* 08
形良く握られ、きっちりと整列するおむすび。見とれてしまうほどに、華やかに飾り詰められたおかず。
さすがというべきか、当然というべきか、柏木の手によって作り出された料理は、ランチボックスという狭い空間に押し詰められたとしても、その輝きを失ってはいなかった。
ふわりと薫る卵焼きの甘い香り。続いて、食欲誘うコショウのきいたベーコン巻。そして極めつけは、玉ねぎと肉の香りが程良く絡み合った花の形のハンバーグ。
かと思えば、隣りのランチボックスではタコやカニさまざまな海の生物が踊り、皆の目を楽しませる。しかし、良く見てみれば、それは器用にかたどられた色とりどりの野菜達。幼い好海でも食べやすいようにという、柏木の配慮がちらりと垣間見えた。好海もそれに応えるように、ぱくぱくと躊躇することなく野菜を口にしている。時折手を止めては、これは何あれは何、と生物の名前を大人達に報告する様子がなんとも微笑ましい。
しかし、配慮や親切というものは本人の心持ちしだいで、他者に与える印象をがらりと変わる。仮に、今の野菜達が柏木の優しさを伝えるのに効果的な配慮であったとして――。
「かしわぎお兄ちゃん。さっきね、なまことったの。いーっぱい! ごはん食べたらお兄ちゃんにもみせてあげるね」
柏木の作った料理への感動と先程のなまこ採取の興奮冷めやらぬ様子の好海は、おむすびを頬張りながら、隣りに座った柏木を大きな瞳で見上げる。キラキラと尊敬ともとれる眼差しを向けられた柏木は、静かに頷くことでその純粋な瞳に応える。
「でもね。好海、なまこのことよくわからないの。だってはじめて見たんだよ。でろんでろーんってしてへんなの。それで、ちょっとだけかわいいいんだよ、うにゅーってしてて。かしわぎお兄ちゃんは、なまこ好き? 見たことある?」
5歳児のできる限りの表現力をもって話す好海であったが、興奮も重なり、なまこの生態を伝えきれていない。加えて擬態語が少々独特である。
そんな好海の様子を微笑ましく見守る御堂や蛍。しかし、ここでそうならないのが柏木の生真面目さだ。
「なまこか。ふむ……」
柏木はそう言って、一旦食事の手を止める。そして、
「なまこは好きだよ。あれは生で食べても、火を通してもなかなかに美味しい。生の場合は、塩で一旦粘りを取り去って水で身を引き締めるんだ。そうするとコリコリと良い具合に出来上がる。醤油をかけて食べるのも良いが、酢の物が主流だろうな。ただし、あまり長持ちするものではないから、生で食べたいのなら早めに。保存するなら三杯酢に漬けておくと良い。それからワタを取るのも忘れずに。そして火を通すのなら、佃煮や煮物が良いだろうな。姿煮なんていうものもあるが、あれはさすがに少し見た目に抵抗が。やはり一口大に切って煮付けるのが良いだろう。ああ、でもなまこの旬は冬だから、今の時期では少し暖か……」
「あの、柏木さん。ちょっと」
「うん? どうした、蛍」
「柏木。少し黙っていようか」
「…………?」
いつにない柏木の饒舌ぶり。しかし、それはやんわり控えめな蛍と鋭利で直接的な御堂の制止によって終焉を迎えた。
それに対し、首をかしげる柏木はわずかに唇を尖らせ不満の意を表している――ようにも見えるが、微かな所作なのでそれすら定かではない。しかし、次の瞬間にはさすがの柏木もその顔色を変えていた。
コロコロとシートの上を転がる食べかけのおむすび。それは行儀よく正座をしていた柏木の膝頭に当たって止まった。
「なまこ、食べるの? かしわぎお兄ちゃん……食べちゃうの?」
おむすびが転がってきた先には、昼食を手から落としてしまう程のショックに苛まれ固まる好海がいた。あまりのことに潤ませた瞳からは今にも涙がこぼれおちそうだった。
個人の認識違いというものは恐ろしいもので、どうやら好海と柏木とでは“なまこ”への関心の形が大きく異なっていた。好海は純粋に一生物として、柏木は食材としてそれを見ていたのだ。柏木としては、なまこに興味を示した好海に対し知っている限りの知識を用意したのだが、それは5歳児には衝撃的な話として受け取られてしまった。結果はこの通り。現在好海にとって、目の前にいる男はさながら可愛い生き物を取って食わんとする怪物である――それも相当おいしく調理していただくらしい。
「あ、いや。その。そうでなくて……」
少女の涙目を前に柏木は口ごもる。咄嗟の涙に対処する話術を彼が持ち合わせているわけもなかった。
「そうじゃなくないもん。だってかしわぎお兄ちゃん、食べるって今いったもん。おしょうゆかけるって。すのものだって」
「うう……」
柏木が為すすべもなく、低く唸る。そして――。
「かしわぎお兄ちゃん、きらいっ!!」
で、ある。
好海はそう言いきり傍らに置いたなまこ入りのバケツを引き寄せ、怪物の魔の手から守るように抱え込む。そして、ぷいっと柏木から目を背けてしまった。せっかく昼食で掴んだ好海の心も、今は完全に彼から遠く、はるか彼方へ離れていた。
「あーあ。嫌われたー。だいたい5歳児になまこの調理法教えてどうするよ。俺知ーらない」
「自分は一応止めましたから。柏木さん、悪く思わないでくださいね」
「僕も知らないよ。なまこを食べるお前が悪いんだから。好海ちゃん、ちなみに僕はなまこは食べないから安心して。柏木とは違うから、ね」
三者三様に言いたい放題の三人。
親切心が完全に裏目に出た上に、御堂達にも突き放され、柏木は元から少ない言葉を更に失った。
けれど、その場の誰もがどこか瞳に笑いを浮かべていた。どうしようもなく些細な荒事は、時として場を和ませる。
様子を窺っていた井吹も、いつしか笑みを湛えていた。それはほんの微かな優しい顔で。ほんの数瞬であるけれど確かに娘を見ていたのだろう。
しかし、彼はまだそれを知らない。
まだ、知らない。
昼食を終え、後片付けを行っていた柏木は、視界の隅にとらえた影に顔をあげた。
好海を囲んで談笑する輪から外れ、その場を静かに離れていく後ろ姿。井吹であった。
その背中を目で追っていくと、やがて彼が立ち止まったのは、幾分離れた桜の木の下。まだ殆ど花を咲かせていないこの浜でも特に遅咲きの桜であった。
「……なるほど」
と、柏木は一人静かに呟く。会話に夢中になっている連中には届きはしない。彼の微かな声はまだ冷たさの残る春の風に混ざり、溶けるようにしてふわりと消えた。
井吹がそこで何をしているのかと言えば、喫煙、である。ただ、柏木は彼のその行動を、それ以上の意味を持って見つめている。
心境の変化、といえば良いのだろうか。普段の彼ならば、構うことなくこの場で煙草を取り出していただろう。例えば、一人で『gift』に来店した夜のように。そして、好海と転がり込んできた昨夕のように。その時の彼は、自然に煙草を取り出し火を付けた。一人の時は良いとしても、特に昨夕は好海のすぐ目の前だった。だというのに、今は。
――今のこの状況を、進歩と言わずなんと言おう。
しばらく離れて煙草を吸う井吹の方を見ていたが、柏木はふと何かを感じ、視軸をすぐ近くへと移した。
そこには、柏木と同じく井吹に目を向ける者が一人。話の輪に加わりながらであるため横目にではあるが、眼鏡の奥の瞳は確実に笑っている。仕様のない人だ、などと思っているのだろうか。彼は不意に視線を柏木の方へやり、その茶金の髪を風に揺らして呆れたように微笑むと、肩をすくめて見せた。
ほんの一瞬の眼だけでの会話。しかし互いに何を言わんとしているかなど、彼らには分かりきっていた。
井吹が一服から元の桜の木の下へと戻ってくると、そこにいたのは蛍一人であった。シートの上でちょこんと体育座りで身を縮め、元から小さな体が余計にこぢんまりとして見える。
「あれ。他の連中は?」
「あそこです」
問うと、蛍は前方海側へ向かって指を差し向けた。そこには好海と他3人が白波を前に屈みこんでいる姿があった。何をしているのかは定かではないが、好海が誤って波につかってしまわないように柏木が後ろから包み込むようにして支えているのが見える。いつの間に仲直りをしたのだろうか。そして、その両隣りには御堂と紬。紬は時折立ち上がり、海に何かを投げ入れている。
「なまこを海に帰してあげているんですよ。柏木さんもそれに参加することで許してもらえることになりました。ああ見えて柏木さん、好海ちゃんの嫌い発言、相当気にしていたみたいなんですよ。だから好海ちゃんに誘われた時には表情が明るくなっちゃって。あの人意外とああいうところがあるんですよね。で、自分は代わりにお留守番ってわけです」
「ふうん」
井吹は興味があるのかないのか曖昧な返事をし、蛍の腰掛けるシートの上をじっと見つめる。先程まで全員で昼食を囲んでいた時はシートは少々狭くも感じたが、2人となると半端な広さでどこに落ち着いたら良いものか迷ってしまう。ついでに言えば何故か蛍はシートの中央に座っているため、それも手伝って距離を計りかねているのだ。
少々の逡巡の末、井吹はシートの端に落ち着くことを決めた。
そしてしばしの沈黙。
蛍の斜め前に座る状態で微妙な距離があるせいか、それとも気の小さな蛍が2人となったことで緊張しているのか、2人の間に会話は無い。静かに流れる時の中、聞こえてくるのは波と風の音。そして時折風に乗って届けられる、好海達の笑い声。
「あ、あの……」
しかし、その沈黙の空間が長く保たれることはなかった。
ずるずると何かを引きずるような音がすぐ近くでし、井吹はそちらに注意を向けた。蛍がすぐ隣りまで移動してきていた。引きずるような音は、体育座りを保ったままの蛍が、尺取虫よろしく足と尻を駆使し移動する音だったようだ。
――なんだその女々しい感じは。
井吹はそれを口には出さずに飲み込むと、隣りでもじもじとしている蛍に向け視線だけで先を促した。
「井吹さん。好海ちゃんとお話されましたか?」
「……いや、特に」
「そうですか……」
蛍はため息にも似た声を漏らし、自身の膝の上で組んだ腕の中に顔をうずめた。
そして、一呼吸置くと、
「じゃあ、自分が代わりに好海ちゃんのことを教えてあげます。少しだけ、ですが」
取りなすようにそういって顔をあげた。井吹はその間何も言わず、ただ先にある海だけをその瞳に映していた。
「昨夜寝る前に、好海ちゃんが沢山お話してくれたんです。家族のこととかお友達のこととか、好き嫌いの話とか」
顔を覗き込んでみても、特に反応を示さずにいる井吹。しかし、蛍は続ける。なんとか目の前の彼に近道をさせるために。
「そうですね。じゃあ、好きなものの話なんてどうでしょう。好海ちゃん、目をキラキラさせながら教えてくれたんですよ」
ウサギにネコに動物全般。甘いケーキにアイスクリーム。優しいパパとママに、お友達の某ちゃん。蛍は昨夜好海から聞かされたことを、つらつらと言い並べていく。たとえ井吹に響いていなくとも、蛍はそれを止めようとはしなかった。
――そんなものを聞いたとして、今さらどうしろというのだろう。
しかし、蛍がどれだけ好海について口にしようとも、井吹としての正直な感想はそれに限る。好海を帰す約束の時間まではあと数時間。5年という歳月はそうやすやすと、埋められるものではない――否、井吹は埋めようとも思っていない。今さら何をしようとも、何もかもあの時に終わらせたのだから。
「それからね。こんなことも言っていたんです」
「蛍君」
「…………それから、おと……」
「悪い、蛍君。もう、いいよ。俺は、子供が――」
どうしても井吹に聞かせようと止まらない蛍。それを制止しようと乾いた声を絞り出す井吹。綯い交ぜになった会話。
しかし、それは突然舞い込んだ強い風と共に収束を迎えた。
「……え」
気がつけば、井吹の両手は塞がっていた。そこには一つのボールが。風によって飛ばされてきたものをはずみでキャッチしたのだ。
ゴム素材のやわらかなそのボールには見覚えがあった。紬が出掛けに荷物に詰め込んでいたものだ。
「お兄ちゃーん!」
ボールを見つめる井吹の耳に届いたのは、彼を呼ぶ幼い声。
顔をあげると、正面から好海が駆け寄ってきていた。足場の悪い砂浜を、懸命に向かってくる。
「ボール。つむぎお兄ちゃんがね、ポーンってやっちゃったの。それでね風もふいてぴゅーんって」
「そ、そうか」
紬が勢いよく投げたボールが、突然吹いた突風に更に飛ばされてきてしまった。と、言いたいのだろう。
井吹は無言で手にしたボールを好海へと差し出す。
が、しかし。
「好海ちゃん?」
好海は、井吹の差し出したボールを受け取らなかった。蛍が呼びかけても、何故か目線をふわふわと漂わせている。
「ほら、ボール」
「……うん」
井吹が更にボールを突き出す。それでも、好海は受け取ろうとしなかった。
手を後ろに組み、もじもじと体を揺らしては井吹の顔色をうかがっている。
「どうしたの? 好海ちゃん」
「…………あのね」
蛍の再度の呼び掛けに、後押しされたかのようにおずおずと口を開く。
「みすみお兄ちゃん、もね……いっしょにあそぼ?」
それは、小さな女の子からの純粋なお誘いであった。