第二章『微笑む鏡像』(5)
律儀なノックの音を聞いて、聖斗は振り返り、「どうぞ」と入室を促す。やっぱり本に書いてあるような律儀さで礼をして、聖斗の私室へ足を踏み入れたのは澪斗。
小さなベランダへ続く巨大な窓と、壁を埋め尽くす本棚、無駄に大きいベッドに、質素な円卓……全てが、この家を出た五年前のあの日と同じで。視線の先にいる白衣の男も変わらなくて……変わったのは、血が染みついた警備員の制服を着る自分で。
「一通りの警備配置が決まりましたので、ご報告致します。真と希紗は氷見谷家の警備員と交渉中、純也は開発部近辺を警備、蒼波には屋根の上で厳戒態勢をとらせています」
「屋根の上? また面白い警備だなぁ。……それで、僕のことは澪斗が護ってくれるのかな?」
「はい、俺が警護をさせていただきます」
「そう……。じゃあ警備員さん、こっちに来てよ」
微笑む聖斗に指で示され、白い円卓の椅子に腰掛ける。聖斗も向かい合って座り、前もって用意されていた二つのワイングラスに、兄は赤く輝くワインを注ぐ。
聖斗はグラスを持ち上げ、赤い液体の先に弟を映して嬉しそうに。
「改めて……お帰り、澪斗」
「……はい」
緊張の糸が切れたように、澪斗は身体から力を抜いてグラスを持つ。キン……とグラス同士がぶつかる、乾杯の音を立てる。
「こうして一緒にグラスを傾けるのは、僕達初めてだよね」
「そうですね」
「澪斗ってば真面目で頑固なものだから、『未成年の飲酒は違法です』とか言って全然飲んでくれなかったからなぁ」
「兄上も未成年だったではないですか」
「裏に行っても、頭は固いままかぁ」
小さく「申し訳ありません」と呟く。赤ワインを口に少しずつ含みながら、聖斗はおかしそうに静かに笑う。
「澪斗も目が悪くなったのかい? 眼鏡似合ってるよ」
「いえ……、これには度は入ってません。あくまで仕事用です」
「……頑張ってるんだね、警備員として」
グラスをゆっくり揺らしながら、聖斗は目を細めて一言一言区切りながら口にする。その言葉に、澪斗は俯き気味だった顔を上げて兄と目を合わせる。
「俺は、目的の手段としてこの仕事を利用しているだけです。目的の……為に」
その静かで強い言葉に含まれる、否定するような冷たさ。「そう、なんだよね」と、悲しいため息混じりに聖斗はワイングラスを卓上に置く。澪斗は、真剣な顔で深く頭を下げた。
「本日は兄上に道化をさせてしまい、誠に申し訳ありませんでした……っ」
「……頭を上げてよ、澪斗。僕に出来る事をしたまでなんだから」
「しかし……俺のせいで余計な手間を……」
唇を噛んで、澪斗は頭を上げない。聖斗のため息を聞いて、肩をびくつかせる。
「澪斗の眼を一度見て、なんとなく察したよ。これでも僕は、君の片割れだからね」
「……すみません」
「謝らないで。一番辛いのは、澪斗じゃないかい?」
数年間したことの無かった、胸に何かが突き刺さったような澪斗の表情。苦しそうに、葛藤にさいなまれるように、その顔は窮していて。……しかし顔を俯かせて、兄にはそんな表情は見せない。
「俺は……俺はこの目的の為に生きてきたんです。これが果たせるのなら、俺は……!」
「…………わかってるよ、充分わかってる。それは、僕達二人の目的でもあるのだから」
聖斗は席を立ち、俯く澪斗の肩に軽く手を一度置いて、大きい窓の所まで歩いていく。そこから、早く更けてしまった冬空を眺めた。
「兄上から依頼が来た日の朝……俺はあの時の夢を見ました」
「澪斗もかい? 僕もだよ……随分と久しぶりだった。また……あの方を……」
「全てを終わらせます。俺の手で……全てを」
立ち上がった澪斗は、握り締めた両手を見つめて決意を繰り返すようにそう断言した。