まことに勝手ながら本日の営業は午後7時からでございます。
「いきますよ。そーれっ!!」
暖かな春の日差しの下、蛍の放ったボールが宙で弧を描く。それを迎え撃つは、気合いに満ち溢れ姿勢を低く構えた紬だ。
「おいおい。なんだよそのへなちょこサーブは。さすが蛍ちゃんだなっ!」
「む……」
紬は重力に従って緩やかに落下してくるボールの下で、余裕の笑みを浮かべる。あとは自らの構えた両腕にそれが到達する瞬間を待つだけだ。
砂浜に書かれた即席のコート。中央で線引かれた両コートにおさまるのは、紬・井吹・好海チーム。と、蛍・御堂チームである。両者の間に立ち審判を務めるのは柏木。その背丈から、ボールの高さの目安――ネットが無い為――としても役割を果たしているようだ。
「甘いな。お前は甘いよ、紬」
ボールが紬の元に落ちる中、春の日差しに眼鏡をきらりと光らせた御堂がそう言って鼻で笑う。それに反応してボールから目を離した紬は、御堂とほんの一瞬火花を散らせる。
が、それがいけなかった――御堂の側としては、それも策略の一つであることは明らかであった。
「何だとおっ!?」
垂直に落下してくるかのように思えたボール。その軌道が突如変化したのは、紬の腕に触れようとした直前であった。
風、である。海から吹く気まぐれな春の潮風が、ボールの側面を軽く撫でたのだ。微妙にして絶妙な風に煽られたボールはそのまま紬の腕の横をかすめて、砂の上に落ちようとする。
しかし、そこで終わらないのが紬である。彼は即座に反応を見せた。身を低くして地面とボールの間に身をすべり込ませ、そして――。
「よしっ! 取った!!」
砂にまみれて転げる紬。
皆が見上げたその頭上には、ボールが高く上がっていた。
「おお。頑張るじゃないか」
「つむぎお兄ちゃん、すごーい!」
空を見上げるチームメイトの二人はそれぞれに感嘆の声をあげる。その声をバックに紬は、「どうだ」とばかりに敵チームを満足げに見据えた。
紬によって打ち上げられたボールは、柏木の背丈をゆうに越し相手側コートへと向かう。
しかし、その先には、
「蛍」
「はいっ!」
紬が何とか打ち返したボールは、そのまま相手のチャンスボールとなって蛍の頭上へ。額の前で両手を掲げた蛍は、肘のばねを利用し落ちてきたボールを中央線の際へと起用に運ぶ。
そこには、高くそして優雅に飛び上がり、中空で待ち構える男がいる。
「だから、甘いって言っただろうに」
「ま、待っ、御堂っ!?」
「待たないよ」
絶妙な力加減によって蛍から渡ったボールは、そのまま御堂の左腕に吸い込まれる。そして、その白い腕に当たった瞬間に、急激に早さと角度を変化させられ――
「うぐぅっ!?」
「打ち返したぐらいで、余裕をかますからそうなるんだよ」
紬の顔面に命中していた。
音も立てずに砂上に着地した御堂は、ずれ落ちそうになる眼鏡を指でかけ直した。
「御堂、お前。わざとやったろう!?」
「さあ、どうだか」
御堂はどこまでも冷静に、足元で膝を折る紬を見下ろす。再びかちあった二人の視線は、その中央で静かに火花を散らせていた。
それにしても。
『みすみお兄ちゃん、もね……いっしょにあそぼ?』
ボールを追いかけてやってきた好海の言葉が思い出され、井吹は一人首を傾げた。
果たしてこれは「ボールあそび」なのだろうか。完全に「試合」と化している、そう思うのは自分だけだろうか。
しかし、井吹を誘った張本人の好海を見れば、楽しそうに声をあげている。先程からボールに一度も触れられていないというのに、である。まあ、本人が楽しいのなら良いのかもしれない。考えた方が負けなのだろう。
本当はできるだけ好海とは関わりたくない。
それが、井吹の本心である。関わりたくないというか、関わるべきではない、とそう自分に言い聞かせている節が強いのだが。
先程好海に誘われた時も、実は井吹は冷たく断ってしまおうかと思ったほどであった。しかし、現在彼は即席コートの中に立っている。
『良いですね。一緒にやりましょう。好海ちゃん、自分も良いですか?』
断ろうと口を開きかけたのを、横にいた蛍に遮られてしまったのだ。
蛍のその言葉を聞いた好海は、それまで不安げだった顔を、ぱあと花が咲くようにほころばせた。
そんな顔をされては、もう「やらない」などと言い放つことはさすがの井吹にもできなかった。結局、好海の無邪気な笑顔と蛍とに流されるままに立ちあがってしまったのである。
「井吹さん、そっち行ったよ!」
紬の声に現実にひき戻った井吹は、頭上を見上げた。高く上がったボールは、自身のいる位置めがけて降下してくる。井吹は反射的に両手を前に構え、ボールの到着を待った。途中、パスを呼ぶ紬の声が耳に入ったので、自身から彼までの距離を目で測りボールに与える力加減を頭に浮かべる。
ボールは先程のように風に吹かれることはなく、素直に落ちてきた。井吹はそれを難なく自らの腕にあてることに成功した。
そして。
「よし! 見てろよ、御堂。俺の必殺必勝ミラクルスパイク!!」
井吹の打ち上げたボールを追うように、高く飛び上がる紬。
「何だそのめちゃくちゃなスパイク名は。呆れてものも言えない」
「弱そうなことこの上ないです」
腰を落として待ち構える対抗チームの二人は、至って冷静。むしろ紬の命名センスに冷めきっている。
そんな二人をよそに、彼はボールを十分な位置まで引き寄せ、右腕に持てる限りの力を込める――――
「ふんっ!!」
紬の振りかざした右腕に捕えられたボールは、それを食い止めようと両手を上げ飛び上がった御堂の横を通り過ぎ、高速度で敵チームコートの砂上目がけて飛んでいく。
「まずいな。蛍っ……」
「あわわっ!?」
そして、砂上に飛び込む蛍。
しかし、その蛍の細腕はボールに触れることはなかった。
二人の間を縫うようにして突き抜けたボールは、砂をえぐり砂浜に丸い跡を残した。
「よし!」
砂を巻き上げ着地した紬は、相手コートに向かいこれ見よがしにガッツポーズをとって見せる。
「やったー! つむぎお兄ちゃん、かっこいいー」
「そうだろう、そうだろう!!」
ぴょんぴょんととび跳ねながら紬の元に向かう好海。紬は好海を抱き上げると、くるくると回って喜びを全身で表現する。
喜びすぎだろう。
そんな二人を傍観する井吹は、コートに一人立ちつくしていた。
「ほらほら、井吹さんももっと喜ぼうよ! ねぇ、好海ちゃん」
「うん。好海、うれしー」
「はい。井吹さん」
「ん……?」
砂にまみれた井吹と彼に抱きかかえられた好海が、井吹に近づいてくる。3人向かい合った状態で、井吹は首を傾げて固まった。
そう言われても、何をしろというのか。井吹は怪訝な顔で目の前の2人を見つめる。
すると、紬に抱かれ目線を合わせた好海がにこにこしながら、井吹に向けて両てのひらを向けてきた。
「ほら、井吹さん。早くしないと、俺の腕がちぎれちゃうよ。好海ちゃん、結構重いから」
なるほど。
井吹は、一瞬うろたえ戸惑うように目を泳がせ、それから諦めたように自らの両手も差し出した。
「いえーい」
「…………」
ぺち、と乾いた音をたてて合わさった好海と井吹の手のひら。
それはぎこちなくではあるが、二人が初めて触れ合った瞬間であった。
しかし、喜びあうのもつかの間。
「ちょっと、そこのお3人」
対岸からの御堂の声。その声に促され一同の視線は声の主に集まる。見ると、御堂は薄らと笑みを湛え、先程ボールによって削られた砂浜の付近を指差していた。
指差した先には勿論先程のボールにえぐられた丸い跡。
「なんだよ、御堂。負け惜しみか?」
「馬鹿。そんなわけあるか。いいか、良く見ろ紬」
好海を降ろした紬は相手コートまで踏み込み、御堂の指し示す先を確認に行く。
「あ……」
紬は小さく声を上げると、それから何も言わずに自陣へとすたすたと戻ってきた。
突然静かになった紬の様子に、事情を呑み込めず呆ける井吹と好海。
「審判」
短く柏木に言い放ち、御堂は元いた位置に戻った。その顔には余裕の笑みが浮かぶ。
「線の外側だ」
そして、この柏木の一言である。
井吹のみならず、好海までもが溜息をついた。それがしんとした砂浜にやけに残響を残した。
その後も両者の攻防は続いた。
大人げない紬と御堂のやりとり、それに声を上げて笑う好海。幾度となく砂に足を取られ尻もちをつく蛍と、意外にもルールに忠実で手厳しい柏木の審判――。
そうして時間は過ぎて行く。
ボールは現在御堂の手の中にある。御堂は相手側コート前面に立つ紬を見据え、狙いを定める。
「さあ、蛍。ここから一気に点差をつけるとしようか」
「はい!」
御堂と蛍。二人の掛け合いと共に高く放られたボールは、御堂の掲げた腕に向かい垂直に下降する。そのタイミングは絶妙で、しかもボールの軌道を邪魔するような風は一切ない。御堂の腕は必然的にボールの芯を捕らえた。
そんな御堂の華麗な動作によって、力を与えられたサーブボールの向かう先は、
「俺じゃないだと!?」
「……ふふ。計算通り」
「目線はフェイクか。井吹さん、頼んだ!」
誰もが御堂の目に騙された。ボールは紬の元に向かうことはせず、その斜め後ろに立つ井吹へ――。
しかし、井吹もまさか自分へ向かってボールが飛んでくるとは思ってもいなかった。咄嗟に両の手を構える井吹であったが、それとボールの到着はほぼ同時といってよかった。勢いよく飛び込んできたボールは、なんとかギリギリで受け止めた井吹の体勢を大きく崩して、春空に舞い上がった。
「……くっ」
「あっ!!」
よろけ顔を歪める井吹。ボールの行方を目で追い思わず声を漏らす紬。中央線を隔てた向こう側では御堂がほくそ笑む。
舞い上がるボールは前ではなく、角度をつけて真横、それも静かに波打つ海へ向かう。
御堂・蛍チームの得点か。ボールの行方にそう確信した大人たちは、そちらに飛び込む訳にも行かず黙って海の方を見るだけであった。
「ボール!!」
しかし、そんな大人たちをよそに、冬の寒さの抜けきらぬ海へ向かって走っていく小さな影があった。
「こ、好海ちゃん!?」
「だめだよ。危ないから戻って!!」
そんな姿を目にし、焦り制止する声。しかしながら、ボールを追いかけることに夢中の好海にはそれは届かない。
小さな子供には、今現在の海水温は冷たすぎる。濡れようものなら風邪をひいてしまうのは目に見えている。
海に走り寄る好海を止めようと動き出すも、一度ボールを追うことを諦めた彼らの足は、ほんの一瞬砂を蹴るのが遅くなる。
「きゃあっ!!」
そして、ばしゃりという高い水音。
小さな悲鳴が上がるのと、ボールが海面に着水するのはほぼ同時のことであった。
「冷た……」
しかし、次に聞こえたその一声は、小さな女の子のそれではなかった。
それはいかにも不機嫌で単調な大人の低音。
好海は海水に少しも濡れることなく宙に浮いていた。勿論それは彼女が超常的な力で浮いている、という意味ではない。
要するに、彼女は今、誰か腕の中にいるのである。
海を目下に宙釣り状態できょとんとする好海。彼女を抱き上げているのは、井吹であった。
彼女が海につかってしまう寸前、その小さな体を追いかけ拾い上げることに成功したのだ。それは良かったのだが、追いかけた勢い余って海に突入してしまったようで、彼の両脚は膝までしっかり海水に浸されていた。
それをみとめた一同の間に安堵の溜息が広がった。
「うわっ!?」
と、そして緩んだその空気と共にもう一つ立ち上った水音。先程よりも数倍盛大なものである。
「つ、つめ、冷たー!」
井吹と好海のすぐ横で、紬が尻もちをつく形で、ほぼ全身を海水で濡らしていた。
同じく好海無事を確認して安堵した彼は、助けに飛び込んだ足を滑らせたのだ。
「あーあ」
「阿呆が」
嘲笑を交え顔を見合わせる蛍と御堂。そして柏木までもが、肩をすくませ呆れている。
「まったく、馬鹿だなあ」
井吹も紬の姿に、自然と笑いがこみ上げる。
分かっているのかいないのか、好海もそんな井吹の腕の中でくすくすと笑っていた。
――確かに、重いな。
『好海ちゃん、結構重いから』
冷たい海水に足を浸しながら、井吹は先程の紬の何げない一言を反芻、そして実感していた。
初めて抱き上げた我が娘は、重たかった。井吹のその片腕では支えきれないのではないかと思うほどに、ずっしりと重い。重すぎた。
ご一読頂き、ありがとうございます。
ここで少しブレイクタイムといったところです。次話から動き出しますよ。