* 12
「止みませんね、雨。井吹さん達大丈夫だったでしょうか」
照明の暖かな明かりに抱かれ、“gift”店内は夜間営業の準備が整いつつあった。
シックな柄にとりかえられたテーブルクロス。その上には花の形に造形された蝋燭が置かれ、小さな春を演出している。一仕事終えた紬が仕上げに火をともせば軟らかな灯りが揺らめき、一層日中の様相と切り離されたものに変化する。カウンターに二人並ぶのは、柏木と御堂。彼らが今夜の料理当番であるらしい。何がお客の前に並ぶのかは、彼らのみが知っている。
そして外の薄暗さと店内のぬくもりの交差する窓辺。そこには、薄暗い外の様子をその大きな瞳でのぞき見る蛍の姿があった。
あまりにも突然訪れた悪天候。その事態に、表情を曇らせるのは蛍だけではない。蛍のぼそりと零した一言に、一同が窓の外に注目をした。
「大丈夫だろ。井吹さんだって大人なんだから、その辺はちゃんとしてるって」
「……そうですよね。きっと上手くやってるはずですよね」
と、言ってみるは良いが、さすがに紬も蛍も心配を直隠しにできるほど器用ではなかった。こんな会話は、単なる気休めである。
「だと良いけどな」
珍しく曖昧さを持った御堂の言葉。御堂のこの一言を最後に、店内は妙な静けさに包まれた。
勿論、この時の御堂の予言にも近い一言は的確であった。
突然、店内になだれ込んで来た雨の匂い。風の音。一つの容赦も優しさもない雨音。
店舗入り口の扉が、乱暴に開け放たれたのだ。そこに姿を現したのは言わずもがな、井吹三純である。
「井吹さん!? ちょっと、びしょびしょじゃ……」
「いないのか。ここにも」
「は……?」
蛍の声を遮って重く響いた井吹の声。暖かく彩られたはずの店内に、言いようのない冷気が流れた。
「待てよ、井吹さん。いないって、まさか……」
それは雨によるものなのか、何によるものなのか。当たりに漂う湿り気を振り払うように、一番に身を乗り出したのは紬だった。返答を待たずに上着を羽織り、井吹の横をすり抜ける。
しかし。
「待て、紬。お前が飛び出して行って、いったいどこを探せるって言うんだ」
外に出る寸前で、制止の声をかけたのは御堂であった。
「……ちっ」
反発し出て行こうとするかと思いきや、紬はそれに従った。舌打ちをしたところ見ると、それはもちろん彼の本意ではないのだろう。が、御堂の言うことは確実に紬の足を止めるに足るものであった。
床面との摩擦による高い音をたてて紬は止まり振り返る。
「井吹さん。いないって、好海ちゃんですか? 好海ちゃんがいなくなってしまったんですか?」
若干の震えを帯びた蛍の声が、自然井吹を責めていた。それを感じ取ったか否か定かではないが、井吹は一度だけ頷き「ああ」と小さく返答した。
「そんな……」
沈黙する店内。テーブル上の蝋燭の炎も、いつしか強風によって消えてしまっていた。
「井吹さん。一つお聞きします」
御堂の声に井吹は顔を上げた。髪にまとわりついた水滴が反動で肩に床に滴り落ちる。
「探し物は、それだけですか?」
「……え?」
思わぬ質問に、井吹は瞬間呆けた。その意図を理解できるのは、この場に何人いるだろう。
しかしそれを見て、御堂はこの緊急時という時にふわりといつもの笑みを浮かべた。
「いえ、失礼。何でもありません。お気になさらず」
そして、御堂は一呼吸置いて、すっと息を吸いこむと奥からホールへと移動した。その頃にはもう彼の顔から柔和な笑みは消え、真剣な面差しのみがのぞいていた。
「紬と蛍は、井吹さんにこれまで捜した場所を聞いて、もう一度その場所を隈なく捜せ。井吹さんはできるだけ彼ら二人を駆使して、捜すことを続けてください。それから柏木は、街の警備隊へ連絡。あまり大事にしたくはないが、やむを得ない。人出は多い方が良い、行ってくれ。僕はここで待つ。そうだな、子どもではそう遠くへは行けないはずだから……30分捜しても見つからない場合は、皆ここへもどってくること。その後の策はまた練ろう」
パン、と高い音をたてて御堂が手を打つ。外から這いこんできた湿り気も、井吹が持ち込んだ重苦しい雰囲気も、何もかもをも一瞬にして吹き飛ばすかのようなその拍手。
それ一つで、一同は一言も発することも無く行動を開始する。
まず紬と蛍が、置いて行かれたように立ち尽くしていた井吹を引っ張るようにして外へと飛び出して行った。そうして店に残ったのは柏木と御堂のみ。御堂の指示を受けた柏木も、素早く外出の準備を終えカウンター内から姿を現す。
そして、何も言わずに開け放たれた扉の外へ向け、傘を開く。そのまま無言を保って外へ繰り出す。しかしそこで、背後から声がかかる。
「これで良いんだろう。柏木」
「ああ。上出来だ」
振り返りもせずにそう答えた柏木。彼の腕には好海の白いうさぎのセーターがある。
「だろう? 緊迫感がにじみ出ていたと自分でも思うよ。しかし僕も嘘は苦手でね」
「ふっ。どの口がそれを言う」
店に一人残る御堂の顔には、先程とは打って変わって余裕の表情が浮かんでいた。カウンターの一席に腰を降ろし、出ていく柏木に向けひらひらと手まで振っている。
「いってらっしゃい。かしわぎお兄ちゃん」
「ああ。行ってくる」
柏木はいつもの感情の読めない平坦な声で、激しく打ち付ける雨の中に踏み出していった。
海をも飲み込んでしまうかのような暗い空。海面に砂面に降り下りるのは大粒の激しい雨。先刻まで頭上でほころんでいた桜の花弁は、見るも無残に砂浜に叩きつけられる。
そこは晴れていた日中に、“gift”一行が訪れシートを広げた桜の木の下であった。
雨垂れにより多くの花を落とした桜の木。その根元には、太い幹に寄りかかる形で屈みこみ、空を見上げる小さな少女の姿があった。
偶然にもその少女がいるただ一点だけは、雨が降りこんでいない。傍から見れば、その空間だけが桜の木から加護を受けているかのようにも映る。
「好海ちゃん」
雨の音に混じり聞こえてきた微かな低い声。それを聞きとった少女――好海は天を見ていた目をそちらに向けた。
黒色のこうもり傘で顔を確認することはできないが、好海にすらそれが誰なのかははっきりと分かった。
「かしわぎお兄ちゃん……」
「戻らないと、みんな心配している」
木の下までやってきた柏木は、傘をたたむと驚いて立ち上がった好海の正面に膝を折り目線を合わせた。
普段は見上げる柏木と真正面で向きあい、好海は左右に首を振る。同時に胸の前に大切そうに抱えられた貝殻に、彼女の髪から伝った僅かな雨粒が零れ落ちた。この場所にたどりつくまでに、雨の中傘もささずに歩いたのだ。頭に肩に、いたるところが濡れてしまっていても仕方がない。
「何で、戻りたくないの?」
柏木は出掛けに持ってきたタオルで好海を拭いてやりながら、視線だけは好海の瞳から離さずに問う。
「だって」
言ったきり好海はそのまま言葉を中空に探すように目を彷徨わせる。その間も柏木はせっせと好海を拭いてやり、ある程度のところで手を止めた。
二人向かい合ったままで、暫しその場を雨音だけが席巻する。やがて、好海はもじもじと体を揺らしながら力ない声を発した。
「だって、好海まだあそびたい」
雨の音に負けてしまいそうなくらい弱々しい好海の声。それとほぼ同時に、柏木は何も言わず休めていた手を動かし始めた。
小さな声が届いたのか否か。彼を目の前にした好海にすら分からなかった。ただされるがままにタオルに包まれるのみだ。やがて柏木はタオルを退けると、片腕に駆けておいたウサギのセーターを着せてやる。そして、
「嘘だね」
それだけ口から漏らした。
この一言に虚をつかれたように押し黙る好海。小さな胸の鼓動は外に漏れ聞こえてしまいそうなほど、数瞬間だけ高鳴った。
「うそじゃ……うそじゃないもん」
それでも好海は消え入りそうな声で、少しの抵抗をみせる。しかし、
「いや、嘘だ」
下を向いていた好海が顔を上げると、高さを合わせた柏木の目と視線がぶつかりあう。
初対面の人間に冷たい印象を与えてしまう損な色合いの目。しかしその榛色は、よく見れば実は物憂げで優しく潤みを帯びている。それをまだ直接言葉にして表現することがかなわない幼い好海であっても、本能的には読みとっている。この人は優しい――そう認識できるほどには、好海は人を視ることが十分にできる。
しかし。今回に限っては向かい合った柏木の目に違う色が混じっている。どこか好海を突き放すような冷たい目。その目は映る対象を見ながらも、どこか違う奥の深いところを覗くかのような不思議な色で相手を射すくめる。
好海は柏木の目と向かい合ったきり、視線を逸らすことも、口を開くことも、何もできずに静止した。
「好海ちゃんは、そんなわがままな子ではないだろう」
柏木は“嘘”を見破っている。
「もっと他にしたことがあってここに来た。違う?」
この人に嘘をつくことはできない。つかせてもらえない。
いつしか柏木の目は、いつもの優しいだけのものに戻り好海の姿をそこに映していた。
それでも身動きをしない好海の様子を、柏木は問いへの肯定として受け取る。真実を見破られながらも肯定も否定も表したくないのなら、人は大抵動作をやめる。嘘をつき通したくてもそれができない、心がそんな行き止まり状況にあれば、その状況は体までをも支配する。子どもならば尚更顕著だ。
「俺には言わなくても良いから。これからここへ来る人に思い切り伝えると良い」
仕上げにセーターのボタンを閉じてやり、柏木は立ちあがる。ゆっくりとした動作で、今度はこれまで向き合っていた好海の隣りへ体を寄せた。
それを合図としたかのように好海は緊張から解かれた。桜の幹に立ったまま背中をあずけた柏木を横目に見て、また自らも同じように桜に寄りかかる。
「……ママにね」
好海の少々震える声が雨の音に入り混じる。
「うん」
それを拾い上げるかのように、柏木は優しい調子で先を促した。
「ママに、ほんとうにこまった時は海にいきなさいって」
そう言われてきたの。
先の言葉を口にすることはできなかった。下を向いて泣き出しそうな好海の頭に、柏木の手がぽんと穏やかに置かれたのだ。フードのうさぎの耳が小さく揺れた。
「知ってる」
「え……?」
目を丸くして見上げた好海。それに対し、柏木は読めない表情で彼女を見返すだけだ。笑っているのか何を思っているのか、判断がつかない。
「かしわぎお兄ちゃん、知ってるの? 好海がやりたいこと」
「知らない」
「え……?」
知っていると言ったり、知らないと言ったり、いったい彼は何を言っているのか。好海は混乱するばかりである。
「じゃあ、なんで……なにを知ってるの? なにを知らないの? どうしてさっきわかっちゃったの、好海がうそ言ったこと。なんで、なんで……」
「なんで」「どうして」。それしか言葉が浮かばない。いまや好海にとって柏木は不思議の塊と化している。
「何で、か。それは言えない。ただ、俺には分かるんだ、嘘と本当が。それだけは特別に教えてあげる」
「なんで分かるの」
「さあ」
そう言ってふわりと少しだけ表情を緩めたように見えたのは、好海だけであろうか。言った瞬間、確かに目尻が優しく笑んだように感じられた。それと――
彼は嘘をついている。好海にはそれが分かってしまった。
嘘か真が見破れるくせに、当の本人が嘘を隠すのが非常に下手だなどとは噴飯ものだ。
「かしわぎお兄ちゃん、へんなの」
そう言う好海にも、いつしか笑顔が戻っていた。
それをみとめて柏木は桜から背を離す。そして風雨にさらされる頭上の桜を、一瞬だけちらりと見上げた。薄桃色の花弁がひらりと柏木の目の前を通過した。
「さて、そろそろだ。好海ちゃん、これが最後のチャンス」
「……?」
「井吹さんが……三純お兄ちゃんがもうすぐ来る」
言って柏木は桜と好海から少しだけ距離を置いた。
柏木の言葉を受け、好みはきょろきょろと辺りを見回す。が、しかしどこにも井吹の姿など見当たらない。
「なんで? かしわぎお兄ちゃんにはどうして分かるの?」
「さあ」
また、この人は嘘をつく。
背を向けた柏木に投げつけた好海の「なんで」は、答えが返ってくることもなくことごとく柏木によって霧消されてしまう。それでは、次の言葉をつむぐこともできないではないか。好海がどうにかして答えをもらおうと言い淀んでいると、
「そうだな。強いていうのなら、魔法」
そう言った柏木は振り返って好海を見る。
「かな」
好海の目に映った柏木は、今度こそ確実に誰が見ても分かるほどに微笑んでいた。
そして、遠くから聞こえる誰かの声。もちろんその声の主は知っている。先程柏木が到来を教えてくれた彼の声だ。
好海が見上げた柏木の肩越し、背後に広がる空の色は、いつしか明るく表情を変えていた。