第二章『微笑む鏡像』(4)
「いや〜、まさか澪君に双子のお兄さんがいたとはね〜」
既に五個目のフランスパンをかじりながら、純也がしみじみと言う。純也とその隣りの遼平の驚異の食物吸収速度を楽しそうに聖斗が見ていた、そんな時だった。
「まぁ澪斗のことなので、僕や氷見谷の事は外に言ったりしないと思ってましたよ。澪斗ってば生真面目ですからね」
「兄上……っ」
「流石お兄さん、わかってる〜」
澪斗の右に座った希紗が、恥ずかしそうな澪斗を見て感嘆の声をあげる。真も澪斗を一瞥して、至極珍しい彼の表情を窺った。こんな感情的な顔も出来るのか、と。
他の異常なまでに巨大だった部屋に比べれば比較的小さな部屋で、聖斗を含めた六人は晩餐をとっていた。「ディスクは僕が肌身離さず持っているので」と聖斗が言うので、特に警備体制をとることなく普通に食事をしている。そもそも、最後の仕上げである修正プログラムも、彼にしか出来ないものらしい。
長机の短い側に聖斗、その向かいに真が座り、左右の長い側面に純也達が座っている。次々と運ばれてくる豪華なフランス料理を、純也と遼平が物凄い勢いで平らげていく。みっともなくて真はそちらから顔を背け、話題を振ることにした。
「でもようわかりましたね、澪斗が中野区支部にいることが。音信不通だったんでしょう?」
「はい、確か最後に連絡があったのが、四年前でしたから。電子メールでたった一言、『警備会社ロスキーパーという所の、中野区支部にいる』っていう内容でした」
「素っ気無いわね〜。お兄さんが心配してたんだから、連絡ぐらいすれば良かったじゃない」
「……フン、俺は家出の身だ。そうそう連絡などできるか」
慣れた手つきでフォークとナイフを扱いながら、澪斗は当然のように言う。聖斗が僅かに寂しそうな笑顔で、微笑んだ。
「それなんだけどよ、なんでてめぇは家出なんかしたんだよ。反抗期の女子高生かコノヤロー」
食べながらでもケンカ腰なのだからある意味スゴイと、真は感動さえする。上手くフォークが使えない遼平は、ナイフを両手に持って、肉を突き刺しながら口に運んでいた。
「遼、人には色々理由があって……」
「でも実家がこんな大富豪だぜ? 気にならねぇか?」
「それは……」
それはそうだけど、と言いかけて、純也は止める。澪斗が軽はずみな理由で動くはずがない。でもそれならより、気になってしまう。そこまでの理由とは?
「……自由になりたかった。…………それだけだ」
「自由、ねぇ……」
確かに上流社会は、家の束縛が強いと聞く。生まれた時から結婚相手が決まっていて、仕事も己に選択肢が無かったり。自由など知らずに豪邸で長寿をまっとうしていくのは、どんなに贅沢で息苦しい人生なのだろう。……遼平達には、見当もつかない。
「俺は金にも権力にも興味は無い。後悔はしていない」
「へっ、御曹司が考えることはわからねー」
吐き捨てるように、遼平は言う。子供の頃から自由奔放に生きてきた遼平には、結局わからないのかもしれない。
「せやけど、そんな事が出来るんも、あんたが次男だったからやろ? 聖斗はんは次期ヒミヤ産業の社長なんでっしゃろ?」
「いいえ、僕は後継ぎではありませんよ。僕は研究は得意ですが、会社運営とかは全く出来ないので」
「へ? じゃあ後を継ぐのは?」
そこまで話を聞いていて、純也はとある人物を思い出した。澪斗達の話ですっかり忘れていたが、そういえば……。
「もしかして、氷見谷勝太君?」
「あれ、よくご存じですね。そう、蘭お母様の実子、勝太君が後継ぎになる予定です。あくまで暗黙的に、ですけど」
「おい純也、勝太って誰だ?」
「あのサファリパークで、僕を助けてくれた子だよ。道を教えてもらったんだ。僕より小さい男の子だったけど」
そういえばあの部屋は主人勝人の子息の部屋だと、執事豊臣が言っていた。その子息というのが『勝太』なる人物で、どうやら聖斗達の腹違いの弟にあたるらしい。長男が研究に没頭し、次男が失踪した今、その三男である子供が後継ぎになるのか。
『いいか純也、氷見谷聖斗には警戒しろ』
勝太を思い出して、同時に『あの事』も純也の脳裏を過ぎる。部屋の出口まで送ってもらう途中で、勝太に受けた注意を。
『どうして? 怖い人なの?』
『あいつは悪魔だと聞く。その、あれだ……、ヒトデナシ、とか言うやつだ』
『人でなし? ウチの遼よりもかな?』
『たぶんな。誰よりもヒドイ性格らしい』
会話の断片だけを記憶から引き出し、もう一度聖斗を見やる。にこやかに笑う、いい人……だと思う。(悪魔……人でなし? ドコが……??)と、フォークを止めて首を捻る。純也が知っている人達の中でも、聖斗はかなりの好印象なのだ。……といっても、純也の場合、嫌いな人間などほとんどいないが。
「どうしました、純也君?」
「あ、いや、なんでもないんです聖斗さん」
「……ん〜……」
「聖斗、さん?」
考え込むように顎に手を当て、聖斗は眉間にシワを寄せる。もしかして考えていた事がバレてしまったのかと、純也は恐る恐る表情を窺った。
「澪斗が羨ましいな……」
「……へ?」
「純也君、僕も澪斗みたいに呼んでもらえませんか?」
「はい??」
いきなり何を言いだしたのかと、純也は混乱する。真達も驚くし、澪斗など飲んでいた紅茶を噴き出しかける。
「呼ぶって……どうやってですか?」
「いや、僕も君付けで呼ばれてみたいなー、なんて思いまして」
「はぁ……じゃ、じゃあ、『聖君』?」
「うわぁ、いいですねソレ! 若返ったみたいだぁ」
「兄上……二十二にもなって……」
手を叩いて喜ぶ聖斗に、澪斗は何度目かのため息を吐く。
どちらも、まだ二十二歳とは思えない貫禄。聖斗など、普通に真より年上に思えた。見た目は澪斗そっくりなのに。
「皆さんも、僕のことは澪斗と同じように扱ってください。『ダメ口』ってやつで」
「あの、それはたぶん『タメ口』の間違いだと思いますけど……」
「あれ? そうなんですかー」と、恥ずかしそうに言ってから、はっと我に返ったように首を振る。
「って、駄目ですよ安藤さん、敬語を使っちゃ」
「あ、そっか……。ねぇ真、クライアントの指示だし、いいわよね?」
「うーん……ワイとしては何とも言い難いなァ。相手は大富豪の子息やし……」
「なんだよ、あっちがいいって言ってんだから、別にいいじゃねーか。な、聖斗?」
「はい、もちろんです」
「……遼平、あんたは一度も敬語を使ってへんがな……」
遼平の言葉に笑顔で答える兄を見て、弟は複雑そうな顔をする。その意を読みとり、真は澪斗に尋ねた。
「なんてことになっとるけど、あんたはエエか、澪斗?」
「……兄上がそれを望まれるのなら……」
いつもの無関心そうな表情ではなく、困って独白するように彼は呟く。そんならしくない澪斗に、少し驚いた。兄の前では、自分に素直になるらしい。
「じゃあ決定ね! よろしく聖斗っ、私のことは名前で呼んで」
「はい」
今までで一番嬉しそうな聖斗。真はふと、そんな兄を哀しい眼で見る澪斗に気付いたが、何も言わなかった。