夜のご来店も心よりお待ちしております。
『かみさま、おねがいです。雨をふらせてください』
小さな願いは春風に乗って空へ舞い上がった。
例えば、時間を遡らせるだとか、時間を引き延ばすだとか。きっともっと適当な願い方をすれば、それで済んだのかもしれない。
初めて会えた父親と、もう少しだけ一緒にいられるだけの時間が欲しい。そう願えば、あんな遠回りをせずにいられたんだ。
けれど幼い好海ちゃんには、そうするだけの余裕がなかった。
『これから外に出られないくらい、君を送り届けられないくらいの土砂降りにでもならない限り駄目かな』
二人になった砂浜で、井吹さんから聞いたその言葉。好海ちゃんを送り届ける約束を絶対だと言った井吹さんが、唯一言った約束が無為になる方法。
まだ何もしていない。
もうすぐ迫った別れの時に、そう思った好海ちゃんは頭上に広がる美しい夕空に願った。そう願うことだけしかできなかったんだ。
そして、願い通り雨は街に降り下りた。春の嵐となって。
が、しかし。強い雨に見舞われようとも、井吹さんは時間通りに約束を果たそうとしていた。好海ちゃんは古書店奥の一室で、井吹さんの傍らで、それを知った。そうして、困ってしまった。せっかく雨が降ったというのに、彼女の本当のお願いは叶わなかった。ほんの少しだけでも時間が欲しいだけだったのに。
そこで困った好海ちゃんは、母親の、沙代さんの言葉を思い出す。「困ったら海へ」と。何故海なのかは俺には分からない――井吹さんなら分かるのだろうか。とにかく好海ちゃんは海へ足を向けた。と、言う訳である。
簡単に言ってしまったが、簡単なことなのだ。本当に。
時間があれば、「お父さん」とただ一言言うことができれば。たったそれだけ。
……いや。それだけなのだろうか。
正直、人の考えることなど俺には分からないから、解らない。
「なあ、柏木」
呼ばれて手もとから視線だけそちらに移せば、カウンター越しに紬が乗り出してきていた。次いでほんのりと石鹸の香りが漂ってくる。そういえば先程、ずぶ濡れになった身体を温めるため風呂に入ると言っていたか。濡れた髪から、カウンターテーブルへとぽたぽたと雫が落ちる。それが非常に気になりはしたが、ここは抑えて黙って先を促した。
「今回、好海ちゃんにお菓子をあげたのってお前だろう? つうか、お前しかいない」
首を傾げてそう俺に問いを投げかける紬に、頷いて返す。確かにそうだが、それがどうした。
俺はそんなことよりも、お前のその長めの髪から落ちる雫のほうが気になる。結ぶかどうにかすれば良いのに。なんならキッチンばさみを貸してやろうか。今、この場で。
「まあ、それは分かったんだけど。それっていつあげたの?」
「……?」
いつ、と言うと?
と、いう問いを口には出さずに済ませてしまうのは、俺の悪い癖だ。まあ、伝われば良いと思うから、そこまで気に病んではいない。
「だーかーらー。好海ちゃんのお願いを叶えたお菓子は何だったんだって聞いてるんだよ。俺さあ。それをずっと考えてたんだけど分かんなくて」
ああ。それは。
「ちょっと待て。やっぱり答えをすぐに聞くのは悔しいから、もう少し考えさせろ」
俺が答えてやろうとすると、紬は慌ててそれを止めた。
そうして紬は頭を抱えて考え始める。やがて、何か思い当たったのかパッと顔を上げた。
「そうか、あの時の。昨日好海ちゃんが初めてgiftに来た時の、プリンアラモードだろう! テーブルでおいしそうに食べてたやつ」
「…………」
俺は首を振って即答する。
「えっ!? 違うって……他にあったか? 柏木が好海ちゃんに出したものなんて、あとは朝と昼の飯くらいだろう? 他に俺は見てないぞ」
再び紬は考え込む。一生懸命に記憶をさかのぼっているようだが、そんなことをしても彼には分かりようが無い。これは確信を持って言える。言わないけれど。
と、そこへ近づいてくる人物がもう一人。
「僕は知っているけれど」
夜からの開店準備をして回っていた御堂だ。彼は床を磨き上げ終えたモップを片手に、悩める紬の背後に立った。そして、紬の頭に何かを投げかぶせた。
「紬。さっきから髪から水が落ちている。まったく、仕事を増やすようなことはするなといつも言っているだろうが……っと。そうではなくて、好海ちゃんへあげたお菓子の話だったか」
「なんだよ御堂。全部知ってるような顔しやがって」
「今回は全部とまでは行かないよ。まあ、そうだな。紬君、頭の悪いお前よりは知っていることは遥かに多いだろうな、遥かに」
「ははは。すげぇムカつくんですけど」
「知ってる」
二人の間に流れる険呑な空気。また始まったか。
先程のお菓子の話題は良いのだろうか。良いなら良いのだが。俺は準備で忙しいのだ。
「自分も知ってますよ。お菓子の正体」
「……?」
二人に気を取られていて気が付かなかったが、いつの間にかカウンターの端の席に蛍が腰掛けていた。紬の後、続けてシャワーを浴びてきたようだ。短い髪の湿り気はすでに拭いとられているようだが、上気した頬がそれを物語っていた。睨みあう御堂と紬をよそに、風呂上がりの一杯とでもいうようにミルクの入った蛍専用マグカップを手にしている。気の小さな蛍といえど、こう毎度毎度ぶつかり合う二人を相手になどしない。始めの頃はそれこそおどおどとしていたものだが、今ではそんな陰もない。
そんな蛍の登場に、御堂と柏木の注意も自然とそちらにずれたようだ。
「蛍まで知ってるのか」
「はい。知っている……と、思います」
「知らないのはお前だけだな、紬」
「うぐぅ」
うん? 蛍も知っているのか? いや、蛍は知らないと俺は思うのだが。
と、いう疑問も、またしても呑みこんで、俺は黙ったまま三者の様子をうかがう。
「ドーナツ、ですよね?」
自信のない様子で二人を見上げる蛍。
ん? ドーナツ? あれ?
「ドーナツ?」
聞いてもなおピンと来ないのか頭をひねる紬の傍で、御堂が頷く。
「そう、ドーナツ。ドロップドーナツだよ。ほら、あの時の」
「あの時…………ああ!! あのドーナツか! 頼子ちゃんに預けたやつ」
「そうそう。天宮さんが抱えて行った柏木お手製のドロップドーナツのことさ。井吹さんの話によると、あのドーナツ好海ちゃんも食べたらしい」
「へえ。なるほどな。俺はてっきりあのドーナツは井吹さんの願い事のために作られたものなんだと思ってたよ」
いや、待て。何かこの三人は誤解をしているようだ。
勝手に盛り上がっているところ悪いが、あのドーナツは……。
「なんだなんだ。柏木もやるなあ。無口だから余計に分かんないっつうか、なんつうか」
「自分も始めは分からなかったんですけどね。良く考えてみると、ああそうか。これで辻褄があうなって。因みにこれは余談ですが、好海ちゃん「パパ」と「お父さん」を使い分けていたんですよ。育ての父を「パパ」、井吹さんを「お父さん」って。好海ちゃんにこっそり教わったんですが、あの子最初から井吹さんがお父さんであることを分かってたんですよね。何だか健気で」
「ふーん。って俺何にも知らねえじゃん!? プリンだと思ってた俺って何!?」
「それは……自分の口からは言えません」
「ほう。蛍。お前の口から言ってみろよ。ええ?」
「い、言いません! とにかく、今回のはドーナツです。ドーナツ」
だから、紬も蛍も何を言っているんだ。
俺はついに手元の作業を止めた。これは正してやった方が良いだろう。
「そう。好海ちゃんに食べさせたお菓子は、プリンの他あのドーナツくらいしかない訳だよ。今回は僕も悩んだよ、柏木がしゃべらないものだから」
加えて御堂まで、そんな勘違いをしているなんて珍しい。
間違いを正すため、俺は小さく空気を吸い込んだ。
「おい」
三人が俺の方に顔を向けて、注目する。
やれやれ。
ここに来てようやく口を聞いたか、とお思いだろうか。いや、事実だから仕方がない。無口な性なもので。
「好海ちゃんが雨を降らせたのは――――」
「あのぉ~」
しかし、俺のその発言も遮られてしまった。
「あれ? お客さん?」
「ごめんなさい。まだ営業時間じゃないんですよ」
声のした方を見れば、そこには女の子が扉からひょっこり顔だけ覗かせてこちらを見ていた。
サラリと肩をすべり下りる髪は暖かみを帯びた灰褐色。すっかり暗くなった外の闇に妙に映える白い肌。
俺達の視線に一気にさらされて、その女の子はひくりと身を震わせると扉の向こう側に隠れてしまった。
「……だ、誰?」
「さあ」
謎の少女に俺達は顔を見合わせるばかり。お客、なのだろうか。
お客なら、夜の営業開始まではあと30分近くあるが、特にこちらとしては気にしないので店を開けてやっても良いのだが。
いや、駄目だ。彼女は見るからに未成年だった。
「しゃあない。俺が行く」
「ナンパするなよ」
「しねえよ、アホ御堂」
スタスタと扉へ向かう紬。
何やら話しかけているようだが、その内容はこちらまでは届いてこなかった。
やがて、紬が再びこちらへと戻って来た。何やらにやにやとしているが、彼には少女が何者かが分かったのだろうか。
戻ってくる紬にばかり気を取られ一同首をかしげていると、その後に続くように少女が姿を現した。
夜風に揺れる乳白色の影。ふわふわとレース遣いの装飾が目を惹く上品なドレスは、スラリと細いその娘には良く似合っていた。年齢にして20歳ばかりだろうか。女の子にしては少し長身にも感じられたが、その遠慮がちな佇まいが、彼女を一回り小さく見せた。
「柏木にご用なんだとよ」
「っ!?」
紬は親指で背後の少女を指し示し、いやらしい笑みを俺に向けながらカウンター席に腰掛けた。
そんな紬の発言に、俺も含めた井吹以外が目を丸くしていた。蛍に至っては何故か顔が青い。
いや。そんな子、俺は知らないのだが。
「かっ、かっかかか、柏木さん。ま、まさか……あなたまでそんな……もしかして、その子は……」
「……娘?」
慌てる蛍に続け、冗談めかすように言ったのは御堂だ。彼はもう遊んでいるようにしか見えない。慌てる蛍と困る俺を見て、楽しんでいるのだ、御堂という男は。
案の定蛍は、
「柏木さんっ!? いつの間に、どこで、どなたと!?」
この動転様。
勿論、俺は御堂の言葉を全力で首を横に振り否定した。
いやいやいや。そんな覚えはない。覚えは無いというか、俺に限って絶対に無いだろう。紬じゃあるまいし。
「あの……柏木さん。は、あなたでしょうか?」
「……ああ」
カウンター越しに俺の目の前までやってきた女の子は、何故か俺の名前を知っていた。
俺が恐る恐る肯定すると、緊張の糸が解れたかのように「ほう」と小さな吐息を漏らした。
御堂と蛍が身を乗り出すようにして、その様子を見守る。紬はまだにやついている。
「あの、これ」
女の子は俺に向けて何かを差し出してきた。
「…………ああ」
それを見た瞬間、得心がいった。
御堂と蛍の両名とも、俺と同じように安堵のため息を漏らした。
白く細長い指に包まれたそれは、見覚えのある形と繊細な彫刻品だった。
「申し遅れました。私、使いの鶫と申します。あの、えっと。本日は燕ちゃんに代わって、ポイント贈呈に参りました」
少女、改め鶫を一旦カウンターに座らせ、好みだという砂糖多めの甘い紅茶を出してやる。夜間営業の準備を終え、俺もその隣りに落ち着いた。
「これ、どうぞ」
「ありがとうございます」
紅茶の香りにうっとりと頬を染める鶫に、俺は一枚のカードを差し出す。それを見て我に返った鶫は、静かに2度判子を押しつけた。
その様子を、目ざとい紬は見逃さない。
「おっ。今回は2つもくれんだ。燕ちゃんと違って優しいね、鶫ちゃんは」
「えっ、いえ。優しいだなんて……いえいえ、そんなことはないです。私達の評価はいつも公平ですので。決して燕ちゃんが厳しい訳では……」
女の子を口説くかのように軽やかな紬に、鶫がおどおどとして答える。この子は何だか、誰かに似ている気がする。……そうか。蛍か。
「そういえば、燕ちゃんは今日どうかしたの?」
「つ、燕ちゃんは、今日はちょっと……そのぉ。旅行に行ったそうです。南の方へ」
なるほど、さすがツバメ。春とはいえ、まだ若干の寒さが残る4月初旬。避寒のため、か。
「それで、仕方がなく幼馴染の私が。あっ、いえ。仕方がなく、というのは決してここに来るのが嫌だったからだとかそういうことではなく……うぅ」
「良いよ、そんなに気に病まないで。燕ちゃんはもっといろんなことグチグチ言ってくるから、そんなこと全然気にならないから。とにかく来てくれたんだね、ありがとう」
「はい……」
御堂のフォローに、鶫は少し安心した様子を見せ紅茶をすする。燕とはまた違って面倒くさい娘だ。
「それで、だ」
と、この和やかな空気を遮り、切り出したのも御堂。
御堂は俺の方に視線を投げかける。
「……?」
「さっき何か話そうとしていただろう、柏木」
「……ああ」
やっと、話せるのか。俺は。
まあ、そこまで重要なことでもないので、話さずとも良いかもしれないが。促されれば、話そうか。
「好海ちゃんが願ったドーナツの話だが……」
「えっ!?」
……またしても邪魔が入った。
俺の話を中断に追い込んだその高い声は他でもない、隣りに座る鶫だ。彼女は目を丸くして俺をみあげて来た。
と、思えば。
「あの女の子の願いを叶えたのは、キャンディですよね? え、あれ? 私の認識違いでしょうか」
その一言、である。一番言いたいことを言われてしまった。
御堂、紬、蛍は、それぞれに驚きの表情を浮かべている。
「何だよ。キャンディって」
「いや、自分は知りません。いつの間にそんなもの……御堂さんは、御存知ですか?」
「いいや。僕も知ら…………あ。うわー」
どうやら御堂だけは気がついたようだ。彼らしくも無い間抜けな声を発してだらりと椅子に凭れ掛かった。
――決して俺は故意的にいつも無口でいるわけではない、ということをここで断わっておく。
俺の横でまるで自分の事のように語り始めた御堂。それから彼の話に聞き入り、時折相づちを打つ他の面々。
そんな状況で、俺が突然話の腰を折るように話し出すのも、気が引ける。ただそれだけ。要するに、ここは御堂に語り部を譲ってやろうという、俺なりの配慮とでも言っておこう。
とはいえ、今回実際に動いていたのは俺であるからして、その俺としても己の功績を自ら語りたいという「欲」はあるのだ。
だからこの際、この場を借りて……どの場だ? いや、それは問題ではなく。とにかくここからは、俺の――柏木の、柏木による柏木のための独り言である。
結論から先に言って、好海ちゃんの願いを叶えたお菓子はキャンディ。
父親といるために雨を降らせて欲しい、そう彼女は天に祈った。のだが、実質的にそれを叶えたのは俺のあげたキャンディだ。
俺のあげたキャンディが、好海ちゃんの小さくも強い願いを聞き届け発動した。それが、今回のアテスウェイ。
そんなことは分かっている? ああ、そうだろうな。分かっている。問題は、どこでそれを好海ちゃんが入手したかということだ。
俺としては、隠していたのではないのだが。まあ、結果的に御堂と紬、蛍に後々説教をされたわけだから、悪いのは俺なのかもしれない。とは思いつつも、話す機会を逸してしまってはこちらとしてもどうにもならん、ということだけは言っておきたい。……実際口に出して言ってはいないが。だから、その機会までも逸してしま……いや。言い訳は良くないか。
話を戻そう。では、率直に言ってしまおうか。
好海ちゃんに俺がキャンディを渡したのは、数日前。井吹さんが好海ちゃんを連れて“gift”を訪れる少し前の日のことである。
ただ、「渡した」といっても、実は俺は直接好海ちゃんにそれを渡してはいない。そもそも俺が好海ちゃんと顔を合わせたのは、井吹さんが彼女を伴って来店したあの夜が初めてだ。これに偽りは無い。因みに井吹さんの連れてきた女の子が彼の娘であると知ったあの時の俺の驚きようにも嘘は無い。
では、どういうことなのか。知らない女の子にアテスウェイを届けられたのは何故か。
答えは簡単だ。答えと、大げさに言うまでもない。直接渡してはいない、ということは、間接に渡したことに他ならない。
俺は、彼女の母親をずっと前から知っていたのだ。厳密にいえば、御堂も、紬も、蛍も知っているはずである。
好海ちゃんの母親沙代さんは“cafe and bar gift”の常連客だ。それはもう長いこと。だから、店の従業員である俺達は勿論顔馴染み。知らないわけがないのである。知っているのだ。俺を含めた4人はみんな、沙代さんを。
ただし、この「知っている」には、些細でもあり重大な差異がある。
紬と蛍の知っているは、あくまで常連客の一人である綺麗な女性。
御堂の知っているは、常連客の妊婦さん。というのも、先日の来店時に知ったばかりの情報だったから、上の二人と情報量としては大差ない。
そして俺の知っているは、好海ちゃんという娘さんを持ち、そしてもうすぐ二児の母となることを以前から聞いていた、常連客の一之瀬沙代さん。だったのだ。
常連の沙代さんのお決まりの席は、カウンター席。そして俺の定位置はキッチン――カウンターの内側。他の3人は、ウエイター。情報量に隔たりができないほうがおかしいだろう。ましてや、俺の無口……話す機会を逸しがちな面を付け加えれば、その隔たりも顕著である。
回転の速い御堂は、それに気が付き理解したのだろう。キャンディを渡したタイミング、その他諸々のすべてを。
確か丁度その時、紬と蛍は留守にしていたんだったか。それでは分かりっこないだろう。彼らは沙代さんがその日来店していたことも、俺が沙代さんにキャンディを土産に持たせたことも知らない。
そして、御堂はその場に居合わせたのだが、俺が沙代さんとそこまで親しかったということは知りもしなかったという顔だ。買い物帰りに立ち寄る常連客という認識しかしていなかったのだろう。
――――ちなみに、アテスウェイを沙代さんに持たせたのは、もちろん俺の独断だ。
とは言え、気まぐれだとかそういういい加減な理由による独断では決してない。これは、俺だからこそ為し得た技、とでも言っておこうか。
どんなに綺麗な心の澄んだ人でも、時には優しい嘘をつく。
どんなにまっすぐで曇りのない言葉でも、どこかにきっと偽りはある。
どうしてか人とはそういうもので、どうしようもないものなのだ。
俺と沙代さんの間で交わされていた会話を、誰かに公表するつもりはない。ないが、これだけは。
嘘――言葉の裏側をのぞいてみれば、過去も時には未来すらも予測することができる。
沙代さんのつむぐ嘘は、どれも優しいものだった。好海ちゃんを、旦那さんを、お腹の子を、そして井吹さんを想う優しい嘘。
そんなものを見せられたら、動かずにはいられなかった。
こんな無口で、でかいだけの、俺だけにできるたった一つのこと。
好海ちゃんへは誕生日の贈り物のつもりでキャンディを渡したのだが、結果的に彼女はもっと大きなものを大切なものを手にしたようで何よりだ。
井吹さん、沙代さんには少し過去を思い出すという辛い思いをさせたかもしれない。が、二人とも潜在的なところではああすることを望んでいたのだ。いつかはお互い区切りをつけなければ、そう思っていたのを俺は見逃したくなかった。
まあ、いろいろあったにせよ、キャンディ一つで、好海ちゃんと井吹さん、沙代さんの願いが叶ったのならば。
「それでは、私はこれで失礼しますね。あと、これ頂いていきますので」
そう言って鶫は深々と辞儀をする。どこで拾ったのか、彼女の手にはシルバーのケースがあった。
目を凝らしてみれば、それは井吹さんのいつも使っていたシガレットケースだ。聞けば好海ちゃんを捜索している時に落としたとか何とか。
前回は確か写真で、今回はシガレットケース。何だか良くは知らないが、彼女達にもいろいろあるらしく、それらは願いを叶えた証拠品として持ち帰るのだそうだ。
「カードの空白は残り5つです。みなさん、頑張ってくださいね」
言い終えた次の瞬間には、一羽のツグミが夜空にはばたいていた。月明かりをキラキラと反射させる灰褐色の翼、白く美しい腹面は、まさしく先程の女の子の化身だ。
さてと、彼女を見送って店の中に戻るのは良いが。
「…………」
先程から、背中に突き刺さる三人分の視線が痛い。
店内に戻れば、彼らの尋問が待っている。出来ることなら戻りたくないのだが、そうもいかない。これから夜間営業が待っている。
俺は三人に分からないように深呼吸を一つする。
「……………………」
そして、決心する。
よし、黙っていよう。
本当は、たまには言いたいこともある。伝えたい思いも、届けたい言葉もたくさんある。
だが今日は、否、今日もか。今日も黙っていることにする。
あんな奴らだが、俺のことを知ってくれている事は解かっている。
俺が何も言わずとも、彼らは深のところでは俺を理解してくれている。それを俺は知っているのだ。
何故なら俺には事の真偽が分かるのだから。
勿論、これも俺の中だけにしまっておくことにする。
しばらくの内は、今のままで。
想定以上に長引かせてしまいました。
自分が一番驚いておりますが、話の流れは数ヶ月前の予定通りです。
(矛盾点等ちょいちょいある可能性大。しっかり書けるように頑張ります。精進、精進!!)
お付き合いありがとうございました!
そして、井吹さん、好海ちゃん。お疲れさまでした。