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* 11

「三純くん。あの本、覚えてる? 和柄の綺麗な表紙の。あれね、学校ですごく役に立っているのよ」


 そう言って優しい笑顔を向けてくる沙代に、俺はマグカップを一つ差し出した。即席で作った決してうまいとはいえない淹れたてのコーヒーからふわりと湯気が舞う。


「ふうん。良かったじゃないか。君が初めてここにきた日、あの雨の日に買っていったものだろう」

「あ、覚えてた? 三純くんのことだからまた忘れてしまっているのかと思ったわ。『何カ月も前に売った本のことなんて覚えてられるか』って」

「ははは。とんだ薄情者だな、俺は」


 俺は沙代の正面に腰を落ち着けて、自分の分のコーヒーを少しばかり啜った。――やはりうまいとは言い難い。



――小泉沙代。それがあの日に井吹古書店を訪れた女性の名前だった。

 春になると、毎年やってくる不安定な気候。あの日もきっとそうであったのだろう。彼女が、沙代が本を選び取り会計を済ませるまでのほんの数分。その間に天は何が悲しいのか顔色を変えてしまっていた。

 あの頃は若かった、あるいは積極的だったとでもいうべきか、大層困った様子で空を見上げる沙代に俺は一つ提案をした。

 雨がおさまるまで店で雨宿りをして行かないか、と。下心がなかったかと問われれば、自信を持って答えることはできない。しかし、それはごく自然に俺の口から漏れ出たものであったことは確かである。

 そうして俺と沙代は、外から微かに聞こえる雨音を背景に、店でしばし2人きりとなった。常に1人でいる空間に2人。

 しかしそんな状況にあっても、不思議なもので少しも居心地の悪さを感じることはなかった。


 意外にも彼女は、清楚な見た目に反しておしゃべりな性質(たち)のようで、初対面の俺に対しても臆することなくいろいろと語り聞かせてくれた。

 聞くに、彼女は俺の予想を遥かに裏切り、街の学校に勤める教師であった――加えて驚くことに俺よりも2つ年上である。昨年からその職に就いているそうで、つまりまだまだ未熟な新米教師。と、彼女は笑いながら言っていた。そんな彼女が井吹古書店へやってきたのは、学校で教材として使用したい資料があったからだという。なんでも、その資料は少々古いものであるらしく、街の大きな中央図書館では蔵書になかったのだそうだ。それでも沙代は諦めきれなかった。そこで何軒か当たった後行きついたのが、井吹古書店であった。ということだ。まあ、古書店に来る理由なんて大抵がそんなものである。

 話をしている間に、雨は次第に勢いを弱めていった。やはりこの時期の気まぐれな天気であったのだろう。

 俺は沙代に傘を一本持たせ、帰っていく後ろ姿を見送った。彼女は遠慮して傘を持っていくことを拒んだのだが、いつ変わるか分からない天気ではまた降りだすかもしれない。そのまま返さずとも構わないからと、俺はそれを押し切った。男としてそれくらいは、という見栄もあったに違いない。



「ちょっと、聞いてる? 三純くん」

「ん?」


 鈴のなるようなその声で名前を呼ばれ、現実に引き戻された。手元のコーヒーから顔を上げれば、本の積み上げられた古書店のレジカウンターに身を乗り出す沙代の瞳に射すくめられる。俺がとぼけたように首をかしげると、沙代は椅子に身を戻し大きなため息をお見舞いしてきた。


「もう。やっぱり聞いていないじゃない」

「え……き、聞いてたさ」


 呆ける俺に、沙代は両の頬を膨らませ、わざと遺憾の意を当てつけてくる。

 まあ、その姿さえ可愛らしいと思えてしまう俺は、もう彼女に心を許しきってしまっていたのだろう。が、しかし当の彼女としては、俺の態度に納得がいかないことは間違いない。


「何を聞いてたって言うのよ」

「だから……」

「ほら、聞いてないわ。私はあなたの淹れたコーヒーがおいしくないって言ったの!」

「あー。うん、そう。その話。ごめんごめん、カップ貸して。淹れ直してくるから」


 立ち上がって俺は沙代に手を差し出す。

 しかし、彼女は不機嫌な顔を崩さないまま、両手で包んだマグカップを渡してこようとしなかった。そんな態度に俺が更に戸惑っていると、今度は上目づかいでこちらを見上げてくる。


「な、何だよ」

「言ってない」

「は……?」

「そんなこと言ってないの。だって私、まだ何も話していないのよ。もう、三純くんっていつもそうね。ちょっと気を抜くと自分の世界」

「うう……申し訳ない」


 まんまと弄ばれた、そんな感じであった。

 俺はそろそろと椅子に座りなおしす。そして、すまなさついでに誤魔化すように不味いコーヒーを口に流し入れた。


「いいの。そういうところも好きだから」

「……っぐふ!!」


 危うく売り物の本を黒く染めてしまうところであった。俺は寸でのところで口の端から噴き出てしまいそうになるコーヒーをおさえ、無理矢理に喉の奥へと押し込んだ。


「え、やだ。大丈夫?」


 沙代は椅子を蹴るようにして立ち上がり、俺の背中を擦る。一息ついて俺が手で制すと、沙代は椅子に戻った。そんなに心配そうな顔をするくらいならば、不意を突くような言葉を投げつけてこないでほしい。それをやすやすと投げ返す、あるいは受け止められる度量など備わっていないことなど分かっているだろうに。いや、わざとか? というか、席を立ったり座ったりなんとも落ち着かず忙しい2人である。


 毎度毎度こんな所で2人でいることに、彼女は不満を感じないのだろうか。そんなやりとりをしながら、俺はいつも考える。

 デート――と言ってしまうのは少々気恥かしいが――はたいていこの古ぼけた古書店。カウンターを挟んでお茶をしながら、話をしたり本を読んだり。一度、店を休みにして出掛けることを提案したこともあった。しかし、真面目な彼女はそれを拒んだのだ。とはいえ、彼女は平日は仕事。井吹古書店は世間が休日である日は営業をし、定休日といえば平日である。それではどこに行きようもない。そんなことで、本当に彼女は良いのだろうか。


 こうなるきっかけは、あの日持たせた傘であった。否、あの悪天候といってもいい。俺たちはあの雨によって結びつけられたのだ。

 返さなくても良いと言った傘を、彼女は律儀にも数日後返しに来た。すぐに帰してしまうのではこちらの気が引ける。俺はとりあえず、彼女を中に通しお茶を出した。そして彼女が席を立ち、店の引き戸を開けると――。

 そう。また雨である。結局彼女は返しに来た傘を再び持っていかざるを得なくなってしまった。雨女というのは本当にいるのかもしれない、などと笑い合ったものだ。そして数日後、またしても彼女は返しに来た。

 さすがにその時は雨に降られることはなかった。が、彼女はその後も店に来るようになった。深くは聞かなかったのだが、なんでも彼女は普段声をたてて笑ったり愚痴をこぼしたりということができない環境にあるらしい。そんな彼女にとってこの密閉された異次元のような空間、それに俺のような話相手がある井吹古書店は最適の場であったそうだ。それは古書店の在り方として疑問に思うところが無いでもないが。

 それになにより、何故か彼女はこの店をいたく気にいってしまったらしい。それはまあ、喜ばしいことではあった。

 日に日に合う回数も増えていき、自然と俺達の仲は深まっていった。と、いうわけである。


「そういえば、私達が出会ったあの雨の日からそろそろ半年経つのね」

「ああ、そうだね。もうそんなにたつのか」


 言われて卓上に目を向ければ、色あせかけた日めくりカレンダーの日付は「9月25日」。10月はもう目の前であった。外では、乾いた風にさらされ、秋色に染まった落ち葉たちが舞っている。確か彼女がこの店を訪れたのは3月の終わり頃だった。俺は記憶をしていないが、彼女のことだから日付まで覚えているに違いない。


「あら。三純くんは「もう」って思っているのね。私は「まだ」半年って思っていたのだけど。男女で時間の感じ方に違いがあるのかしら。でも、「まだ」って思う方が素敵だと思わない?」

「まあ……言われてみればそうかもしれないな。「まだ」には、先の未来もっていう希望が混じっているようにも思える。まあ、感覚の話なんだろうけれど」

「そうね。先の未来も……。現に私もそう思ってる」

「また君は。さらっとそういうことを言う……」


 沙代を直視できずに俺が目のやり場に困っていると、沙代のくすくすという可愛らしい笑い声が耳を刺激した。一生俺はこの人にこんなふうに笑われ続けるのかもしれない。


(はは。一生、か。なんだよ、俺もまんざらでもないじゃないか)


 照れからなのか嬉しさからなのか、得体の知れない何かが俺の体温を一度上げたように感じた。


 願わくば、ずっとこのまま。


「沙代」

「ん? なあに。三純くん」


 ずっとこのまま。


「少しわがままを言ってもいいかな」


 あのままでいられたら良かった。




 冷たさの入り混じり始めた風が吹き抜ける港街。10月に入りその街並みはすっかり色付いた。

 そして今日は日曜休日。浮かれて外を走り回るいまだ半袖のままの元気な子供たちの歓声と斜向かいの八百屋のおばさんの威勢の良い掛け声。しきりに焼き芋の季節を謳っているいるのは、昨日新鮮なさつま芋を入荷したからだということを俺は知っている。


「よし。そろそろか」


 古書店の最奥、レジカウンター兼テーブルから立ち上がり、俺は一つ伸びをした。

 現在時刻は9時少し前。通常ならば、もう店は開けている時間だ。しかし今日は、戸口にカーテンが引かれている。表には『臨時休業』の札をかけてきた。

 沙代は先日の俺のわがままを聞きいれてくれた。まあ、俺のわがままというのも些細なもので、沙代の休日に合わせ古書店を臨時休業にして2人で外に出かける。と、ざっとこんな内容である。些細ではあるが「本来開けるはずの店を閉めてまで……」と沙代は始め若干の渋りを見せた。しかし“半年記念に”という俺の付けたしも効いたのか、最後には快諾してくれたのだ。

 さて、問題はどこへ行くのかということになるのだが、そこはすぐに決まった。

 沙代が海に行きたいと言ったのだ。

 海ならいつでも見えるではないか、という俺の言葉に、しかし彼女は首を振って一枚の紙を取り出した。それは「秋まつり」の知らせであった。3年に一度、海の恵みに感謝と祈りを捧げるという小さな祭りであり、丁度今年はその年に当たるのだそうだ。少々近場過ぎる感が否めないが、そこは沙代の希望をかなえてやることにした。


 待ち合わせは海岸にある一番大きな桜の木に午前9時。

 現地集合、である。迎えに行こうかとも言ったのだが、遠回りになるからわざわざ必要ないときっぱり断られてしまった。


 古書店、自宅共に戸締りは済ませた。あとは時間に遅れることなく海に辿り着くだけだ。古書店から海までは徒歩数分。大丈夫だ、きちんと間に合う。俺は店の電気を消し、住居部分へと下がろうと通用口へと足を向ける。

 と、そこで。

 俺は足を止め、店の戸口を振り返った。今、確かにガンガンという少々耳障りな音が聞こえなかったか。あれは多分、あの古い引き戸を叩く音だ。札を下げているにも関わらず、客でも来たのだろうか。しかし、今日は生憎大口の客であろうと店を開ける気はない。俺はその音を聞かなかったことにし、戸口に背を向ける。応答が無ければ諦めて帰っていくだろう。

 しかし。


「しつこい」


 音は止むどころか、回数・音量共に増していった。何か急用だろうか。そこでふと、俺は何か良い知れぬ不安を覚えた。

 音と突然訪れた不安に、俺は文句を口にしながらも、古書店戸口へと戻った。


「どなたですか。今から出掛けてしまうので手短に――」


 カーテンを開け鍵を解き、音をたてることなく引き戸を細く開けて外をうかがった。この引き戸を開けるには少々コツがいるのだ。

 などと(のたま)っている暇など俺にはないのだが。


「……どなたでしょうか」


 外から覗くその顔に、正直言ってまったく記憶はなかった。常連客の顔ならば覚えているし、近所の住人ならば尚更だ。

 記憶にないその顔の持ち主は、ハットの下の白髪にそれと同じく見事に白く染まった口髭をはやした初老の男性。細身の体を包み込む洋装は足の先まできちりと整えられている。一口に言えば紳士なのだろうが、しかしその目からは冷たいものしか感じ取ることしかできなかった。

 その初老の紳士は、ゆっくりとしかし気品のある動作でハットを脱ぎその白髪を露わにした。


「井吹三純様ですね。(わたくし)、小泉の家の者でございます」


 小泉。その名前を聞いて、一瞬俺の思考は停止した。

 小泉は――。


「小泉って、沙代……さんの」

「さようにございます」

「……あの。何故、小泉さんのお家の方がこんな所に」

「率直に申し上げますが、本日沙代様はこちらにお越しになりません。お嬢様は、先日ご気分を害されて――――」


 そこから先は何を耳にしたのか、ほとんど覚えていない。





【井吹三純様】

 突然のお手紙ごめんなさい。これを読まれているということは、使いの松下があなたの元を訪れた、ということでしょう。

 急なことなのですが、私は今日そちらへ行くことができません。

 まさかこんな日に。本当に突然すぎますよね。本当に本当にごめんなさい。謝ることしかできなくて、ごめんなさい。

 

 今日こんな形で手紙を差し上げることになったのは、一つご報告したいことがあるからです。

 近々ある方と結婚する運びとなりました。お相手は以前から家で取りきめられていた男性。とても優しくて良い方です。

 だから私、これからずっとそちらに伺うことはできません。

 もうお会いすることができないのは寂しくはあるけれど、井吹さんとお友達になれたこと、沢山の本に囲まれてお話した思い出はこの先ずっと大切にします。だから、私のことはひと時の思い出に変えてしまってください。

 そうしていただけたなら、私に心残りは一つもありません。



 なんて。私がそんなに潔いと思いますか。そんな訳ないですよね。

 本当のことを言ってしまってもいいですか。

 実は先日、仕事中に体調を崩して倒れてしまい、今もまだ病院のベッドでこのお手紙を書いています。心配は無用です。ただの貧血ですから、少し周りが大げさなだけです。と、言いたいところなのですが、他にもう一点。

 病院に運ばれ調査を受けた際、私のお腹の中に命が宿っていることが判明しました。多分。いいえ、確信を持ってあなたとの子だと。

 驚いたでしょう? その顔見ずとも目に浮かびます。

 あなたは、三純くんはどう思うかは分からないけれど、私はこれを後悔してなどいません。ましてや、過ちなどとは思っていません。

 けれど三純くんの知るように、私の家は少し特殊で厳格です。私が教師として働くことですら、説得するのにどれだけ時間を費やしたことか。勿論これを知った父を収めるには方法なんて僅かもない。言われることなんてただ一つ。子どもをおろせ、です。でも私にはそんなこと絶対にできない。したくない。

 そこで、私、取引することにしたの。

 以前からずっと逃げ続けてきた許婚(いいなずけ)との結婚。それと引き換えにこの命だけは守らせて、って。それ以外何でも言うことを聞くからって。

 始めはそれすら聞いてもらえなかった。でも父の性格を私は良く知っているから。

 娘の体を傷つけるなんて、避けたいのが親ってものでしょう。それに、今許婚と結婚してしまえば家のためにもなる。何より子どもができてしまったという身内の不貞など、結婚という大事の後ろに隠してしまえば、多少の口止めと誤魔化しさえあればどうにでもなってしまう。血を継ぐ子を待たずして得られるのは、決して損なことではないものね。結局両親は、今後一切あなたと関わりを持たない、という約束を一つ足して取引に応じてくれたの。

 許婚の彼も渋々ではあったのだけど、説得に首を縦に振ってくれたわ。子どもの頃から彼が私に好意を持っていることは知っていたから。私ってずるいでしょう。本当、我ながらそう思う。

 でも、そんなこと構わないくらいに、私はお腹の子が、三純くんとの子が大事だから。だから、許して。

 勝手に決めてしまったことも、こうしてあなたの元から去る私も、もう会えないことも、すべて。


 さて。本音はここまで。

 

 ということで、あなたとはもう会うことを許されない身となってしまいました。一方的で、自分勝手な私をどうかお許しください。

 どうか、お元気で。さようなら。

 

【小泉改め、一之瀬沙代】

 (追伸、もう会えないと書きましたが、一度だけ会う機会を許されました。それはおなかの子が生まれる日。その日の数分間だけですが、父と母、それから夫となる彼の最大の譲歩なのでしょう。その時は、松下が伺うと思いますので、来るも来ないもあなた次第。判断はお任せします)



 異様な静けさが一人になった俺を包み込む。

 ここは、本当に俺の店なのだろうか。古書たちはこんなにも冷気をはらんだ視線を放って、俺を見ていただろうか。

 いや、そんなことはどうだっていいんだ。今考えるべきは――――。


 はらはらと舞い落ちる幾枚かの白色の便箋。それらがいつ床に降り立ったのか、俺は知らない。

 薄っぺらな紙が空を舞うその刹那の間に、俺の足は動き出していた。

 不思議なことにこの時の俺の頭の中には、何も存在しなかった。何も考えなど浮かんでいなかったのだ。だから、何故この時俺の足が動いたのかなど自分でも説明できない。それはまるで何か見えない者に突き動かされたかのような不思議な感覚。ただ俺は、俺の足だけは、外へ、沙代の元へ向かうことを望んだのだ。


 彼女の元へ、ただその一心。何も聞こえなかった。何も見えなかった。何も考えられなかったのだ。 

 叩きつけるように開けはなった引き戸は、いつになく乱暴な音をたてた――そのはずだ。そんな音など耳に入ってはいなかった。よってこれは後付けだ。

 

 しかし。


「――――っ!?」


 店から飛び出した瞬間。俺の思考は一気にめぐり始めた。同時に沙代を求める足も、衝動も、何もかもが急停止した。


 こんな俺に何ができるのだというのか。行ってどうする。行って、沙代をどうするのだ。

 彼女の行動、苦悩、手紙から伝わった強い意志。それに比べ、何も知らずにいた自分にできることなど高が知れている。否、できることなど何もありはしない。

 彼女を思えば思うほど、俺は無力であることを知る。為すすべもない。ならばいっそのこと、沙代と子どもが幸せになれる道を選んでやるべきではないのか。彼女の選択した道を。

 だってそうだろう。彼女は良家のお嬢様。俺はしがないぼろ古書店の若造で。本当は知っていたんだ。彼女が店の臨時休業を嫌う理由、外へ出たがらない理由など。要は人目を気にしていたのだろう。誰かに見られるようなことを彼女は恐れていたのだ。きっとこうなってしまうだろうことを予想して。


 けれど、魔法はもう解けてしまった。もう彼女には会えないのだ。

 

 もう、会わない。


 そう決断しろ、駆けだそうとする足を止めろ、と誰かが何かが俺に告げている。その正体を俺はとうに知っている。

 

 ほら。出会ったころからそうだっただろう。沙代。

 いつだって。いつだって、そう。


 ――――いつだって二人の間には、気まぐれな雨が降る。




 気まぐれな雨に邪魔されて、あの時の俺はそこから動き出すことができなかった。一歩だって前に進むことなどできずに、ずぶ濡れのまま佇んでいた。

 今思えば、何もかも気にせず沙代を迎えに行くべきだったのかもしれない。そうすれば、何かしら未来は変わっていたはずだ。沙代と好海と3人で小さな幸せを築く未来もあったかもしれない。

 しかし、あの瞬間もその瞬間も、過ぎ去ってしまえばもう二度とやってこない。

 

『時間は無限ではありませんよ』


 何故か、そう言った柏木の低音が頭の中で反芻された。






「……ぶきさん。ねえ、井吹さんってば!!」

「ん……天宮?」

 

 耳元でした声に、俺は目を覚ました。気が付けば、こたつに入ったまま本に突っ伏していた。いつの間に寝てしまったのだろうか。

 たしか、雨が止むまでと好海と二人で……。


「もう、何やってるんですか井吹さん。こんな所で1人で居眠りなんてして、風邪をひいちゃいますよ。おまけにお店の戸も半分開けたままだったし。いくら男の人でも不用心です」

「ああ。悪い。そうだな。まあ、うちの店に入るような泥棒もいないだろうが、用心に越したことは……ない。……ん?」

「うん? 井吹さん、どうかしました? もしかして寝ぼけてるの?」

「……おい、今なんて言った」


 何だろう。天宮の言葉の中に何か違和感が。


「え? 不用心ですよって、1人じゃ」


 首をひねる目の前の少女を見つめ返す。

 1人? 2人の間違いだろう。好海もいるはずだ。それとも子どもは数に含めていないということか。

 俺はいまだ眠気の抜けきらない眼を擦りながら、自らの傍らを見る。


「…………え」


 そこにはまだすやすやと静かな寝息をたてる小さな女の子が――――


「それはそうと、井吹さん。私今日、何しに来たんだと思います? ふふふ。実は、ドロップドーナツを――」

「天宮」

「はい?」


 もはや天宮の言うことは耳に入っていなかった。悪いとは思うが、今はそれどころではないのだ。それでも名前を呼べば素直に返事をする天宮に、俺は詰め寄る。


「小さな女の子を見なかったか」

「な、何を言っているんです? この家にはあなた1人……」

「そういうことではなくて。ここにいただろう? 小さな女の子が……好海が!」

「え、でも私がここに来た時、井吹さんは1人でここで眠っていましたよ。いったい何を言って……このみ? …………あっ! ちょっと!?」


 きっと家の中のどこかにいるのだろう。

 手洗いに、庭に、台所に……そうでなければ、店側に。


「……いない」


 古くなって軋む家屋の中を、くまなく探し回った。しかし、好海の姿はどこにもない。最後に見て回った店の中、本棚に囲まれて立ちつくす。

 どこを探しても見つからない。ならば、あの子はどこに……?


『おまけにお店の戸も半分開けたままだったし』


 そこでふと、直前の天宮の声が(よみがえ)った。それとともに記憶も(さかのぼ)る。

 帰宅した時、俺はあの重たく騒々しい引き戸を確実に閉めた。その事実に間違いはない。俺が店内に湿気が侵入するのを避けないはずはない。おんぼろとはいえ、扉一枚あるのとないのとではかなりの違いがある。では何故、天宮が来た時に戸が開いていた?

 予想されることはただ一つ。好海は……だが、しかし。


 俺は生まれ来る予想を否定しながらも、引き戸に手をかけた。何故だろう。いつもの戸が、いつもの戸なのに、何倍も厚みを増している気がして、重い。

 その向こう側を知っているからだろうか。ああ、そうだ。今この戸を開けたなら、そこには良く知った景色がある。

 そして、井吹古書店の戸はガラガラと、耳障りな音をたて開かれる。


 ――――外は雨だ。


 ()()日君と引き合わせてくれた雨は、()()日から俺の行く手をいつも阻む。そう、気まぐれな雨はどうしても俺の邪魔をするんだ。

 古書店の入り口で立ち尽くし、俺はこぶしを固く握りしめ天を睨み見る。


「だから何なんですか? 寝ぼけるのもいい加減にしてもらわないと……」


 遅れて奥から顔を出した天宮。それを俺は不意に振り返って……俺は今、どんな顔をしているのだろう。



『時間は無限ではありませんよ』という柏木の声が耳から離れない。

『みすみお兄ちゃん、もね……いっしょにあそぼ?』もじもじとこちらに差し伸べられる、好海の小さな手。


『私はお腹の子が、三純くんとの子が大事だから。だから、許して』

 ――沙代。俺は、ここから踏み出すべきなのだろうか。もう、選んでもいいのだろうか。



「井吹さん?」


 目の前には、いつからかこの店に来るようになり顔を見せればああだこうだと口うるさい女の子。けれどいつしかそれは俺の安らぎになっていた。混じりけのないその笑顔に、俺は知らないうちに救われていたのだ。

 その子にまで、こんなに心配そうな顔をさせて。

 俺はなんて馬鹿なんだ。今も、昔も。


「頼子っ! 悪い、留守番頼む!!」

「えっ!? ちょっと、井吹さん!?」


 気が付けば俺は、雨の降りしきる街中へ駆けだしていた。

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