第二章『微笑む鏡像』(2)
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薄暗い地下室で待っていたその人物は、冷気を感じさせない温かな微笑みで警備員達を迎えた。
淡緑色の短髪に、縁の無い丸い眼鏡、整った顔立ち。長い白衣を着ている点を除けば……紫牙澪斗と外見は何の変わりも無い。
「聖斗様、こちらが部長の霧辺真様、そして蒼波遼平様と安藤希紗様でございます」
真達の後ろに下がった執事が、唖然としている警備員達の代わりに名を紹介する。そして、今度は真達に向かい、聖斗を手で丁寧に示す。
「皆様、氷見谷聖斗様は、氷見谷勝人様のご長男にして、この開発部の部長様なのでございます」
その言葉に、聖斗は僅かに照れるように微笑みを深くする。ずっと固まっていて微動だにしなかった澪斗が、跪いて右膝をつき、左膝を立てて頭を下げた。
「……ご無沙汰しておりました、兄上」
「無事のようで何よりだよ、澪斗」
その声の質は、限りなく近かった。背格好、声、珍しい髪の色までほとんど同じ。
聖斗は笑顔で澪斗へ腕を伸ばして立たせ、真の所まで歩いてくる。そして、頭を下げてこう言った。
「霧辺さん、初めまして。双子とはいえ、弟がお世話になり、ありがとうございます。実は今回僕は――」
「……氷見谷聖斗はん、ワイらに一分時間をくれませんか」
「はい? どうぞ、構いませんが……」
「お言葉に甘えまして……せーのっ」
小刻みに震えて俯いていた真が、いきなり顔を上げる。後ろの遼平と希紗も同じようにして。
「「「あっ、兄上ぇぇー!?」」」
「何やこの展開はァァー!?」
「ドッキリっ? ドッキリ企画なのコレは!? カメラはどこっ!?」
「やべえぇっ、夢が覚めねえ! 現実に戻れねえぇー!!」
それぞれ絶叫したり、部屋をきょろきょろと見渡したり、頭を押さえたりと、警備員達は実に個性豊かなリアクションをとる。澪斗は恥をかいたように振り返った。
「えぇいっ、うるさいぞ貴様ら! 喚くな!」
「だって!」
「澪斗がっ!」
「敬語をっ!!」
「何だその言いようは! まるで俺が礼儀をわきまえぬ人間のようではないかっ!」
「「「その通りだ!」」」と三人全員で澪斗を指差す。その勢いに押され、一歩後ずさる澪斗。(彼の)予想外の強意肯定。
「じゃあナニかァっ、澪斗が氷見谷家の御曹司ー!?」
「双子っ? しかも弟!? 弟としてどうなのその性格はー!?」
「てめぇっ、その髪は地毛だったのかよ!?」
「……蒼波だけ驚く観点がズレていると思うのだが……」
もう怒る気にもなれないのか、肩を落として澪斗は眼鏡を指で直す。驚かれることは、事前にわかっていたらしい。
「……えっと、そろそろ一分経つんですが……」
叫びすぎて息を切らす警備員達へ、ずっと微笑みで黙っていた聖斗が口を開く。彼自身は驚いた様子も、動じた感じも全く見せない。
「賑やかで若々しくていいね、澪斗」
「兄上、包容力がありすぎです……」
「裏社会ってこんな感じなのかい?」
「大きく誤解です。この者達は、例外の頂点にいるような人間なのです」
疲労が溜まったような表情をしつつ、澪斗は必死に首を横へ振る。裏社会への間違った先入観を持たせてはいけない。
「どういうことだよ、説明しろ紫牙……じゃなかった、氷見谷」
「……紫牙でいい。…………俺はもう氷見谷ではない」
深呼吸して、遼平はやっとそれだけ口にするが、澪斗に否定される。真や希紗も困惑の顔をしていた。
「そうですね……。澪斗、まずは少し僕達のコトを紹介しないと」
「……わかりました、俺が言います。……改めて言おう、俺は氷見谷の次男だった」
「『だった』……?」
「五年前までは、な。五年前、俺は氷見谷の名を捨て、この家を出た。それから裏社会に入り……紆余曲折があって警備員の今に至る。兄上は氷見谷に残り、この開発部で研究を続けていた。ちなみに紫牙という名は、俺の母方の姓だ」
「ちょ、ちょっと待てや。じゃあさっきの氷見谷蘭っちゅー奥方は、あんたの母親なんか?」
「……違う。俺達の実の母は、出産直後に死んだ。あれは後妻だ」
「皆さん、お母様にお会いしたんですね。何か仰っていましたか?」
そう聖斗に問われ、真達は躊躇う。苦笑を漏らした聖斗は、答えなど問う前に知っているように思えた。
「…………奥様は、『下賤な者を氷見谷に入れるな』、と仰せでした」
聖斗に気を遣いながらも、執事は命令を忠実に遂行する。「そうですか……」と聖斗は今知ったような仕草で苦笑を深くした。
「皆さんに居心地の悪い想いをさせてしまったようで……すみません。僕の責任ですので、どうか気にしないでください」
「い、いや、全然大丈夫ですから……」
深々と頭を下げる聖斗に、真は焦って手を振る。澪斗の双子ということは真より年下ということだが、何故かぎこちない敬語になってしまう。聖斗は、顔を上げるとにっこり微笑んで話を続けようとした。
「ありがとうございます。……それでですね、僕が今回依頼した件のことなのですが――」
「……聖斗はん、あの、度々話を切るようで申し訳ないんですが、」
「なんでしょう?」
「頼むのでその顔で笑わんでくださいっっ」
「はい?」
首を傾げる聖斗の両肩を手でしっかり掴み、真は本気の顔で目を合わせて切願する。既に支部長の後ろで、二人の部下はしゃがんで激しく脱力していた。
「澪斗がっ、澪斗の顔が笑ってるわ! しかも邪気ゼロでっ!」
「惑わされるな希紗っ、アレは紫牙じゃねぇ! 紫牙じゃねぇんだ……でもわかってるのに悪寒が止まらねえ!!」
「聖斗はん! もっと怒って! 睨んで! 殺気を放ってくださいっ!」
「……ねぇ澪斗、君はいつも一体どんな風に過ごしているんだい?」
「いや、俺は普通に生きているだけで……」
普通に生きている人間は殺気を放ったりしないと思うのだが、弟は真面目に答える。何がおかしいのか、双子の兄はずっと小さく笑っていた。