* 14
雨の上がりの空の雲間から暖かな日差しがあふれ出し、桜の散り落ちた砂浜に舞い降りる。雨粒が陽光を反射したそれは、まるで桃色の絨毯のようだった。
「やっと見つけた」
砂粒も花弁も跳ね上げ走ってきた井吹は、一言漏らすと好海のいる場所からは少し距離を置いたところで足を止めた。同時に好海のすぐ隣りで木に寄りかかるようにしている柏木の姿も認める。その存在に少々驚きつつも、井吹は次の言葉を探した。
立ち止まった井吹の後ろからは、井吹と同じく濡れ鼠と化した二人――蛍と紬が彼を追いかけるようにして海岸へ入ってきた。好海の姿を目にするなり、それぞれに歓声を上げている。その後、少し離れた所で彼らが足を止めたのは、井吹に対する気づかいか。
「その……心配していたんだ。突然店からいなくなっていたものだから」
井吹のためらいをはらんだ固い声はそう遠くへは飛ばずに足元に零れ落ちた。
桜の幹に身体を寄せたままの好海の顔がそっと木の陰から覗く。
「しんぱい?」
何かを訴えかけようと揺らぐ瞳と相対し、井吹はこくりと一つ頷きで答えを示す。濡れた井吹の髪先からポタポタと雫がふるい落とされた。
しかし、次の瞬間には見合った両者の時間は膠着する。
探し求めていた心とは裏腹に、いざ目の前にすれば両者次に何をすればいいか、何をしたいかがわからなくなる。否、わかっていてもお互いの距離を測りかねすれ違っているこの状態では、一歩も足を踏み出せないのだ。
二人の間を雨上がりの湿りけのある風が駆け抜けた。
どんな言葉を掛ければ良い?
おこってる? ごめんなさいってしなきゃ。
この子は俺に何を求めている?
でもね。好海にはごめんなさいより、もっともっといいたいことがあるんだよ。
何を言えば良いか、何をすれば良いかなんて、分からない。でも、
「あ、あの……」
ここで何もしない訳にはいかない――。
緊張する喉を振り絞って、砂浜にめり込んだかのような重たい足に力を入れて、井吹は好海に近寄ろうと踏み出した。
「いやっ!!」
しかし、井吹はその足を止めた。
好海がそれを拒絶するかのように、木の陰に身体を隠してしまったのだ。井吹から見えない位置に身をひそめた好海は、隣りで様子を見ていた柏木の足へしがみつく形で飛び込んだ。
「え……」
突然の拒絶に、呆ける井吹。
ただそれも一瞬のことであり、彼はもう一歩足を踏み出した。
ここで引いてしまってはいけない。引いてしまえば、もう取り返しがつかなくなってしまう。その思いに突き動かされた意識的、あるいは無意識の一歩だった。
「きちゃいやっ!」
それでも更なる好海の言葉に、井吹は静止するより他なかった。
「どうして。ほら、帰らないと」
出来るだけ優しく、語りかけるように、姿の見えない好海に向けて声をかける。
しかし、
「…………」
好海からは何の返事も返らない。拒絶する言葉すら返ってはこなかった。
再びやってくる沈黙の間。
――――やはり、駄目なのだ。俺はこの子が怖くて怖くて仕方がない。何をしたって過去の自分を責められているようで、どうして良いのかまるで分からない。
「好海ちゃん」
そんな時、聞こえてきたのは木の陰にいるもう一人の声であった。
落ち着いた印象の低音。普段無口な癖に、何でも知っているかのような声音。
二人の姿は木の幹に阻まれて見えないが、その一声で若干空気が変わったように井吹には感じられた。
「好海ちゃん。良いんだよ、言ってしまって」
「……かしわぎお兄ちゃん」
「ほら」
すると少しだけ、木の幹からはみ出して何かが覗いた。セーターのウサギの耳だ。
柏木に促され、まだ姿は現さないものの、意識だけは井吹の方に向けているようだった。
「あのね」
風に揺れる白い耳。その風に吹き飛ばされてしまうかと思われる程に微かに、小さくかすれた声がする。
井吹は必死に耳を傾け集中する。消え入りそうな声はそれほどに儚げだった。
「……のみ」
「え?」
聞き取ろうとしても、ほとんど形になっていない好海の声。井吹は首をかしげることしかできない。
「好海ちゃん。ほら、言って」
もう一度横から出された柏木の助け船に、ウサギの耳が反応するように揺れ動いた。
少しの間を置いて、意を決したように息を吸い込む音がする。
「あのね。好海って」
「…………?」
「ちゃんと、好海って。好海って、おなまえでよんでほしいのっ!!」
「……え」
思わず聞き返してしまった。好海のを予想もしていなかった井吹は、ただただ呆然とする。
――――名前。この子の名前は。
「……みすみお兄ちゃん。好海のこと、どうしてよんでくれないの?」
「いや、それは」
それは、ここまでずっと避けてきたことだった。面と向かってその名前を呼ぶなんて、そんなことできるわけがない。したくなかったのだ。
なぜならそれは……。
「べ、別に意識して呼ばなかった訳ではなくて、たまたま呼ぶことがなかったんだよ。そんなことは……」
口の中が渇く。視線はどんどん足元へ下がっていく。井吹は取り繕いきれない動揺に押しつぶされそうになりながら、思わず目を閉じた。
しかし、その数瞬後には顔を上げ、目を見張ることとなる。
「嘘、ですね」
動揺の中、耳にすべり込んできたのは柏木のその一言であった。
「嘘なんて、そんなことは――」
「井吹さん」
弁解しようと声を上げる井吹を遮る柏木の声。そこで井吹は思い出す。彼の秘密を。
この青年には、分かってしまうんだ。事の真偽が。言葉に含まれた嘘が。
――――それでも、俺はこの子を名前で呼べない。そんなこと許してもらえない。いや、違うか。これもただの言い訳だ。
「いや。できないよ」
それでも井吹は頑なだった。名前を呼ぶことはできない、その一心で。
やがて、海岸に吹く風に乗って聞こえてきたのは、小さな小さな泣き声だった。
「やっぱり駄目だ。すまない柏木くん……悪いけど俺はこのまま帰るから、代わりに連れていってやってくれないか。あの人が待ってる」
「井吹さん。良いんですか」
「構わない」
井吹は無気色な声でそう言うと、踵を返した。
始めから手遅れだったのかもしれない。どうしたってあの子と自分は相容れない。高い高い壁がある。
このまま、母親の知り合いで、冷たい知り合いのお兄ちゃんでいよう。みすみお兄ちゃん、それでいいじゃないか。
「井吹さんそれも……いえ。わかりました」
背後で柏木のため息が聞こえる。
井吹は前を向いたまま振り返ることもせずに、元来た道へと足を進める。
「わかりました。俺が責任をもって好海ちゃんを……」
しかし、柏木の言葉は途切れてしまった。
「好海ちゃん?」
かと思うと、彼には珍しく感情をはらんだ声が。
「お……おとうさん」
その瞬間、井吹は雨水をたっぷりと含んだ砂達に足を絡み取られたかのような感覚に襲われた。いや凍りついたという表現の方が近いのかもしれない。
とにかくその声を聞いたことで、井吹の足は前へ進むことを忘れてしまったかのように動かなくなった。
「好海のこと、よんで? おとうさん」
何を言っているのだ。この子は。俺の聞き違いだろうか。
つい先程まで、みすみお兄ちゃんと呼んでいたではないか。沙代からの手紙にだって、知り合いのお兄ちゃんだと伝えてあると書いてあったはずだ。
それが何故。今この子は何と言った?
「ずっと……ずーっと、よんでほしかったの。おとうさんに、好海って」
「何で、それを……」
やっと絞り出した声は、自身でもおかしくなってしまうくらいにかすれて、震えて、揺らいでいた。
これまで好海が俺を呼んでいたのは? 「お兄ちゃん」と近寄り見つめてくる好海の瞳は? 知り合いのお兄ちゃんとあった沙代の文面は?
――――嘘、だったのか?
思考しながらも井吹は、振り返らないと決めていたはずの背後に目を向ける。恐る恐る怯えたような目で。
そこには、木の陰から完全に姿を現した、小さな女の子がいた。
女の子の頭上ではふわふわの白いウサギの耳が揺れている。その大きな耳の下では、それに負けず劣らず特徴的な大きな瞳が井吹を見つめていた。潤んだ瞳で見つめてくる、そんな姿はまさに小動物。
「いや。俺には……」
井吹は再び顔を好海から背けた。
俺には名前を呼ぶことなんてできない。そんなことする資格なんてないんだ。「好海」とその一言口に出すことが、俺にとってこの上なく後ろめたいことなんだ。
「ママがね」
「…………」
もう井吹にはその場に立っていることしかできなくなっていた。好海に背を向けた状態のまま、下を向いて、時が過ぎ去ってしまうのを待つかのように。
しかし、そうしていても時が思い通りになることなど決してない。時間は誰にでも平等に過ぎる。
「ママが、好海のおなまえはおとうさんがつけてくれたのよって言ってた」
「何で……何で、そんなことを知って……」
――――そう。好海という名前は俺が付けた。
『追伸、もう会えないと書きましたが、一度だけ会う機会を許されました。それはおなかの子が生まれる日。その日の数分間だけですが――――』
あの日、海に行こうと約束をしていた日に沙代から届いた手紙。
その手紙に書かれていた通り、数ヶ月後に小泉の家の使いである松下――手紙を届けに来た老紳士――が井吹古書店を訪れた。
俺は行ったのだ。沙代の元へ。
そしてそこで、頼まれた。沙代とその夫の二人に。生まれてきた子への最初の贈り物を。
「だから、ねえ。おとうさん。好海のこと……好海って……」
再び溢れ出てきた涙をぬぐいながら、尚も好海は井吹に、自らの父親へ向かって呼びかける。
分かっていたのか。始めから何もかも。
俺が父親であることも。自分の名前を付けたのが俺であることも。知りながらこれまで、それらを小さな胸に抱え込んで……。
ああ、似ているな。あの人にそっくりだ。
「……わかった。俺の負けだよ」
思い切り海の空気を吸い込んで、井吹はそう言った。
そして、好海の方に身体の向きを直す。
もう、意地を張るのはやめにしよう。
「おいで」
小さな好海の目線まで、屈みこんで高さを合わせて。
出来るだけ優しい声で。怖がらせないように、驚かさないように、そっと告げる。
昨日古書店で、白いウサギを、好海を見つけたその時のように。
ただ、今日は少し違っている。
もう井吹には、あの時のような美味しいドーナツなんて必要なかった。そんなもので呼びよせずとも、
「好海」
その一言で。
その魔法の言葉を耳にした瞬間、一度拭ったはずの涙は好海の目から止めどなくあふれ出す。と、同時に小さな足は、砂を蹴っていた。
桜の木の下には、安心の笑みを浮かべて背中を向け歩き出す柏木の姿があった。
やがて、井吹は駆け寄ってきた好海を両腕にすっぽりと受け止める。
小さいとはいえ全身を投げ出す形での体当たりに、好海のその重みに、少しよろけながら。
「好海。……ごめん。ごめんな、好海」
顔のすぐ横で首を横に振る好海の髪が、井吹の頬にあたる。
――――どれくらい力を込めても良いのだろうか。壊れてしまわないだろうか。それすらも分からない。
小さな好海を抱きしめたまま考え惑いながらも、その答えは出そうになかった。それほどに彼が目を背けていた時期は長い。
それでも、
「……お、おとうさん?」
それでも好海は、彼の元にやってきたのだ。
時々しゃくりあげながらの涙声。そんな娘に間近で呼ばれ、井吹はその存在を噛みしめるように、腕の力を少し強くした――こんな顔を見せられないという強がりも含まれてはいたが。
「ん?」
震えた情けない返事。喉に何かが詰まっているかのようで、そうして答えるのが井吹には精一杯であった。
「あのね。好海ね。まだおわかれしたくなかったの……おとうさんと」
ひっくひっくと言いながらも一生懸命に言葉をつむぐ好海。そんな突然の告白に、井吹は目を見張った。
「それでね。おとうさん言ったでしょう、海で。……雨がいっぱいふったらって。ママとのおやくそくだからって」
とぎれとぎれであまり要領を得ない好海の言葉。しかし、井吹の頭には浮かびあがる自身の発言があった。
『これから外に出られないくらい、君を送り届けられないくらいの土砂降りにでもならない限り……』
それは確か、海からの帰り道。雨が降ってくる前の。好海がもう少しもう少しと時間を引き延ばしたいかのようなことを言うものだから、出た言葉であった。
多分そのことであろう。
「うん」
「だから好海、おそらにおねがいしたんだよ。いっぱいいっぱい雨をふらしてーって」
やはりそうなのだ。好海はきっと、帰りたくないと駄々をこねた訳を話そうとしているのだ。
そう悟ったとたん、胸が、喉の奥が、顔が、いたる所が熱を持って井吹を襲う。次第に視界もゆらゆらと揺れ出し、油断したなら目から雫が流れ出してしまいそうだった。出来るだけ声が普段通りの平静さを持つように、それをぐっと堪える。
「……うん」
「そしたら、ほんとうに雨がふったの。すごい?」
「うん」
きっと偶然だろう。この時季、急な雨は珍しくはない。
それでも頷いて井吹は話の続きを促す。
しかし、そこで何につまずいたのか、好海の声は途切れてしまった。
「……好海?」
様子を窺うように、名前を呼んで問いかける。
すると、先程よりも一段低いトーンで。
「でも、雨がふっても……おやくそくだからって…………」
なるほど。と、ここで井吹は好海の話の意図を大方掴んだ。
「それで、ここに隠れてたのか?」
「うん。……じかんがこなければいいやっておもったの。おやくそくのじかんがすぎちゃえばって」
「そうか」
コクリと頷きを返してきたかと思うと、再び耳元で小さな泣き声がする。まったく、子どもというのは忙しい。
つまり、好海のこれまでの言動を簡単に整理するのならば、こうだ。
丸1日という条件のもと、父井吹を訪ねてきた好海。しかし、なかなか井吹と仲を深めることのできないまま、一日目は終了。そして二日目も終わりを迎えようとする。そんな中、好海は戸惑いながらも井吹に「母との約束の場所へ行かないですむ方法はないか」と問う。返ってきたのは「強い雨でも降って外に出られない状況になれば」という言葉。ならば雨が降ればいいと、好海は天に願った。
そして、その願いが通じたかのように街には強い雨が降り注いだ。しかし、である。雨が降ったにも関わらず井吹は沙代との約束を守るため、好海を時間になれば返しに行くという。そして、最終手段として好海の思いたったものが失踪、である。約束の17時さえ過ぎてしまえば、井吹とこのまま一緒にいられるとでも思ったのだろう。何とも子どもらしい、その場のみの考えである。仮に時間が過ぎてしまっても、18時、19時になれば……ということを考えもせずに。
しかし、何故――――という疑問が再び井吹の中に湧き上がる。
「でも、どうして海なんかに来たんだ? 隠れるなら他にもたくさんあっただろう?」
何故、雨が降りしきる中、好海は海に来たのか。残る疑問はそれだけだった。
好海はそれを耳にすると、一瞬戸惑ったように言葉を詰まらせる。言って良いものかどうか、はかりかねているのだろうか。待っていると、やがて「それは……」と小さな声がする。
「……ママに、こまったときは海にいきなさいって言われたの。海にいったらいいことがあるよって、ママが」
「…………」
今度は井吹が言葉を詰まらせる番だった。上手く声を出せそうにない。このまま何か話そうとすれば、それは言葉にならない気がする。
それでも井吹は一度大きく深呼吸をし、
「…………そう……か」
と、一言だけ絞り出した。
“海に行け”とは、彼女の、沙代の言いそうな事である。まるで、こうなることを見透かしていたかのような物言いではないか。いや、賢い彼女にはこうなることが分かっていたのかもしれない。
少しの間を置いて、腕の中の好海がもぞもぞと動き出す。井吹は急ぎ目に溜まったものを指で払い、腕の力を緩めた。
「おとうさん……もういっこ。きいてもいい?」
肩口から顔を上げた好海が、真っ直ぐに井吹の瞳を覗いてくる。井吹は頷きを返した。
そして、次に好海が言ったことは、またしても井吹を驚かすこととなる。
「……どうして、好海は好海っていうの?」
「えっ……聞いてないのか?」
「うん。おとうさんからじゃないと、きいちゃダメって、ママが」
好海が「好海」という名前である理由。それを沙代は名付けた井吹自身に聞け、と言ったのか。
勿論、彼女が好海の名前の由来を知らないわけがない。それなのにあえて彼女は好海に――――。
――――何だか、沙代には全部見通されていたみたいだ。まったく昔も今も大した人だ、あの人は。
返答のない井吹には好みが不思議そうに首をかしげる。
それを見て、井吹には小さな笑いが込み上げてきた。首を傾げて相手を見つめる好海の姿が、あまりにも母親の沙代と似ていたのだ。
「ごめんごめん。何でもないんだ」
そんな様子に更に疑問の色を浮かべた好海に、井吹は微笑んで答えた。
それから、いまだに好海の頬に伝う涙をそっと拭いとってやる。
「好海」
始めて好海と会ったその日。「三純くんがつけて」と言った沙代の優しい顔が蘇る。
「君の名前は……」
顔を合わせたその瞬間に、ふと浮かんだその名前。
「海に恵まれたこの街で、海を愛し海に愛される、広く美しい心を持った素敵な女性になるように。それが好海と名付けた由来だ」
俺と沙代は結局海へは行けなかったけれど。それでも俺も彼女もやっぱり海が好きなんだ。約束を果たせなかったからといって、好きでなくなることなんてできるわけがなかった。
これまでもこの先もずっと、街に恵みをもたらす美しいこの海を、この土地で生まれ育った全ての人は好きでいる。
「ふうん」
好海は分かったような顔で曖昧に反応した。
小さな子にはまだ分からないか。と、思わず井吹は苦笑する。
それでも良い。いつか分かる日は来るだろう。
「好海」
「なあに?」
目を見て呼んでやると、好海はくすぐったそうに身じろぎした。その顔からはもう涙の色は去りかけていた。
「俺も……おとうさんも、言いたいことが一つあるんだけど」
「ん?」
「それ」
井吹は好海の手元に向けて指さしをする。
その先にあるものは、
「これ?」
「そう、その貝殻」
好海と二人になった際、一番始めに見つけた貝殻。それがまだ、好海の手に握られていた。
「やっぱり、それ……」
「いやーっ!!」
「いや、まだ何も言ってな……」
「いいのーっ!!」
どんなに井吹が手を差し出しても、好海は頑なにその貝殻を抱きしめて離さない。
もっと綺麗な貝殻は、たくさんあるではないか。大きいものだって、小ぶりで可愛いものだってあるだろうに。
(……やっぱり、分からん)
「まあ、良いか」
本当は良くはないのだけれど。そこは好海の可愛さに免じて、潔く譲ってやろう。――と、早くも親ばかを発揮していることに彼が気が付くはずはなく。
「好海」
「ん?」
名前を呼べば、今までいやいや言っていたことも忘れてしまったかのように、嬉しそうに愛らしく目を輝かせる。
もっと早くこうしてやれば良かった。もっともっと。
できるのなら、雨に邪魔をされ立ち止まったあの日まで――――いや、そんなこと考えるべきではないか。過去に時間を巻き戻すことなんてできないのだ。
「一日遅れてしまったんだけど」
だから、今できることを精一杯に。
「好海、お誕生日おめでとう」
「……うん!」
「ごめん。プレゼント、用意してないんだ」
今度は後悔のないように。
「ううん。もうもらったからいいの」
「え?」
思わずきょとんとする井吹。そんな彼の目の前に、好海は両手に抱えたそれを突きだす。
「ねっ?」
純粋に笑う好海に、井吹は何の言葉も返せなかった。母子そろって、彼女たちは彼よりも遥かに上手だ。
返事の代わりに井吹はその小さな身体を抱き寄せた。そうしてやると、自然に好海も抱きついてくる。
そう。昨日、4月1日は好海の5歳の誕生日だったのだ。
「おとうさん」
すぐ近くで、自分をそう呼ぶ声がする。
「ん……何?」
「おとうさん。冷たあい」
ああそうか。さっきまで全身雨にぬれて……。
「ごめん」
謝りながらも、好海を離すことはしなかった。
そして思う。俺は、とことん雨とは相性が悪いのだ、と。
残すところあと一話になりました。
もう少しだけ、彼らにお付き合いください。