* 07
「よーっし! 遊ぶぞー!!」
「おーっ!」
陽の光を反射して輝く静かに揺れる水面。その色は晴れ渡る空を溶かし込んだような鮮やかな青色。
そこにはらはらと桜の花びら達が風に吹かれて舞い落ちる。春の訪れと共に花開き、春の終わりと共に散っていく長咲きのその桜は、いつの頃からか海岸に佇み、道行く人々を立ち止まらせる。そんな桜の花々は、人々に愛し愛され、今年の春も空と海の青の間に繊細な彩りを加える。
街の人々に長年親しまれる通称“桜海岸”。まだ時期が早いだけあって人の姿もまばらな海岸には、爽やか色彩だけが一面に広がっていた。
『gift』一同と井吹、それから好海は、そこに降り立ちそれぞれに感嘆のため息を漏らした。
「うみーっ」
「さて、好海ちゃん。何して遊ぼうか」
「んー。好海、おひめさまのお家つくる!!」
「お姫様の……? ああ、お城だな。よーし、分かった。紬兄ちゃんがでっかいの作ってやるよ。じゃあ、あっちまで競争だ!よーい……」
「わーっ!!」
「あ、こら。好海ちゃん、フライングっ!?」
尤も、紬と好海に至っては感嘆とは言い難い。海岸に行きつき、海を見るなり二人はバケツと砂遊びセットを持って駆けだした。自動的に、蛍も好海に手を引かれる形となった。
「おい、紬、蛍。好海ちゃんから目を離すなよー」
「はーい!」
「わかってるよー」
御堂の言葉に二人の声が帰ってくる。それを聞いて御堂は「まったく、騒がしい奴らだ」などとぶつぶつと少々の悪態をつきながら、用意してきたシートをその場に広げた。柏木と井吹も片端を持ってそれを手伝う。
そこは一本の桜の木の下。まだ咲き始めということもあり、海岸の桜はどれも5分咲きが良いところ。その中から比較的桃色に染まった一本を選んだのだ。
結局御堂はあの後2時間近くしてから階下へ降りてきた。朝に弱い、というのはどれほどなのかと思っていた井吹であったが、店内に顔を見せた御堂を目にし全てを理解した。あちらこちら跳ねまわる淡い金髪、この世の終わりを思わせるようなくすんだ瞳と悪い目つき、席についても一向に開かれない口。何もかもが、井吹の知る普段の御堂とはかけ離れていた。
そんな御堂も、
「満開にはまだ少し早かったようですが、これくらいの咲き具合だと花の一片まで鑑賞できて良いですね。その時々の姿によって、観る者の感じ方をも変化させる。植物は不思議な魅力を持っているとつくづく感じます」
と、まあ今はこんな調子である。
「……まるで別人だな」
「はい? 何かおっしゃいましたか」
「あ、いや。桜が綺麗だと思ってね」
ぼそりとこぼれた一言を耳ざとく拾い上げる辺り、目の前の青年に畏怖を覚えないでもない。
井吹が誤魔化しついでに上方を見上げると、咲いた花と花の間にまだふっくらとした蕾があるのがはっきりと見て取れた。春の詰まったその蕾は、あと1週間もすれば花開くことだろう。満開の桜を見るならば次週からが適切だったろうな。井吹はふとそう思ってみたが、しかしすぐにそれを取り消した。桜が咲くのが何日先のことであったとしても、井吹がここまで足を伸ばすことはまずないだろう。古書店からここまでは大した距離は無いのだが、問題はそこではない。一人では桜を見に来る気なんて起きやしない、すべての理由はそこにある。
井吹は桜から目を離し、シートの上に腰を下ろす。
浜辺の方を見やると、先程走って行った3人がさっそく砂遊びに興じているのが目に届いた。
城を作ると言っていたか。とにかく一か所に砂をかき集めることに夢中になっている。どれだけ大きな作品を作り上げようとしているのだろうか、ずいぶんとはりきっているように見える。そして、それだけのことなのに楽しそうにはしゃぐ好海。浮かべたその純真無垢な笑顔は、美しい海より何よりも眩しく輝いていた。
しかし、それに反して井吹の表情は曇っていった。どうしても、あの少女を直視することが憚られる。
井吹は足元に目を落とし、小さく息を吐いた。
「可愛いですね。好海ちゃん」
下を向いた井吹の横で落ち着いた低音が聞こえた。ふと顔を上げると、すぐ隣りには柏木が腰掛けていた。
彼の方からこんな風に話しかけてくるなど、珍しい。静かな驚きを抱いていると、柏木がふわりと湯気の立ち上る紙コップを一つ差し出してきた。井吹は無言でそれを受取り、両掌で包みこむ。紙越しに伝わってくるほのかな暖かさ。中身は緑茶であった。
「井吹さん、良いんですか?」
「ん。何が」
口下手な柏木の発言は毎回短く、意味を汲み取るには苦労することもある。今回もその類ではあるのだが、井吹にはその意味は実はほとんど伝わっている。要は、とぼけているのだ。
井吹が手にした緑茶を飲もうとコップを持ち上げると、透き通った緑の上に桜の花びらが一枚舞い降りた。
「夕方には返すのでしょう?」
「ああ」
浮かんだ花びらを揺らし弄びながら、井吹は間延びした答えで返す。
「……良いんだよ」
「井吹さん。時間は無限ではありませんよ」
「……ああ」
――わかっている。柏木が何のことを言っているのか。何が言いたいのかなんて。
柏木がつむぐのは、いつもどこか言葉に欠けるメッセージ。だがそれだけに、潜ませた深意を聞き手の心に投げかけてくる。こんなにも不器用で、こんなにも直接的に相手の中に入り込む言葉の使い手はそうそういるものではないだろう。先日、嘘か真か見破ることができるということは話半分に聞いておいたが、彼の真の特性はきっとそれなのだ。
そう柏木を評価する井吹であるが、今だけはどうしてもそれが煩わしかった。
「良いんだよ」
井吹は桜の浮いたままのコップを静かに煽った。
【井吹三純様】
ご無沙汰しております。
この手紙が読まれているということは、好海は無事にあなたの所に行きついたということですね。一安心です。
急なことで驚かれたかと思いますが、私はそれを悔いてはいません。もちろん謝る必要なんて、少しも感じていません。
あなたにはいずれ、大きくなった好海と会って欲しかったから。
驚いたでしょう。あの時の小さな子があんなにも大きくなっていて。
と、前置きはこのあたりで。
突然なのですが、実は近々この街を離れることになりました。
私ごとですが、新しい家族を迎え入れることになり、これを機会に新たな土地で新たな生活を始めようと夫と決めるに至りました。
生まれ育ったこの街を離れるのは少し寂しくもありますが、そこは我慢です。時間と共に良い思い出に変わっていくことでしょう。
ですが、街を離れるにあたり心残りが一つだけ。そう、あなたと好海のことです。
もう説明せずとも良いですね。
急に押し付ける形になってしまいましたが、私の最後のわがままを聞いてもらえますか。
一日だけ、好海をあなたにあずけます。
たったの24時間、それとも長い24時間となるのでしょうか。
それでは明日の夕方17時。中央図書館の前でお待ちしています。
【一之瀬沙代】
(追伸、好海にはあなたのことを知り合いのお兄さんとだけ伝えてあるのでご安心ください)
好海の持っていた手紙は、こんな一方的な内容であった。
実にあの人らしい。考えてみれば昔からそうだった。
大切なことは何も告げずに、勝手に決めてしまう。その上、すべて背負って行ってしまうのだ。
あの子のことだって――。
「そろそろお昼にしましょうか」
「ん……ああ、もうそんな時間か」
潮風にあたりながらしばらく呆けていた井吹は、御堂の声に現実に引き戻された。
振り向き見れば、柏木と御堂がバスケットの中からランチボックスを取り出し広げているところだった。好海リクエストのおむすびも、きちんと整列されて並んでいる。
「む。そんな時間というか、元はと言えば御堂君の支度が遅いから、ここへ来るのも昼近くなってしまったのではなかったか」
「あれ、そうでしたか?」
「とぼけるなよ、寝坊助め」
あはは、と悪びれもなく笑って御堂はふわりと金糸のような髪を潮風に揺らした。
「それはそうと、井吹さん。好海ちゃん達を呼んできていただけますか」
「……何故俺が」
「井吹さんが暇そうだからです。僕と柏木はご覧の通り、昼食の支度をしています。井吹さんは何もすることがないでしょう?」
「まあ、そうだが」
「働かざる者食うべからずです」
「……」
先程寝坊助だなどと罵ったことへの仕返しのような気がしないでもない。落ち着き払って見えるあの男、朝のことといい実は一番子供なのかもしれない。
井吹は、そこはあくまでも大人の態度ですっくと立ち上がった。
「おーい。そろそろ昼飯だと。上がってこーい」
浜辺へとやってきた井吹は、覇気のない声で呼びかける。
「はーい」
その声を聞きつけて、いち早く反応したのは好海であった。
よっぽど楽しいのか、上気した顔に満面の笑みを浮かべている。手にはバケツを持っており、中の海水をぴちゃぴちゃと跳ねあげながら井吹の方に駆け寄ってくる。
「みすみお兄ちゃん、見て見て!! つむぎお兄ちゃんとほたるちゃんがね、取ってくれたのー」
「あ、ああ」
傍までやってきた好海に一歩後ずさる井吹。
そして、促され差し出されたバケツの中を覗けば、中には勿論海洋生物たちが……。
「…………」
「えへへぇ。いいでしょう」
「…………」
しかし、得意げに見せてくる好海をよそに、井吹は困惑の色を浮かべた。
(……何故、なまこ? いや、海の生物に変わりはないが、もう少し何かいなかったのか。なにかもっと、何か……)
バケツの中では数匹のなまこ達が、うねうねとうごめいていた。
「いやー、大量大量! 浅瀬に沢山いたんすよ。次々取れて好海ちゃんが喜ぶもんだから、はりきっちゃいましたよ」
「なまこー!!」
続いて紬もやりきった顔でやってきた。まくりあげたズボンとシャツの裾が濡れてしまっているのを見れば、相当のやる気を持ってなまこ採集――否、これは収穫の域だ――を行っていた図が易々と井吹の頭に浮かんできた。
「あ、井吹さーん」
未だ固い表情を浮かべる井吹の耳に届いたのは、蛍の声であった。
(やっと来たか。最後の良心)
蛍ならば、大量のなまこを見て困惑する井吹の気持ちを汲み取ってくれることだろう。
近寄ってくる軽い足音に、井吹は顔を上げた。
「…………」
しかし、
「見てくださいよ。井吹さん。ほらほら!」
井吹の考えはなかなかに甘い物であったようだ。
「なまこです!!」
爽やかに微笑む蛍の両手にも、その海洋生物の姿があった。
「なまこー!!」
好海のはしゃぐ高い声が妙に耳に響いて聞こえる井吹であった。