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* 03

「柏木さーん」


 柏木の元へその可愛らしい声が届いたのは、店の古時計が午後3時を告げたと同時のことであった。近づいてくる足音に、手元の作業を一旦中止した柏木は、それまでの中腰の体勢から体を解き放った。腰にかかっていた負荷がとれ、目線もおのずといつもの高い位置に戻る。

 そうして、少し視軸を下方へ落とせば、印象的な大きな目を爛々(らんらん)と輝かせた少女がいた。


「天宮さん。どうも、こんにちは」

「こんにちは。柏木さん」


 柏木の律義な挨拶に応答し、頼子はふわりと微笑んだ。

 丁度大人と子供の間を彷徨う年頃のその笑い顔は、非常に可愛らしく、同時に魅惑的でもある。御堂や紬などは彼女のことを向日葵、もしくは太陽のようだなどと比喩したりもするが、いつもカウンター越しに正面で向かい合うことの多い柏木にとって、彼女の印象は言葉にしがたい何かがある。特にここ数カ月間で彼はそう思っていた。

 ただ、柏木の場合、胸の内にその思いを秘めておくだけで言葉にしないのが常である。したがって、頼子のそんな姿を知るのは、『gift』では彼一人であると言って良い。


「柏木さん。この前頼んだあれ、出来てる?」


 そんな店員の心など知らない頼子は、小首を傾げ何かを求めるかのように、上目づかいで柏木の瞳を覗きこんでくる。

 柏木は特に動じることもなく、無言で頷いて頼子に背を向けた。


「よーりこちゃん」


 柏木の動向を眺めつつ、カウンター席に腰を落ち着けた頼子は、背後からする声に振り返った。

 丁度ティータイムということもあり、込み合い始め多忙を極める店内。その中で呑気にも話しかけてくるのは、いつだって彼に決まっている。

 開襟のシャツにサスペンダー。ラフな格好だが、それは意外と着る者を選ぶ。彼はそんな装いをいとも簡単に着こなす。ちょろんと一房に束ねられた髪を揺らしながら歩いてくるその店員に向かい、頼子は人差し指をつきつけた。


「こら、紬! サボるな。この忙しい時に」


 頼子は口元に笑みを湛えながら、眉間の辺りに手を持っていき、眼鏡を持ち上げるかのような動作をした。


「うわー。誰かさんにそっくりだよ、それ。怖い怖い」

「似てた?」

「似てた似てた」


 そうして顔を見合わせた二人は、こみ上げてくる笑いを隠さずに笑い合う。同時に横目でテラス席の方へ目を向けると、そこには甘いお菓子に心弾ませる小さな女の子に微笑みかける眼鏡の青年、御堂の姿があった。


「で、今日はどうしたの? 珍しいね、学校帰りに寄るなんて。誰かと思ったよ」


 再び視線を店内へ戻した紬は、そのまままじまじと頼子の様相を眺める。

 胸元で結ばれたチェックのリボン。裾にレースが躍るひざ丈のプリーツスカート。全身白を基調としたそれは、紛れもなく学校帰りの女子学生だ。頼子のスカート姿を見たことなど数えられるほどしかない紬には、現在の彼女の姿は貴重なものとして映っている。


「うん。今日はお茶をしに来たんじゃないくてね、テイクアウトなの。この前来た時に食べたドーナツがおいしくて、柏木さんに頼んでおいたんだ。お祖父ちゃんにも食べさせてあげようと思って」

「……なるほどね」


 頼子は明るくそう言ったが、反対に紬の口調は若干の歯切れの悪さを感じさせた。

 彼女には病に伏せる祖父がいる。現在も入院中であり、その病状は思わしくないという。彼女がどんなに明るくふるまおうとも、その話題に持ち込むのは紬としても抵抗を感じざるをえない。

 正直なところ、どんな言葉を掛けようとも慰めにしかならないと紬は思っている。普段いいかげんに見られがちな紬であっても、そこのところの配慮は彼なりにしているつもりなのだ。しかし、それを表に出してしまうのは正直といえば聞こえはいいが、その反面彼の至らぬ部分ともいえるだろう。

 その点、頼子は少々大人なのかもしれない。相手の微妙な変化を感じ取り、一層明るい態度で紬に笑いかける。


「最近、お祖父ちゃん体調が良くてね。良く散歩にも出てるんだ。だからドーナツくらいならいけるかなって」

「へえ。きっと、お祖父さん喜んでくれるよ。ここのお菓子は旨いからね」

「うん」


 頼子の取り計らいによってか、ぎこちなくなりそうな会話を免れた二人の間に、再びふわりと明るさが戻ってきた。

 そして、それを見計らったように、


「おまちどうさま」


 柏木がカウンターへと戻った。手には和紙の紙袋がある。


「ありがとう。柏木さん」

「いえいえ」


 袋を手渡され、頼子は胸の前にそれを抱きかかえた。

 しっかりと封をされているにもかかわらず、袋からはほんのりと甘い香りが漂ってくる。頼子はそれを胸一杯に吸い込み、うっとりとした表情を浮かべる。そして一拍置いた後、そろそろ店を出ようかと席を立とうとする。


「ちょっと待った!」


 しかし、頼子のその行動は紬によって阻まれた。両肩を掴まれ、一度浮かせかけた腰を椅子に戻されてしまう。

 突然のことにされるがままに席に着き、きょとんとして紬を見上げる頼子。その前、カウンター越しで柏木も同じような表情を浮かべている。


「何? 紬君」

「何? じゃなくてさ、頼子ちゃん。待った待った」


 いったい何を待てというのか。頼子と柏木は尚も疑問の表情を浮かべ、一方の紬は頼子と紙袋を交互に見比べている。


「頼子ちゃん」

「なあに?」

「その紙袋、お祖父さんに持って行くんだよね?」


 頼子はこくりと頷く。つい先程、そう話したはずだ。


「じゃあさ。そのもう一つ持っている袋は? まさか、二袋もお祖父さんへのお土産ってわけじゃないだろう?」


 そう言って紬は頼子に抱えられた紙袋を指差す。そう。紬の言う通り、柏木が頼子に手渡したのは二つの紙袋であった。だからこそ頼子は片手では持ち切れない二つの紙袋を抱きかかえたのである。

 一つが彼女の祖父への土産ならば、残りのもう一つは――? 


「ああ。これ? これは――」

「あ、わかった! そうか。頼子ちゃんの分だよな。一つが土産なら、残ったのは頼子ちゃんの分しかないじゃないか。そうそう」


 しかしこの時、紬の頭の中には、一人のある男の顔が浮かんでいた。

 案の定。頼子は首を縦には振らなかった。


「ううん。こっちは違うの。私のじゃないよ。第一ドーナツが食べたかったら、私はここで焼きたてのものをいただくもの。わざわざお土産に包んでもらわなくても、食べたい時にここに来るよ」

「……そうだよね。じゃあ、それはもしかすると、い――」


 紬がその名前を口にしようとしたその時――。


「紬くーん」


 背後からカウンターへと近づいてくる耳に心地良い中音域の澄んだ声。しかし、その声は紬にとっては恐るべき、否、煩わしいものでしかない。カツカツと普段は気にならない程度の靴音でさえ耳に付く。

 肩に置かれた白い手に、紬はゆっくりと振り返る。


「紬。お客様との楽しい会話も良いけれど、手が止まっているよ。サボるなよ。この忙しい時に」


 そこには紬を正面から睨みつけてくる御堂の顔が。と言いたいところだが、今回は満面の笑みを湛えた御堂の顔があった。恐らくお客が大勢いる手前、険悪な状況に陥ることを避けたのであろう。さすがは御堂、といったところだろうか。

 しかし、それは逆の効果を生んだことも事実である。思いがけない御堂の表情に、紬はひるんだ。


「は、はいはーい。今注文取りに行こうかなあ、なんて思ってたところなんだ。……行ってきます」


 カウンターの奥に引っ張り込まれてお説教、といういつものパターンを思い浮かべていた紬にとって、そんなイレギュラーな御堂の対応は少々こたえたようであった。すっかり調子を狂わされた紬は、そそくさとその場を退散し、注文を待つテーブルの元へ去っていく。テーブルへ行きつくまでの間、彼は名残惜しそうにちらちらと振り返っては、話の続きを乞うかのような視線を頼子に向けていた。


「まったく困ったものだ、あいつには。ちょっと目を離すとここぞとばかりに手を抜くんだから。少しはいつも必死な蛍の姿を見習ってほしいよ。ま、おっちょこちょいな所は見習わなくて良いけど」


 手にしていた注文票を柏木に手渡しながらそう言った御堂は、ホールでたどたどしく注文をとる蛍へ目を向け嘆息した。御堂の心配事は絶えることはなさそうである。

 そして一呼吸置いてから、御堂は頼子に向き直った。


「ごめんね。紬が邪魔をしてしまって」

「ううん。そんなことない」

「そう? なら良いけれど。でも、そろそろ行かないと、病院の面会時間は大丈夫?」


 御堂に言われ、頼子は壁際の時計に目を向ける。時針は4の位置に迫ろうとしていた。


「いけない! そろそろ行かないと、面会5時までなんだ」


 頼子は椅子を蹴るようにして立ち上がった。制服のプリーツがふわりと揺れる。


「あ、そうだ。ドーナツのお代払わないと……」

「いいよ、また次来た時で。それよりも早く行った方が良い。な、柏木」

「ああ」

「え。良いの?」


 頼子の問いかけに頷いて返す御堂と柏木。御堂に至っては早く行けと言わんばかりに、手を払うようにして頼子を戸口の方に(いざな)った。


「うう。じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとっ! 御堂さん。柏木さん」


 若干の躊躇は見せたが、二人の好意に甘え、ここはツケということにしておいてもらおう。思いを固めた頼子は踵を返すと、いそいそと戸口へと向かった。

 御堂は去りゆく頼子に手を振りながら、その後ろ姿に声をかける。


「お祖父様によろしくー。ああ、それと井吹古書店の店長さんにもねー」


 しかし、それを聞いた頼子の動きがぴたりと止まった。振り返る頼子。


「どうして知ってるの!? こっちの袋を井吹さんの所に持っていくって。私まだ、誰にも……」


 誰にも二つ目の袋の贈り先は告げていないはずだ。これまでにも柏木には何度かお菓子を頼んだが、祖父の分ともう一袋、とそれだけしか言わないでおいた。井吹古書店に出入りしていることを人に知られたくないという訳ではないが、わざわざ公言することでもないだろう。それにおかしな噂を立てられてしまうのも好ましくない。そう思っての行動だった。なのに何故――。

 瞠目する頼子。それを差し置いて、御堂はやわらかに微笑む。


「さて。どうしてでしょう」


 どうしても何も、最近頻繁に通ってくる頼子の存在を井吹本人の口から耳にしているのだから仕方がない。井吹からそれを聞くようになってから丁度同時期になって、頼子もお菓子を二つ頼むようになったのだから分からないほうが不思議というものである。

 しかし、それを知らない頼子は首を傾げるばかりであった。


「ねえ、どうしてよ」

「さあね。ほらほら、もう行かないといけないんだろう? 早く行きなさい」

「……御堂さんの意地悪」


 店を去る際にそう言って頬を膨らませた頼子であったが、その目は笑っていた。御堂には何でも見通されてしまっている、頼子の瞳はそんな色を浮かべていた。

 頼子を見送り、御堂は柏木の用意したコーヒーを銀のトレイに移し、ひょいと片手で持ち上げた。


「それで、柏木。天宮さんに渡した紙袋だけど。特に井吹さん宛の方、あれって……」

「ドロップドーナツ。男性でも食べやすいように、甘さ控えめで作ってみた。因みに春野菜を使っているから、体にも――」

「いやいや。そういうことじゃなくて」


 己の意図に反した答えを淡々と語り出した柏木を、御堂は容赦なく制止した。すると珍しくも柏木が不服そうな顔で口をつぐむ。お菓子のことを語り出しせっかく饒舌になったところを止められれば、さすがの彼も微かではあるが不満を(あら)わにするようだ。

 しかし、それを口に出すことはしない柏木は、では何を聞いているのだ、と言いたげな顔で視軸を手元から御堂へと移動させた。


「あのドーナツ。もしかすると、井吹さんのために作ったものなんじゃないかと思って。つまりあのドーナツは……」

「さて、何のことやらさっぱりなんだが」


 今度は御堂が不満げに口をへの字にする番であった。そんな御堂を見、してやったりという表情を浮かべる柏木。こんな構図は少々珍しい。しかし、飲食やおしゃべりを堪能するお客達と慌しくテーブル間を駆け回る紬と蛍の目にそんな姿は決して映りこまない。


「またまた」


 御堂はそれだけ言って、カウンターを離れる。

 様々なお客とコーヒー紅茶の香りで賑わうティータイムも、もう少しで収束を迎えるだろう。

 静かな時間が訪れるまで、もうひと頑張りである。

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