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* 05

 淹れたてのコーヒー。座りなれた木製の腰掛け。辺り一面書籍に囲まれた静かな空間。

 それらがあるだけで良い。それだけで、一日の内大抵の時間は満たされる。

 店にやってくる客は常にまばらであるし、客といっても常連の顔見知りがほとんどであるし、特に畏まる必要もない。

 とはいえ、稀に、本当に稀に、新規の客が顔を見せることがある。

 例えば、先日のお騒がせ少女。何を勘違いしたのか本を買うわけでもないというのに本棚を物色したあげく、雪崩騒動を起こしてくれた彼女がそれに当てはまる。あの日は客も少なく――客が少ないのはその日に限らないが――、一人ゆっくりと読書をしていたというのに、その貴重な時間を奪われた上本の下敷きになりひどい目に会った。今でもその時の店内の散らかり様を思い出すと、彼女の調べ物に手を貸した自身の気まぐれに腹が立ってくる。

 その彼女こと天宮頼子が、井吹古書店に顔を出したのはつい先ほどのことである。


『井吹さん。これ、差し入れね。温かいうちに食べて下さい』


 そういって頼子は玄関口で紙袋を押し付けると、井吹に口を開く余裕も与えずそそくさと店を出て行ってしまった。文字通り顔を出しただけであった。まったく嵐のような少女である。

 紙袋の中には一口大の丸々としたドーナツが数個。ドーナツの横に添えられた紙ナプキンには“cafe and bar,gift”の印字があった。

 そういえば先日彼女が来店――といってもお喋りに来たようなものだが――した際、どこぞのドーナツがおいしいだとか熱心に話していた覚えがある。読書しながらほぼ聞き流していたためはっきりとは記憶していなかったが、どこかと思えば近所の喫茶店である。それも井吹が時々足を運ぶ店であった。

 いつもの定位置、奥のレジカウンターに腰を落ち着けると、井吹はさっそくドーナツを一つつまみだした。

 店内には客が一人もいない。よって遠慮の必要など皆無である。井吹はそのままドーナツを口に放り込む。一口で食べるには少し大きすぎるかもしれない、と若干の後悔を覚えながら、中に詰まった餡が口から飛び出しそうになるのを何とか抑え、脇に置いてあったコーヒーを流し込んだ。


「……うまい」


 作りたてということもあるからか、ふわふわとした優しい食感が特徴的なドーナツ。歯を立てた瞬間はみ出してくる中の餡は、井吹好みの控えめな甘さである。そして、揚げ物特有の油っこさは欠けらも感じられなかった。彼が思わず発した独り言も、その美味なるドーナツを前には仕方のないものであった。

 先程淹れたてのコーヒーそれだけで云々とはいったものの、そこに「茶菓子があれば尚良し」という付属事項を加えておくべきだと密かに思う井吹であった。

 そうして準備も整い、読みかけの本を取り出した井吹は、今日も客待ちという名の読書時間、創造された異世界へと埋没する。

 井吹古書店は通常の空気を取り戻し、まるで時が止まってしまったかのような静寂が店内を支配し始めた。


 しかし、その静寂もさほど浸透しないうちに、井吹は現実に引き戻されることとなる。


 ガタガタッ、という大きな音。本棚の合間を縫ってただよってくるのは春の風。

 積み上げられた本達に阻まれその姿は見えなくとも、それは紛れもなく来客を知らせる合図であった。


「いらっしゃい」


 見えない相手に恒例の心のこもらぬ挨拶をした井吹の目は、尚も手元の文字を追い続ける。客が来ようとも本から目を離すことはないのが彼の常。現実に引き戻されたとはいえ、それも一瞬のことにすぎなかった。

 何か用があるのなら話しかけてくれれば勿論付き合うし、ないのなら個々人で探索活動を進めてもらう。すべては客の自由に任せる。

 初来店のお客には怪訝な顔を向けられることもあるが、この井吹古書店は常連客の方が多い。そのため、いつしかこれがこの店の営業体勢となったようである。

 今回の客も来店してからこちらへ向かってくる様子がないため、井吹は特に気にかけることもなく活字を追う。

 しかしながら、


「……ん?」


 しばらくたって、井吹は訝しげな表情を浮かべながら本を閉じた。

 何かがおかしい――気がする。こちらへ向かってくる様子がないため常連客かとも思ったが、何か違和感を感じたのだ。

 あの軋みのひどい引き戸が開いたのだから、何者かが来店したことに間違いはない。

 では、何に違和感を感じるのか。

 それはこの店で日頃番をしている井吹自身にしか分かりえないような些細なこと。来店者は本を探しているわけではない――気がする。要は雰囲気の問題である。そんな曖昧な表現に尽きるこの状況を理解できるのは、この場で彼の他にはいるはずもない。


 入店したにもかかわらず一向に姿の見えない来訪者。

 

 その得体の知れなさに、少しは恐れを感じるのも無理はない。静寂とは違った静けさが古書店内に流れた。

 が、しかし。当の井吹は、その何者かに恐れおののくでも危機感を感じるでもなく、彼だけの特等席からやっと腰を浮かせた。そして、ドーナツを一つパクリ。

 

 その時、である。

 ドーナツを頬張る井吹の視界の隅に何やら白いものが映りこんだのである。おまけにパタパタという軽い靴音も耳に届いた。

 井吹はその白いものを追うように視軸を本棚の方に移動させるも、しかしその先には誰の姿も見受けられなかった。それでも誰かがいることだけは察することはできた。


「誰……?」


 井吹は椅子から立ち上がったままの状態で、しばらくその何者かがよぎった方向を凝視した。

 夕刻ということもあり、外から差し込む光が減ったことで店内は薄暗い。少々不気味でもある本達の群れに井吹は目を凝らす。

 しばらくした後。

 

「あ……」


 と、声を漏らした井吹は、今度は確実にその姿をとらえることに成功した。

 それは、本棚と本棚の間を走り抜ける小さな白い影。


「子供か?」


 一瞬だけ目に映りこんだその小さな影は、井吹の腰の高さほどにも及ばない。明らかにこの店には珍しい子供のものであった。同時に影が白く見えたのは、その子の着るセーターの色であることも判明した。

 井吹は影の正体を知り、大きなため息を落とす。そして、子供の駆け抜けていった方向へと歩みを進めた。

 決して、この井吹古書店は子供の入店を禁止しているわけではない。しかし、店内でかくれんぼまがいのことをされるのは、古書店のお客に求める所ではない。たとえ客であったとしても、店内で走り回られるのはいただけない。ここは子供の遊び場ではないのである。


――ただでさえ、俺は子供が。


 普段から眠たそうで陰気な井吹の顔が、一段と曇る。

 何故こんな所に迷い込んだのかは知らないが、早いところ追い出してしまおう。

 本棚に近づいていけば、その陰に隠れる小さな姿を認めるのは容易なことであった。

 しかし、後ろからせまる井吹に気が付いたのか、その子供はひくりと一度肩を震わせると、再び逃げ出してしまった。

 パタパタと逃げ惑う幼い靴音。それを追う気だるげな溜め息――静寂を保つ古書店員である彼の靴は足音を抑えられる仕様である。

 二人だけの無言の追いかけっこ。お互い明らかに楽しくはないだろうそれが続いたのは、ほんの短い時間であった。


「こら。ここは遊び場じゃないんだぞ」


 井吹のその一言に、小さな体がびくりと跳ねた。「きゃあ」とも「ひゃあ」ともつかない、女の子の叫び声が井吹の耳に届いた。

 声を荒げたわけではない。少し口調を強めただけのつもりだったのだが、彼自身想像していたよりもそれは低い語調であり、子供が驚くには十分であったようだ。

 動きを止めた女の子に、すかさず歩み寄る井吹。しかし、その小さな肩に手を掛けようとした瞬間、それもむなしく空をかいた。


「ああ、もう」


 井吹の脇をすり抜けた女の子は、そのまま近くの本棚の陰へ身をひそめてしまった。


「おいおい。勘弁してくれないかなあ」


 女の子の行く先を見、頭を抱える井吹。

 最近まったく落ち着いて本を読むことができない。天宮頼子といいこの女の子といい、何故こうも井吹の日常を壊そうとするのか。

 思いつつも、井吹はできるだけ女の子を怖がらせないようにと細心の注意を払い、


「ほら。もうかくれんぼは終わりだよ。怒らないから出ておいで」


 と、口にした。まあ、聞き様によってはこのセリフも恐れの対象とならないでもないが、これが今の彼の精一杯である。

 井吹の声が届いたのか、それに反応するように女の子が本棚の向こう側で動く気配を感じられた。しかし、出てくるような気配はない。もう一息といったところか。

 声をかければ恐れられ、追いかければ逃げていく。それではもう手の打ちようがない。

 井吹は自身の前に立ちふさがったこの状況を女の子にゆだねることにしたようだ。待っていればそのうち飽きて出てくるかもしれない。そんな期待を胸に、女の子の身長に目線を合わせるべく井吹はその場にしゃがみこむ。せめて上からの威圧感だけは取り除いておくことにしたのだ。


「おーい」


 井吹がしゃがんだままの体勢で、しばし女の子の動きを待っていると、


「…………」


 本棚の陰からひょこりと少しだけ小さな肩がのぞいた。そして彼女の頭上ではふわふわのウサギの耳――セーターに付随したフードの飾りが揺れている。

 その一瞬で目をひく大きな耳の下では、それに負けず劣らず特徴的な大きな瞳が井吹の様子を窺っている。そんな彼女の姿はまさに小動物であった。


「あ、あの……」


 少し顔を出して井吹と目が合えば引っ込み、また顔を出しては引っ込み。と、それの繰り返しである。

 やはりこのままでは(らち)があかない。井吹はいたたまれなくなり、次なる行動に出た。


「そうだ。これあげるから、出てこないか?」

「ん?」


 井吹が言うと、ウサギの耳が大きく揺れた。

 女の子が顔を出したことを確認すると、井吹は片方の手に持ったままでいた紙袋の中からドーナツを取り出して見せた。


「ほれ。ドーナツ」

「ドーナッツ!!」


 思っていた以上の反応が返ってきた。女の子はもう本棚の陰から半身を乗り出している。


「いるか?」

「うん!」


 子供にとってお菓子という存在は絶大なものであるらしい。女の子はつい先ほどまで井吹から逃げていたことなど忘れたかのように、彼に駆け寄ってくる。

 物で釣るというのもどうかとおもうが、ここは致し方ない。店内を遊び場にされるよりましである。


「ドーナツ一つで……。誘拐ってこうやって起こるんじゃないか?」

「ん?」

「……あ、いや。なんでもない。はい、どうぞ。これ食べたら大人しくお家に帰るように」


 一瞬浮かんだ考えを無理やり追いやって、井吹は女の子にドーナツを手渡した。


「わー、ドーナッツぅ!!」


 甘いお菓子を前に女の子の目はキラキラと輝いている。

 

(そんなに感動してもらえるなんて、子供って何て安いものなんだ)


 井吹がそんな女の子の様子にしみじみと見入っていると、


「ありがとうございますっ!!」


 女の子は井吹に向かい、深々と頭を下げてきた。


「ふむ。礼儀正しいことは良いことだ。どういたしまし……」


 律儀にも礼を忘れない女の子に対し感心する井吹。しかし、彼の表情は女の子が頭を上げた瞬間に凍りつくこととなった。


「いただきまーす」


 頭を上げると同時にその反動でふわりと脱げたウサギのフード。その下からはやわらかな赤茶の髪が現れる。純粋で曇りのない大きな瞳。口元には可愛らしい小さな笑窪――。


沙代(さよ)……?」


 固く引きつった顔のまま、井吹が口にしたのは女性の名であった。

 その声はドーナツを頬張る女の子にも届いたようだ。


「ううん。ちがうよ、おにいちゃん。それはね、ママのお名前」


 どうすればついてしまったのか、頬に餡をつけたままの状態で井吹を上目に見つめる女の子。


「ママ? じゃあ、君は……」

好海(このみ)!」


 いたいけなその顔、純粋すぎるほどに澄んだその瞳は、井吹には眩しすぎる。

 井吹は女の子から意識的に目を逸らし、立ちあがった。そしてふらりと一歩後退する。


「なんで……」

「……? どうしたの、お兄ちゃん」


 何も知らず何も疑うことのないその瞳は、(きよ)くあるほどに、井吹の心をしめつける。


「お兄ちゃん、ママのこと知ってるの? じゃあもしかして、お兄ちゃんが“みすみお兄ちゃん”?」


 名前を呼ばれ明らかな動揺を示す井吹に、ドーナツですっかり心を許した女の子が、好海が、笑いかける。

 勿論、好海の笑顔に嘘はない。ただただ純粋で、無垢な少女の笑顔である。


――それ以上、近寄らないでほしい。俺を見ないでほしい。


 しかし、どんなに好意を向けられようと、井吹の表情は、心は動かない。動くことはない。


「あのね、好海ね。ママにお願いされてきたの」


 距離をはかろうとする井吹に、構わず好海は一歩近づいた。そして、にんじんを模した肩掛けポーチに手を掛けて、中から何かを取り出す。


「はい。これどうぞ。ママがね、お兄ちゃんに会えたら渡してねって」


 好海が小さな手で差し出したのは一枚の封筒。

 つきかえすわけにもいかず、井吹は震える手でゆっくりとそれを受け取った。


【井吹三純様】

 

 と、几帳面に書かれた丁寧な文字。それを見ただけで、差出人が誰かなど井吹には一瞬で分かっていた。それでも彼が封筒を裏返して差出人を見たのは、確認というよりも、むしろ現実を自身に突き付けるためだったのかもしれない。


【一之瀬沙代】


 そこには懐かしくも記憶から抹消してしまいたい、愛しく憎い彼女の名前があった。


――だから俺は、子供が。


「お兄ちゃん?」


 ほんの一瞬、眼下の好海に氷のような目を向けた井吹は、何も言わず静かに封筒の封を切った。

井吹と好海が『gift』に来店するほんの少し前(一時間弱くらいでしょうか)の、井吹古書店での二人のやり取りです。


好海の母、沙代とは一体?

好海は何故井吹の前に?等々は、今後のお話で。

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