。でも、もしそうだとしたら……僕達は……)
利用されている? それともコレには深い意味が? ……このままでいいのか? 真実は……!
気まずい沈黙になってしまい、純也は部屋の隅へ歩いていく。埃の積もった低い棚の上に、元は白かったであろうフォトスタンドがあった。やっぱり埃まみれでガラスの中の写真がよく見えない……。
指で砂埃を払うと、一部分だけ写真が見えてきた。緑色の長髪の女性が、こちらに向かってにこやかに微笑んで椅子に座っている写真だ。その腹部は大きく膨らんでいる……妊婦なのだろうか?
「あ……っ」
写真の全貌が見たくて強くこすっていたら、フォトスタンドを落としてしまった。カシャンッと音を立ててガラスが砕けてしまう。
「何をしているんだ」と勝太に睨まれ、純也はフォトスタンドを隠すように焦って前に立ち、「なんでもない」と首を振った。
知ってはいけない闇に、少年は触れつつある――――。