* 06
慣れない香りに鼻腔をくすぐられ、井吹は目を覚ました。
淹れたてのコーヒーと焼きたてのトースト。それは確かに心地よくもあり、食欲をそそる魅惑的な朝の香りである。
しかし、一人身である井吹にとっては、久しぶりに味わう非日常的な香りでもある。
「……ああ。そうか」
布団から上体を起こした井吹は、辺りに視線を巡らし、自身の今ある場所を確認した。
ここは喫茶店『gift』。正確にいえばその2階の一部屋、客間だそうだ。
昨夜、半ば押しかけるようにして『gift』にやってきた井吹と好海は、そのまま一晩世話になることになったのだ。好海が『gift』の面々に懐いてしまったというのもあるが、彼が好海と二人きりでいることを渋ったのがその最たる理由である。
好海だけを預けてしまおうかとも思いはしたのだが、さすがにそれは無責任にもほどがあるだろう。面目上、彼女の今の保護者は井吹一人である。そこのところは堅実である彼は、我が娘を避けつつこの一間を借りることとなった。好海はといえばそんな井吹の心中など意に介すこともなく、すっかり気に入ってしまった“ほたるちゃん”の部屋である。
何がそんなに良いのか蛍をお気に召した彼女は、その傍から離れようとはしなかった。当の蛍としては、幼い子供は嫌いではないが、不慣れであるそうなので困惑気味ではあったのだが。まあ、黙っていても自然と小さな子供に好かれる人物とはいるもので、蛍もその類のようなのだ。
結果井吹としては、「助かった」というのが正直な感想である。
「とりあえず、起きようか」
泊めてもらった身でいつまでもうだうだと布団の中にいるわけにはいかない。まだ覚めきらない頭ではあるが、井吹は布団から完全に身を出した。
着替えを終えた井吹は階下に降り――因みに二人分の着替えは昨夜一度自宅へ取りに戻った――、おいしい香りに誘われるようにして、従業員通用口から『gift』店内に顔を出した。
そこで調理をするのはもちろん長身のキッチン係。いち早く井吹の存在に気がついた柏木は、小さく会釈をするとすぐに手元のフライパンに意識を集中させてしまった。井吹は「おはよう」と短く声を発し、店内に足を踏み入れる。
開店前の『gift』に入ることなど初めてだ。準備の整っていない喫茶店というものなかなかに新鮮なものとして井吹の目には映った。
閉められたカーテンの隙間から差し込む朝の日差し。しんと静まり返った店内に響くのは柏木の奏でる小気味良い料理の音楽。
そうして、しばらく井吹は呆然と立ち尽くした。
足を踏み入れたものの、どうしていいものか。柏木を手伝おうにも、足手まといになることは目に見えている。だからといって、椅子に腰を落ち着けてしまうのも、一晩泊めてもらった身としては居心地が悪い。
「あ、井吹さん。おはようございます」
そんな井吹の横をすり抜けて姿をあらわしたのは、蛍であった。小さくあくびをするその姿はまだパジャマのまま。加えて頭上では髪がはねている。いつも真面目な印象を受けるだけに、新鮮味極まりない。
「おはよーございまーす!」
そして足元から届く元気な声。井吹が視線を落とせば、蛍の後ろをちょこちょこと追いかけるうさぎ柄のパジャマ、好海がいた。彼女は本当に懐いてしまった様子で、キッチンへ向かう蛍のあとを母親を追う雛鳥、否子うさぎか、のごとく付いて回る。
「井吹さん、座っていて良いですよ。コーヒーで良いですか?」
「ああ、うん」
行き場を失っていた井吹は、蛍に促されたことで心なしかほっとしてカウンターの一席に落ち着いた。手伝おうかという気持ちはありながらも、結局は通常通りの客の立場となってしまった。
しばらくして二人分のコーヒーと好海のミルクの乗った盆を携えた蛍があらわれた。蛍は井吹にカップを差し出し、自身もカウンターに腰を下ろす。井吹とは椅子を一つ開けて。
そして、その開けられた一席の正面テーブルにはミルクが置かれた。もちろん、その席につくのは。
「よいしょ……」
カウンター備え付けの背の高い椅子によじ登る小さな姿。
無事に一人で椅子に座ることのできた好海の顔は少々得意げに輝いていた。
そんな姿を横目に、井吹は無反応にコーヒーを啜る。
「好海ちゃん一人でちゃんと座れて偉いなあ」
「……好海、えらい? おりこうさん?」
「うん。お利口お利口」
肩を寄せ合って、二人はきゃっきゃと笑い合う。
自分よりもよっぽど小さな子の扱いに慣れている蛍に、井吹は若干目を瞠った。
(まあ、歳が一番近いってこともあるんだろうな。兄妹に見えなくもないか)
「はい。どうぞ」
コーヒーも飲みやすい程度に冷めてきた頃、相変わらず黙々とキッチンに向かっていた柏木が、ようやく口を開いた。
かと思えば、カウンターに座る3人各々に向け小さな盆を差し出した。その上には、こんがり焼けたトーストとハムエッグの乗った皿が置かれている。きちんと緑も添えられているので、見栄えが良い。というか、普段朝食を抜くことも多い井吹にとっては豪勢といっても過言ではなかった。
「わー! 好海のパン、うさちゃんがかいてあるー!」
「本当だ。良かったね、好海ちゃん」
「かしわぎお兄ちゃん。ありがとう」
「……うむ」
柏木手製の朝食に純粋に目を輝かせる二人。
「すご……」
と、密かに興奮していた井吹であった。
寝起きですぐに来たわけだが、人間単純なもので、おいしそうなものを目の当たりにすれば食欲がわいてくる。一口頬張った時には、もう眠気などどこかに去ってしまっていた。
しばし3人の間に沈黙が流れた――誰もが柏木の美味なる朝食に夢中になっていたというのは言わずもがなである――。
と、そこへどたばたと階段を駆け下りてくる、否、転がり下りてくる音が、店内の朝の静かな雰囲気をぶち破った。
「柏木!! シートとバスケット、あとバケツとシャベルどこやった!?」
通用口からあらわれた彼は、朝の挨拶もそっちのけで慌てた様子で柏木に詰め寄った。勿論そんな賑やかな人物といえば、『gift』では彼――紬だけである。『gift』営業中には常に後ろにまとめられている髪も、今は解かれ無造作に宙をただよっている。これまた新鮮。
ちなみに突然の彼の登場に驚いた好海は、手にしていたプチトマトを取り落とした。小さな声に無意識に反応した井吹は、トマトが床に落ちそうになるのをギリギリのところでキャッチし、さりげなく皿に戻してやった。
柏木も柏木で紬の勢いに気圧されるなどということは一切ない。ゆっくりと顔をあげるとそのまま目線を天井の辺りにやり考える。どいつもこいつもマイペースなものだ、と井吹は感心にも似た感想を持って彼らを見守る。
「……忘れた」
「ああっ!?」
柄の悪いチンピラのごとく柏木を見上げる紬――柏木の方が背の高い分、これが少し残念なことに格好がついていない。
一方の柏木はほんの少し困った顔を浮かべ、腕を組んで頭をひねった。
「さて。どこに置いたか。というか、何故俺に聞く」
「だって最後に使った時、片付けたのお前だろうに。見つからない物を、それをしまったであろう奴に聞いて何が悪い」
「ああ、そうか。……だがな、紬。悪いが覚えていないぞ、俺は」
悪びれる様子を欠けらすら示さない、小首を傾げたままの柏木。なんとか背伸びをして目線を合わせようとする紬。それを見守る井吹と好海。
そして、何故かここでもしばしの沈黙が訪れる。その中でも、蛍だけは気にすることなくサクッと良い音を立ててトーストを齧っていた。
「柏木さ。お前、まだ頭寝てるだろう」
「……いや、そんなことは」
「そんなことあるね。絶対。お前はまだ寝ぼけている。俺は言いきれるぜ」
謎の捨て台詞を吐いて、紬は身を翻し再び通用口へと戻って行った。そうして響くのはどたばたという階段を駆け上がる足音。
再び静寂を取り戻した店内に、蛍の食事の音だけが残った。
嵐のような男が去っていったところで、井吹も食事を再開する。好海もそれにつられるようにして、先程のトマトを口に放りこんだ。
「何を忙しそうにしているんだ、あいつは。何か用でも?」
井吹はフォークで野菜をつつきながら、浮かんだ疑問を素直に口にした。
それには蛍が反応した。
「ああ、お出掛けの準備ですよ」
「ほう。どこか行くのか」
ならば、井吹と好海もここを出ねばならないだろう。いくら好海と二人でいるのが苦だとしても、他人様に迷惑をかけてまで――すでにかけているわけだが――居座る訳にはいかない。
それに、好海を母親である「一之瀬沙代」の元に返すのも今日の夕方過ぎ。幸いなことに好海は5歳児の割に利口な子のようなので、夜までの約半日くらいならば、二人でいることに耐えられないこともないだろう。
考えて井吹は好海に一瞥をくれると、朝食を取ったら彼女を連れて古書店に戻る旨を伝えようと口を開きかけた。
が、しかし。
「ええ。好海ちゃんがどこかに遊びに行きたいというので、みんなで海に行くことになりました。この時期に海っていうのはまだ少し肌寒い気もしますが、綺麗な桜が見られるんですって。だから、海水浴ではなくお花見といったところですね。ほら、ここからちょっと行った先の海岸ですよ」
「……ああ。確かにあるけども」
なんという名前の海岸だったか。正式な名前など知っている者など殆どいないだろう。この港街の人々には専ら“桜海岸”で通っている、地元のお花見スポットである。桜海岸の桜は、潮風に強いという特性を持ち比較的長咲きな、この街の春の訪れを告げる風物詩の一つだ。井吹も古書店のお客や例の斜向かいの八百屋のおばさんが、桜の開花をしばしば話題にしていたことを覚えている。
しかし、そこに「遊びに行く」と井吹はたった今耳にした。
井吹の顔色が少々曇る。それを一蹴するかのごとく、蛍が微笑む。
「勿論、井吹さんも一緒ですよ。ね、好海ちゃん」
「ねー」
まあ、そうなってしまうのだろう。覚悟はしていたが、井吹はそっと肩を落とした。
「あ、だけど店はどうするんだよ。みんなでってことはみんなだろうに」
「ええ。なので今日は臨時休業です」
「おい、いいのかそんなので」
「いいんですよ。いつものことですから。気まぐれなこの店に、今さら怒るようなお客様もいませんし。だけど、夜の方は開けるつもりです。なので、夕方くらいまでは遊べますよ」
「そんな、いい加減な……」
深い溜息と共に井吹はカウンター内にいる柏木を見上げた。実直な彼ならば、そんないい加減な営業を好まないのではないか、という期待からである。実はまだ出掛けることへの抵抗を捨て切れていなかった井吹であった。
「昼食はサンドイッチとおむすび、どちらが良い?」
「んー。好海、おむすびがいいな」
「うむ。わかった」
柏木と好海の短いやり取りに、井吹はついに抵抗を捨てた。
そして、気になることがもう一つ。
「そいうえば、御堂君は? まだ起きてから一度も姿を見ていないんだが」
そう。店に顔を出せばいつもある、あの嘘くさい笑顔の青年に井吹は今日は会っていない。早朝からどこかへ出掛けでもしているのだろうか。この店で一番まともであるだろうと井吹が認める彼のことである。きっと誰よりも早く起床していることだろう。
――しかし、井吹のその問いに対し、蛍も、柏木でさえも溜息をついた。
「御堂なら二階に」
「二階。なるほど、じゃあ紬君と出掛ける準備でも……」
「いえ、とんでもない。御堂さんはまだ二階の自室で寝ていますよ」
「は……?」
疑問を浮かべる井吹に、蛍と柏木はそろって天井を――正確にはさらにその上の御堂の部屋だろう――を見上げる。
つられて井吹と好海もそちらに目をやった。
「御堂さん、朝に弱いんです。意外でしょう?」
「……ああ」
蛍の困ったような笑顔につられ、井吹の頬も若干ひきつった。
それに続いて、柏木が口を開く。
「朝は、御堂が一番遅い。それに寝起きが悪いことこの上ないんです。人に起こされたりされた日には、一日中不機嫌で……。自発的に起きてくるのを待たなければならないんです」
「まさか……」
「本当です」
柏木に、あの口下手な柏木にかぶせるように言われ、井吹はそれが真実だと悟った。
「みどうお兄ちゃん、お寝坊さんなの?」
好海の一言に、柏木が大きく頷く。
しかし、そこですかさず、
「柏木さん、あなたの寝起きも大概だと自分は思いますよ」
という、蛍の言葉。蛍にしては珍しく威圧的な物言いである。
一同の目線が蛍に集中した。しかし、当の本人はそれを気にすることもなく残りのコーヒーを飲みほして、
「反対です」
言って、柏木を指差す。
柏木は首を傾げ、目を瞬かせた。
「だから、エプロンが表裏反対なんですよ。もう、あなたもいい加減自分が朝に弱いのを自覚してください」
「…………はい」
御堂といい、柏木と良い、どうやらこの店の店員は朝に弱いらしい。
そういえば、先程の紬の捨て台詞。彼は柏木のエプロンに気が付いていたのだろう。
――それにしても、寝ぼけた柏木が作った朝食に感嘆させられていたとは。
井吹はつくづく柏木の料理の腕を感じながら、残るトーストを頬張った。
サクッと良い音がした。