* 04
「悪い、蛍。閉めてきてくれるかな」
「はーい」
すっかり薄暗くなり、街中にはぽつぽつと灯りがともり始めた夕暮れ時。最後のお客が店を去り、本日の営業を終了した喫茶店『gift』。御堂の声に、蛍はトコトコと小走りに戸口へ向かった。
一歩店の外に出ると、日が沈んだばかりの街を駆け抜ける風が、蛍の短い髪を揺らした。花の香りと潮の香りが織り混ざった春の風は、太陽の沈んだ夕刻とあってもほのかに暖かい。その心地良さに蛍は深呼吸をし、存分に春を体内に取り入れた。
「さてと」
短い気分転換を終え、蛍は行動に移る。
まずはテラス。すでに椅子とテーブルは片付けられているため、そこはウッドデッキのみの空間となっている。蛍は、上方に張り出した日よけの庇を、隅の滑車を使いくるくると巻き取る。それを終えると、外壁に取り付けられた小さなランプを消して回った。その他細かな点検作業を行い、「closed」の札がすでに掛けられている戸口へと戻る。
あとは戸締りを行い、屋外の作業は終了となる。蛍は扉の前に立ち、もう一度テラスの様子を点検しようと視線を巡らせた。
「よし!」
お客の忘れもの、ゴミは落ちていないか。電気はきちんと消えているか。等々、一通り指差し確認を行った蛍は、店内に戻ろうとドアノブに手を掛ける。
しかし。そこで蛍は、ふとその手を放した。細く開いた扉から漏れ出た灯りが、再び店の中へと吸い込まれる。小さな音を立てて扉が閉まった。
背後で止まった靴音。それも二人分。
蛍は後ろを振り返った。
「驚きましたよ。こんな時間に」
そう言って御堂は、カウンターに座り煙草を燻らす井吹に一杯のアメリカンコーヒーを差し出し、自らもその隣の椅子に腰を落ち着けた。しっかりと自分の分も持ってきた辺り、業務が終了していることを顕著に表している。
既に閉店した『gift』。戸口を閉め切ろうとした蛍の背後に現れたのは、他ならぬ彼、井吹三純であった。
その姿を認めた蛍は、たたずむ井吹にただならぬ様子を感じ取り、閉店後の店内へと彼らを招き入れたのだ。
「……悪い」
目の前のカウンター内で一人黙々と片づけを行う柏木の動向を目で追いながら、井吹は小さく言った。
「いえ、良いんですよ。それで、いろいろ聞きたいことがあるんですが。そうですね。まずは……」
御堂は椅子ごと回転させ、後ろを振り返る。そしてその先に広がる光景に目をやった。
カウンターのすぐ後ろに位置するテーブル席。その一角を除いて他は椅子がテーブルに上げられている。
そこにいるのは、紬と蛍。
そして一人の少女。
ウサギの耳をかたどったフードが可愛らしい白色のセーター。フードを被った隙間からのぞくのは二つ結びの赤茶の髪。桃色のバルーンスカートをはいた細い足は床に届かずふらふらと揺れている。
まだ幼いその少女は、紬と蛍に挟まれても人見知りをすることもなく、出されたプリンアラモードを前に上機嫌のようだ。
「あの子は?」
「一之瀬好海。5歳」
疑問を投げる御堂に、井吹は少女に目をくれることもなく淡々とそう言い放つ。吐き出された紫煙が虚空に舞った。
「いや、そういうことでなく。あの子は、井吹さん。あなたとどういったご関係で?」
井吹は、まだ長いままの煙草を惜しげもなく灰皿へと擦りつけると、ゆっくりと口を開く。
「……知り合いの子」
少しの間を挟んで井吹の口から出た言葉に、御堂はふうんと分かったのか否か判断のつかないような声を吐息と共に吐き出す。
そして、カウンターに背を向ける形で座る彼は、体勢はそのままに静かに首だけで柏木を仰ぎ見た。
先程まで忙しいほどであった柏木の動きは現在は完全に停止している。いつもは優しげな彼の目は何かを見極めるかのように細められている。その視線は、ぼんやりとコーヒーに口をつける井吹に向けられていた。
「知り合いねえ」
「都合があって、仕方なく明日の夕方まで預かることになったんだ。しかし、子供の扱いなんて分からなくてな。困り果てた末にここに来てしまった」
「なるほどねえ」
話している間も、御堂の目は井吹ではなく柏木へと向けられている。
やがて――。
「嘘、ですね。それ」
と、これはこれまで渋い顔をしていた柏木の言葉。御堂はそれを聞いて一瞬にやりと口元を釣り上げた。
「は……?」
急な物言いに、言葉の出ない井吹。しかし、柏木のその指摘は外れているわけでもなさそうだ。井吹の反応がその証拠。ガチャリと音を立てコーヒーカップをソーサーに戻したかと思えば、そこかしこに目を泳がせている。
「井吹さんのおっしゃっていることは、嘘ですね?」
改めて今度は少し強い口調で言い聞かせるように井吹を見据える柏木。
びくり、と一瞬肩を震わせた井吹は、視線をゆっくりと隣に座る御堂へと向けた。それはまるで、助けを求めるかのように。
しかし、そこにはいつものように優しくも、冷たく突き放すような笑顔があるだけであった。
「井吹さん、柏木に嘘はつけませんよ。嘘か真か分かってしまうんです。不思議でしょう? でも、どんな嘘も彼は見破ってしまうんです」
「そんなこと……」
膝の上で握られるこぶし。
そんな井吹に、御堂は静かに語りかける。
「井吹さん。何かお困りなら、本当のことを話していただけないでしょうか」
その言葉をきっかけに、井吹はこれまで浮かべていた動揺と共に、膝上のこぶしを解いた。こわばっていた肩も下ろされる。
どうやら、諦めて本当のことを話す気になったようだ。それを察した柏木の手がまたテキパキと動き出す。
「きっと驚くぞ」
「はい。どうぞ」
井吹は気まずさを紛らわすかのように溜息を一つ落とし、ここへ来て2本目となる煙草を取り出した。
「……すめ」
「え?」
煙草に火を灯しながら井吹がぼそりと言った一言は、あまりに小さすぎた。御堂と柏木が首をひねる。
井吹は煙を一息吸い込み、声量を少々上げて話した。
「……娘……娘なんだよ」
「…………?」
井吹の言葉は御堂と柏木の耳に届いたものの、今度はその意味が2人には届かなかったようだ。
「娘? 誰の」
もはや答えは見えていたが、ついそれを確認してしまうのは、御堂にとってその現実が受け入れ難いものであるためだ。
いつも浮かべている余裕の笑みは、彼の顔からはとうに消えうせている。眼鏡の下の目すら、笑ってはいない。
「俺の娘」
一度決心したのだから、もう遠慮することはない。井吹は疑問を浮かべる御堂と柏木を交互に見据え、それから良く聞こえるようにはっきりとそれを口にした。
そして、一瞬の間である。
「はあっ!?」
御堂と柏木の声が重なりあう。いつも冷静な2人もこれにはさすがに素っ頓狂な声を上げざるを得なかったようだ。
取り落としそうになりガチャリと大きな音を立てる食器。驚いた勢いでバランスが崩れ揺れ動く回転椅子――こちらは床に固定されているのが幸いし、倒れることはなかった。
2人のいつになく大きな声に、店内は静まり返っていた。会話に参加していないテーブル席の3人――彼らに今の会話は届いてはいない――の視線がカウンターへと向けられる。
「あ、いや。何でもないよ。好海ちゃーん、プリンおいしい?」
「うんっ!おいしー」
「それは良かった」
姿勢を元に戻し、取り繕うように注目の矛先を好海に向けようとする御堂。こんな時子供がいると便利なもので、その場はすぐにプリンを頬張る少女へと関心が戻った。
ただ1人、それに背を向けたまま煙草の煙を吐き出し続ける彼を除いての話ではあるが。
それをちらりと見やって、御堂は背を向けていたカウンターに向き直った。
「え。井吹さんって、ご結婚されてました?」
自然と彼の声が小さいのは、大きな声で言ってはいけないと思ったからだ。何せ、すぐ後ろには好海がいる。
「いや、してない。勿論離婚の経験もないよ」
その言葉を受け、御堂が柏木の顔を窺う。柏木は無言で頷く。どうやら井吹の言うことに嘘はないようである。
「じゃあ、どうして……」
――いっその事、この目の前の男の肩に触れてしまおうか。そうすれば、彼の記憶など容易く見える。しかし、むやみやたらに人の記憶を覗くのも気が引ける。
御堂は一度出しかけた手をひっこめ、再度手を出すことのないように胸の前で腕を組んだ。
そんな御堂の逡巡をよそに、短くなった煙草を片づけた井吹は、ズボンのポケットから何かを取り出した。
それは一枚の白い封筒。
井吹はそれをカウンターの上へ置くと、人差し指でもって御堂の方に弾いて寄越した。
「これは?」
封筒を反射的に手で止めた御堂は、それを開けても良いものか躊躇いを見せた。井吹は一瞬の目配せだけで、開封の許可を下した。
「……失礼します」
静かにそう言って、御堂は中身の便箋に目を落とした。
「よーし、好海ちゃん。あの大きいお兄さんは?」
「んーと。かしわぎお兄ちゃん!」
そして、御堂が封筒に目を通す後ろ、御堂たちの会話など知りもしないテーブル席では、紬と蛍が夢中になって好海の相手をしていた。
ウサギの耳を揺らしながらキョロキョロと周囲を興味深げに窺うあどけない少女の姿は、誰が見ても愛らしい。普段、小さな子どもと触れ合う機会が多くない彼らにとっては尚のこと。にこにこと可愛らしい好海の虜となりつつある2人であった。
「正解! じゃあ今度は、あそこに座ってる金髪優男は?」
「……? や、やさ……やさ?」
「ああ、好海ちゃん。何でもないよ、今の紬さんの言ったのは忘れて。あそこのお兄ちゃんは誰かな?」
「みどうお兄ちゃん。で、そのお隣がみすみお兄ちゃん!」
自らの名前を呼ばれた井吹は、一瞬だけピクリと体を動かした。だが、それ以上の反応はない。
「良くできました。好海ちゃんは覚えるのが早いなあ。えらいえらい。それじゃあ、俺は? 格好いいこのお兄ちゃんは?」
「つむぎお兄ちゃん」
「正解でーす」
「わーい」
紬と好海がハイタッチをする。それだけの動作で好海は楽しそうにウサギさながらにキャッキャと跳ねる。それを目の当たりにした紬がそのあまりもの可愛らしさに悶える。それの繰り返しである。
「……格好いい。良く言えたものですね」
そんな紬を蛍は鼻で笑った。しかし、もはや紬にはそれすらも見えていないようだ。
「よーし。じゃあ最後! この小さいのは誰でしょう?」
「ち、小さいのって!」
言いたい放題の紬に蛍はすかさず突っ込む。だが、蛍が紬を見やるまでの通過点には好海の姿がある。
蛍は好海の熱い視線に、笑顔を浮かべて応える。見つめてくる好海を前に、紬を攻め立てる余裕など蛍に到底無かった。
「うーんと…………」
何故だろう。好海は蛍の番になって考えあぐねている。
自分の名前が読んでもらえると時を待つ蛍。そして、
「えーと。……んー、ほたるちゃん!!」
「……へ?」
「ほたるちゃん!」
好海は無邪気に細い指を蛍に差し向けた。
予想外の答えにきょとんとして固まる蛍。その横で満足げに胸を張る好海。二人の視線がぶつかりあう。
因みに、近くで「ぷっ」と噴き出す破裂音が耳に届いたが、それは紬のものである。
「え? 好海ちゃん。何でこいつだけ“ちゃん”を付けちゃったの?」
紬はこみ上げてくる笑いを抑えるように口元を手で覆いながら、好海の顔を覗き込む。
その紬からの問い掛けに、好海は首をかしげる。目には不思議そうな色を湛えていた。
「ん? なんで? うーんと……かわいいから!」
再び悩んだ末に放たれた5歳児の純粋な言葉は、紬の笑いを噴出させるには十分すぎた。
「か、かわっ……蛍、可愛いだってよ」
肩を震わせながら蛍に目を送る紬。その様子に蛍がいつものごとく頬を膨らませたのは言うまでもない。
「自分は別に何と呼ばれようとも構いませんよ。と、いうか紬さん。そんなに笑うことはないでしょう! 失礼です!」
「悪い悪い。ふふっ。でも可愛いって……蛍ちゃんって……」
蛍はツンとしてそっぽを向き反抗の意を全面に示した。しかし、その頬はうっすらと赤みを帯びており、若干の照れが感情の中に混じっていることをうかがわせる。
「好海ちゃんに言われるのは構いませんが、むしろ光栄ですが、あなたに言われるのは大いに心外です!」
「ほ・た・る・ちゃん」
「もうっ! やめて下さいよー!」
「蛍ちゃーん」
「だからー!!」
2人の様子に初めのうちは神妙な表情を浮かべていた好海も、このやりとりが喧嘩というものとは縁遠いものであることを幼いながらに悟ったのかもしれない。何が可笑しいでもなく、コロコロと笑いだした。やがて、彼女も紬を真似るように「ほたるちゃん」の連呼を始めると、いよいよその場が賑やかになっていく。
しばし、和やかな時が流れるテーブル席のその空間。
井吹がそれを振り返り見ることは、その間一度もなかった。