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* 02

 日中は目が眩むほどの賑わいを見せる海辺の商店街だが、夜が更けていくにつれ、その賑わいもさすがに鎮静する。街の活気の背景であった波の音は薄闇の中でその存在感を露わにし、夜の港街を包み込む。そして、皆が店仕舞いをし寝静まった頃に街を照らすのは、街路に等間隔に設けられた街灯のほのかな光と月明かり。

 しかし、街さえ眠るそんな真夜中でも、眠らない店というのも数件存在する。

 そろそろ日付が変わろうかという頃。そんな時間にも、明かりの灯る数軒の店。遅い帰宅のお客の心を満たす小さな定食屋に、酔客の歌声が時折漏れ聞こえてくる賑やかな居酒屋。深夜にしか店を開けない風変わりな人形屋。各々の店から溢れる照明は、明るすぎることなく夜の街に溶け込んでいる。

 そんな真夜中の商店街でひっそりと営業を続ける各店舗。しかし今日にいたっては、その明かりの数が一つばかり多いようだ。


 一人の青年がまるで吸いこまれるかのようにして、一軒のレンガ造りの店へと足を踏み入れた。

 入ってすぐに彼を出迎えたのは、疲れた心にしみわたる暖かな間接照明の光。そして、それと対になって影が織りなす幻想的な雰囲気。

 青年は店内に入るなり、慣れた様子でカウンターへと向かう。


「いらっしゃい。ああ、井吹さんじゃないですか。お久しぶりです」

「ん。そうか? ふむ……言われてみればそうかもしれないな」


 カウンター越しの店員の挨拶に、青年――井吹三純(みすみ)はそっけない返事をし、隅の席に落ち着いた。


「何にしましょうか」


 そんな井吹の態度にも、顔色一つ変えることなく、茶金の頭の店員は眼鏡の奥の目を細めて笑う。


「うん……何か適当に。あまり甘くないものが良いかな」


 またしても井吹が返したのは、短い返事であった。

 しかし、店員も負けじと「かしこまりました」と一言。そして早速カウンターの奥へと身をひるがえし“何か”の作成にとりかかる。

 井吹はそんな店員には目もくれず、ズボンのポケットからシガレットケースを取り出した。中から煙草を一本だけつまみだし口に加えると、テーブルに備え付けられたマッチを手に取った。


 壁に取り付けられた間接照明と各テーブルに置かれた蝋燭(ろうそく)の軟らかな明かりに包まれた店内。開け放たれた窓から入ってくる静かな波の音。それをかき消してしまわないよう、耳に障ることもなければ小さすぎることもなく絶妙なバランスで流れる店内音楽。

 思い思いの酒を楽しむ客はパラパラと合わせて3組。あとはその間を優雅に歩き回る少し伸びた黒髪を後ろで一つにまとめた男性店員と先程のカウンターの店員の2人。

 ほんの小さな差異だけで、昼間の姿とはこうも違って見えるものなのか、と井吹は何もかもが穏やかで落ち着き払ったバーの店内に視線を巡らせながら細く煙を吐き出した。


 『cafe and bar,gift』

 これがこの喫茶店の夜の顔、正確に言うのであれば“bar”の部分である。日中は純喫茶とでも表現しようか、コーヒーや甘い菓子を出すカフェ。夜は酒類も提供する未成年禁止の大人の空間、バー『gift』。といったわけである。

 しかし、このカウンターで一人煙草をくゆらす井吹や今いるその他の客たちのように『gift』の夜の姿を知る者は多くはない。

 何故ならばこのバー『gift』。何せ営業日が定まっていないのである。すべては店員たちの気まぐれ。週に2、3日の頻度で店を開ける時もあれば、反対に一月まったく営業しないということもある。

 では何故彼ら、現在店内にいる客たちはバー『gift』が本日営業するということを知り得たのか。

 それは今日の夕方、紬と蛍が店にいなかった理由に直結する。つまり、彼らが御堂に頼まれたおつかいというのが、まさにそれ。バー『gift』の営業を宣伝に出ていたのである。ただ宣伝といっても些細なもので、大々的にふれまわるというわけではない。方法はただ一つ。すべては人伝(ひとづて)によるものである。

 まず、『gift』にてバーを開けることが決定する。そして宣伝部隊の紬と蛍が外へ出る。二人の行き先はバー『gift』の常連客の元。といってもすべての常連客を訪問するのではなく、訪問をするのは任意で選んだ数名だけである。その数名への宣伝が済めば、二人の仕事は終わる。あとはその任意の常連客が他の人間にバー『gift』営業情報を伝えるも良し、それを一人占めするも良し、知り合いを連れていくも良しというわけである。

 ただ、それでは客の入りが望めないではないか、という声も聞こえてきそうである。しかし、夜の営業に至ってはそこは重要視していないのだ。先に彼らの気まぐれであると述べたように、バー『gift』は店員たちの楽しみ程度のものであり、あまり利益を期待してはいない。尤も、店を夜に開ける目的が他にないとも言いきれないのだが……。


「お、誰かと思えば井吹さんじゃん」


 手にした煙草も短くなってきた頃、静かなバーには少々不釣り合いな明るい声が井吹の耳へ届いた。視軸を煙草から声のする方向、正面へ移す。そこでは、先程テーブルの間を回っていた店員が、にやにやと何か含みのある笑い顔を浮かべていた。

 井吹はその声に「おう」とも「よう」とも聞こえる曖昧な返事を口の中で唱えた。


「ここのところ来てくれてなかったから、誰かと思っちゃったよ。……あれ。しばらく見ない間に、老けた?」

「老け……失礼な。紬君よ、俺は客だよ」

「いいよいいよ、そんなの気にしなくて。俺と井吹さんの仲だろう?」


 顔の前で手を振る紬に、井吹は大仰な溜息をお見舞いする。吐息と共に紫煙も吐き出し、あと幾度か堪能できそうな煙草を名残惜しそうに一瞥して、灰皿に押し付けてた。最後まで吸いつくしてしまいたい気もしたが、煙草を嗜まない紬の介入によって何となくとってしまった行動であった。決して気を使ったわけではない、と自身に言い聞かせる井吹である。


「気にするかどうかを君が決めるなよ。というか、どんな仲だよ。どう考えても君と俺との間には店員と客という相互関係しか成り立っていないだろうに」

「なんだよ、つれないなあ」


 紬はぷくっと頬を膨らませ、わざといじけたような仕草を取った。といっても、頬をふくらます一方で、紬の口元は緩んでいた。

 勿論、そんな態度が常連客に通じるわけもなく、井吹は何の気なしにそれを受け流す。


「で、何だよその顔は。さっきからにやにやと気持ちが悪い」


 井吹が頬杖をつきながらそう言うと、待ってましたとばかりに紬はふくらました頬から空気を抜いて、カウンターから身を乗り出した。

 どうやら、耳打ちをするような話らしい。首をかしげながらも井吹もそれにつられ、紬に耳を向ける。


「いやさ。俺、今日ちょっと面白い話を聞いちゃったんだよね」

「面白い話?」

「そう。面白い話。どう聞きたい?」

「……いや。別に」


 井吹は興味がない風にそっぽを向いた。しかし、紬はそんなことは目に入らないといったように、身を引かずにいる。

 興味ががあろうとなかろうと、紬が話をやめないことは井吹には分かっている。この店へ来ての井吹の話相手は専ら紬なのである。案の定、紬は手を添えて井吹に耳打ちをしてきた。


「最近、井吹さんとこの古書店に美少女が出入りしてるって」


 井吹は思わず顔をしかめた。勿論井吹にはそんな話覚えもなければ、聞いたことがないのでそんな顔になろうとも無理もない。


「美少女? なんだそれは」

「何って、美少女は美少女でしょう。なんだよ隠すなよ。今日行った八百屋のおばちゃんが言ってたんだよ。ほら、古書店の斜向かいの元気なおばちゃんいるだろう?」

「ああ。あの人ね」


 言われてすぐに浮かんできた女性の顔に、少々苦い顔を浮かべる井吹。

 確かに紬の言う“元気な八百屋のおばちゃん”は存在する。井吹が店主を勤める古書店の斜向かいで毎日元気に客を呼び込む賑やかで噂好きな、その存在が街の名物になりつつある中年女性である。その“おばちゃん”であるが、噂好きなのは良いがその噂に尾鰭(おひれ)どころか余計な鰭をいくつもつけてしまうのが常である。おそらく今回もその類の話だろう。と、井吹は溜息を落とした――実は井吹、太陽よりも明るいと称される彼女に若干の苦手意識を持っていたりする。


「……で、どうなんだよ」

「どうって何」


 あくまでも知らない顔を貫き通す井吹。頭の隅ではその話の真実に薄々勘付いてはいるのだ。が、“美”少女というのは本当に初耳である。


「だから! 真相を聞きたいわけだよ、おれは。どうなの? 美少女の出入りはあるの? ないの?」


 紬はじれったそうにカウンターに乗り出した身を揺らす。その子供のような姿が少し可笑しくて、くすっと鼻で笑った後、井吹は、


「真相も何もなあ。美少女が出入りしているなんて事実あってたまるかよ。あの今にも潰れてしまいそうな古本屋に美少女? そんな子が通って来てくれるなら、是非ご紹介を願いたいもんだ」


 と、にやりとして組んだ長い脚を組みかえた。


「何だよ。じゃあ、またおばちゃんの作り話? 勘弁してよ。期待しちゃったじゃんかよ」

「いやいや、俺に言われてもねえ」


 紬はやっと身を引いた。というか、今度はのけぞって全身でそのショックぶりを表現している。

 

「その話、あながち嘘でもないですよ。はい。お待ちどうさま」


 と、一人もだえる紬の横に姿を現したのは、先程下がっていった金髪の店員、御堂であった。

 コトリ。と静かな音を立てて井吹の前に差し出されたのは一杯のシャンパングラス。静謐(せいひつ)な夜を思わせる澄んだ青に、ふつふつと立ち上る細かい気泡。

 その美しさにグラスの中を覗き込む井吹と紬に、御堂は静かに「シャンパン・ブルース」です、と呟いて微笑んだ。


「その美少女。僕は知っていますよ。勿論、井吹さんも本当はお気づきなんでしょう?」

「……うむ。まあ、“美”をつけるべきか否かは人に寄るだろうが、少女が来店するようになったのは事実だな。……因みに俺は“美”はつけない」


 井吹はむっつりと言い放って、グラスを手にした。そうして再び店内の照明に透かすようにしてそれを眺めると、まずは一口だけ頂く。さしてアルコールの強くない爽やかな口当たり、そして甘味は注文通り少なめで、井吹好みな酒であった。


「そうですか? 僕には美少女に映るけどなあ」

「おや、御堂君はああいうのが好みなのかい? 少し意外だなあ」

「ああ、いえ。好みとかそういうのではなく、彼女は十分美少女の部類に入ると区別しただけですよ」

「その言い方も、どうだろうな」

「ははは、失礼失礼」


 しばらく訳知り顔な二人の会話が続いた後、その横でしびれを切らしたのは何も知らない紬であった。


「え、美少女来店の噂は本当だったのか? つーか、二人だけで話進めるなよ! 俺にも説明するように……」

「天宮さんだよ」

「へ……?」


 駄々をこねるように左右に体をねじっていた紬であったが、御堂のその一言でぴたりと動きを止めた。


「だから、天宮頼子さん。彼女だよ。井吹さんの所に最近出入りしている美少女の正体は」

「は? 頼子ちゃん? なんだよそれ、初耳だよ」

「うん。初耳だろうね。お前はそういうことを知るとすぐに騒ぐから、僕が話したのはこれが始めてだからね」

「俺も御堂君や他の二人には話したが、君にはしてないな。そういえば」


 井吹はそう言ってグラスに再び口をつける。そして一口流し込んだ後、「うまい」と一言。すると、それに「良かった。それは何よりです」と御堂の声が返ってくる。

 天宮頼子。つい先日、ある言葉の意味を求めて突然井吹古書店を訪れた彼女は、近所の雑貨屋の娘である。その年代の少女にしては珍しい、ショートカットにズボン姿。初めて彼女が訪れてきた時には、どこのお坊ちゃんかと思ったのを覚えている。

 その彼女が最近、しばしば古書店を訪れては井吹の読書時間を削っていくのである。


「じゃあ、俺一人知らなかったのかよ。何だよそれは!」

「ただ何となくかな」


 井吹の目配せに深く頷く御堂。そんな二人を尻目に紬はうなだれていた。


「くそ。なんか納得いかない。あれ、じゃあ何? 井吹古書店に通ってる美少女が頼子ちゃんだったってことは……井吹さん。あんた、16、7の年端もいかない女の子をたぶらかしてるのか!?」


 たった今うなだれていたはずの紬の思考は、次の瞬間にはかなり跳躍していた。井吹は思わずシャンパングラスを取り落としそうになる。


「何故そうなる」

「いや、だって井吹さん、今何歳だっけ? 確か27歳?」


 井吹はグラスを手で弄びながら頷いた。カウンターの内では御堂が頭を抱え、呆れたように隣に立つ紬を見ている。


「駄目だよ、井吹さん。10も歳の離れた未成年の女の子を手にかけるのは犯罪だよ」

「誰が手にかけるか、馬鹿たれ」

「え、違うの? いや、でもさ。これからそれが無いとは言い切れないだろう? 歳の差なんて乗り越えて、恋愛に発展しちゃったりして」


 紬はどうしても話をそちらに持っていきたいようで、一人で盛り上がりを見せている。その傍で他2名が、冷たい視線を送っていることに勿論彼は気が付いていない。


「だって井吹さん。頼子ちゃんってちょっと見た目男の子っぽい所もあるけど、可愛いじゃん。まさに美少女じゃないか。そんな子があんな古本屋に足しげく通ってきたりなんかすれば、俺だったら我慢できないね。俺に気があるんじゃないかって思っちゃうじゃん。なら、井吹さんだって誤って手を出さないとは限らないじゃないか。だろ?」

「紬。あんなとはなんだ。失礼だろう」


 興奮気味に話す紬であったが、御堂に指摘され、その点は頭をちょこんと下げて誤った。

 当の店主である井吹はといえば、それを気にする風もなく軽く手で制すと、グラス越しに紬を見やった。


「いや。あの子はあの店が珍しいだけなんだと俺は思うよ。もともとあの子は本好きってわけではないようだから、きっとすぐに飽きてこなくなるさ。たぶん街の空気に不釣り合いなあの古めかしい雰囲気にあてられただけ。要するに珍しいもの見たさの一時的な興味だろうよ」


 少し投げやりなその物言いに、御堂と紬が顔を見合わせる。珍しくお互いの気持ちが通じているかのように、二人は同じような顔色で目線をカウンターに腰掛けるお客に戻した。


「そういえば井吹さんってさ。彼女とかそういう親しい人っていないの?」

「ん? 何で?」

「うん。俺、井吹さんの口から恋愛の話って聞いたことがないなって思って」

「僕も聞かない」

「恋愛ねえ。そういうのは、もう……」


 その話題になった途端、井吹の表情は一瞬にして変化した。

 御堂と紬が、否、誰もが彼の顔を見れば容易に感じられるだろう。そのあからさまともいえる嫌悪感を。


「そういうのは、もういいんだ」


 伏し目がちにそう言って井吹は、グラス半分の(かさ)のカクテルを一気に飲み干した。


 突然空気の変わったバーカウンター。

 店の壁にたたずみ、その異質とも取れ得る存在感を放つ古い柱時計だけが、静かに1度鐘を鳴らした。

短編「気まぐれホットミルク」の井吹さんが本編登場です。

合わせて読むと、彼の人となりが何となくご理解いただけるかと思います。

勿論、今作だけお読みいただいても、問題はありません。


尚、作者はお酒をまったく飲めないため、味の表現についてはご容赦ください。

ちょっぴり大人な『gift』を書きたかったのです!

といっても、それも紬が台無しにしてくれた感がありますが……。


cafe『gift』とbar『gift』。あなたはどちらがお好みですか。

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