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「ほら、早く入って!」


 ガタガタと古めかしい音を立てながら開いた井吹古書店の引き戸。家主も客も誰ひとりの存在も無く、しんと静まり返った店内に、冷やかな外気と騒々しいほどの濁音が侵入し染み渡った。そこへ姿を現したのは、水浴びでもしてきたかのように髪から水を滴らせる二つの影。井吹三純と一之瀬好海の二人であった。

 井吹は遅れて走りこんできた好海が店内に入ったことを確認すると、人一人分開けた隙間に体をすべり込ませ、無理矢理に戸を閉めた。高い音を立てて閉まった一枚の薄い戸によって、外と遮断された店内に、再び静寂が戻る。


「なんだってこんな急に……」


 井吹は恨みのこもった目で、戸にはめ込まれたくすんだガラス越しに、天上を見上げた。

 どんよりと(にび)色に染められた天空。そこから(したた)り落ちる、否、(こぼ)れ落ちるのは大粒の雨粒だ。

 海岸線を歩きながらの帰り道。それまでは陽の光を邪魔するものなど存在しえないほどの晴天であった。にもかかわらず、突然現れた灰色の(かたまり)。そして、予測する間もなくやってきた土砂降り。この季節には珍しくもないことではあるが、まさしくそれは春の嵐である。

 時節の洗礼ともいうべき事態に、二人は為すすべもなくこうして『gift』へ寄る予定を変更し、桜海岸から最も近距離の井吹古書店へ駆け込むこととなった。


「くしゅっ」

「あ、そうか。タオルを」


 外の様子に目を奪われていた井吹であったが、足元から聞こえてきた小さなくしゃみによって、次の行動へと移行した。

 その場から動かないでいるよう好海に言い聞かせ、自分は書物に雫を落とさぬよう細心の注意を払いつつ立ち並ぶ本棚の間を擦りぬけ奥へ。店の奥から繋がる住居部分へと向かい、タオルを2枚引っ張り出してすぐさま駆け戻る。


「ほれ。早く拭かないと風邪ひくから」

「……ん」


 大判のバスタオルを好海の頭にかぶせて渡し、彼自身も水滴を素早くタオルにしみ込ませた。

 しかし、頭を拭きながらふと目下に視線をやると、


「ん? んん……?」


 井吹のすぐ横では、体をすっぽりと覆ってしまうほどのタオルに悪戦苦闘しもがく姿があった。

 それを目にし一瞬迷いつつも、井吹は自分の作業も半ばに好海に合わせてその場に屈みこんだ。面倒臭そうにわざとらしく表情をゆがめたのは、彼のせめてもの――気休めの抵抗であった。





「まったく。いつになったらやむんだよ」


 井吹は一言こぼし、溜息をついた。

 好海をタオルで拭いてやり、住居内の居間まで移動して着替えを済ませ、その後待つこと数十分。どうせすぐに持ち直すだろうと踏んでいた天候は、井吹の意向を無視して一向に好転する気配を見せない。

 約束の時間までまだ少々の余裕はあるが、早く降りやまないものか。様子を見て『gift』へ荷物を取りに寄り、早いところ図書館へ好海を送り届けてしまいたい。

 思いを込めながら見上げた窓の外では、彼のことなど寸分構うことなく、雨が、風が吹き(すさ)ぶ。そして目の前に吊るされた濡れそぼった小さな服。井吹は気だるい色を瞳に湛え、いまだ出したままにされていたこたつ――この寒さを和らげるには丁度良かったが――の布団を腹の辺りまでたくし上げた。


「もう少し、待ってみるか」


 自分に言い聞かせるように呟いて、井吹は読みかけの本を傍らから取り出した。

 さて、続きを読もうと、しおり紐を頼りに紙をめくり出したところに――


「みすみお兄ちゃん」


 そんな呼び声と共に、向かってくる軽い足音。濡れてしまった服の変わりに、間に合わせに出した井吹のシャツを上手いことワンピースのように着こなした好海が、何かを手にし駆けよって来たのだった。

 しおり紐を手繰る手を止めた井吹は、目線だけでそれに反応する。


「あのね。ご本よんでほしいの。はい、これ」

「……」

「お店で見つけたの! うさぎさんのご本なの。よんでよんで」

「……何で?」


 好海によって差し出されたのは一冊の絵本。先刻、暇そうに部屋の中をうろうろと動き回っていた好海に、店の中の本を一冊だけ持ってくることを井吹が許したのだ。

 許したのだ、が。その本を読んでやるなどとは一言も言っていない。冷やかな表情で少女を横目に、井吹は手元の本を読もうと動き出す。

 それを見て好海も諦めるかと思いきや、


「お兄ちゃん。よんでよぅ」


 井吹の服の肩口を掴んでゆすり、彼女自身も体をふらふらと揺らした。


「読まない。自分で読みなさい」


 好海の見せた小さな抵抗に、それでも井吹は揺るがなかった。揺らぐどころか、冷静にただただ淡々と言い聞かせるようにその言葉を口にした。そしてそれ以降、横にいる好海に井吹は口を開くこともなければ、目をくれることもなかった。


「むう……」


 本を開いた井吹の右側で、好海の呻き声が聞こえる。


(そんなことを言われても……)


 実はこの時点で彼の目は、活字を追ってはいなかった。本を読めと言われても、どうしたものか分からない。声に出して読めばいいのだろうが、それは彼に若干の気恥かしさを感じさせた。


 本当はこんな時、父親であれば読んでやるのが普通なのだろう。いや、父親でなくともそうしてやるのが良いに決まっている。たとえ断るのだとしても、もっと軟らかいやり方があるのだ、きっと。けれど、俺は――。俺は子供が――。


 本に目を落とその文字列を読み解くこともしないまま、井吹は平静を装い好海が諦めるのを待った。

 すると。

 温まった足元に、冷めた空気が突然ふわりとすべり込んできた。こたつの布団が(ひるがえ)されたのだ。

 そして遅れてやって来たのは、右側の存在感。


「…………」


 そっとそちらに目を向ければ、井吹のすぐ横に寄り添って好海がちょこんと座っていた。席は他に3つあるというのに、わざわざ井吹の横のわずかな隙間に入り込んできたのだ。四角いこたつの一辺のみが二人並んでの満員状態となり、残りの箇所は空席状態。何だか、妙な光景である。


「……狭いんだが」

「いいのー!」


 何故かこの場に至って、好海は井吹に対し強情な態度を示すのだった。



 それから訪れる暫しの沈黙。

 室内には外から僅かに入り込んでくる雨音と好海がページを捲る紙の音だけが連続的に流れていた。


 二人近距離で過ごす一時。

 

「ん?」


 しかしそんな時の中、井吹はふと気が付き読んでもいない本から顔を上げた。そのまま好海へと目をやってみる。

 するとそこには絵本を開いたまま、うつむく好海。一見絵本に見入っているようにもみえるが、良く見てみればそうではない。こくりこくりと一定のタイミングで揺れ動く小さな体。時折びくりと跳ねるようにして気が付いたかと思うと、絵本に意識を戻す。そして、再びうつらうつらと夢の世界へ――。 


「これこれ。こたつで寝ると風邪を引くだろう」

「んん……」


 井吹が声をかけると、好海は眠たそうに目をこすりながら軽く身じろぎをした。


「ほら。もうすぐ雨もやむだろうし、そうなると今寝てしまっては後でつらいだろう?」

「うーん。……んん、雨、やんじゃうのお?」

「いい加減やんでもらわないとこまるだろう。まあ、やまなくても約束の時間には間に合うようにして出ないとならないが」

「えー。やーだー」


 言いながらぐずぐずとしている好海に、井吹は「はいはい」と感情のこもらない返答をし本に目を戻す。

 が、それからしばらくして、また睡魔に襲われ始めた様子の好海。しかし井吹はそれに対し、今度は無理に起こそうとはせず、好海を視界の隅に置きつつも、印刷された文字を視覚から吸収していくことに意識を預けた。


(まあ、いいか。海ではしゃいだし雨には降られるし、疲れているんだろう。出る時になって起こすのでも遅くはないはずだ)


 そうして内容の入ってこない文字列を追っていると、井吹の半身が僅かな重みを感じた。見れば完全に眠りに落ちてしまった好海が、彼に(もた)れかかり静かに寝息を立てていた。






 ――――沙代と出会ったのも、たしかこんな風に天候に恵まれない、春のある日のことだった。

 約6年前の当時、二十歳を少しばかり過ぎた俺はすでに井吹古書店の店主として店に立っていた。

 早くに両親を亡くし、俺を引き取り育ててくれた古書店の創業者である祖父母も数年前にこの世を旅立った。自然唯一の血縁者である俺が、まだ十代半ばを過ぎた頃に店を受け継いだのだ。とはいえ、小さな店舗であるにしても、店を一人で切り盛りするには俺は若すぎた。ぼうっと本を片手に客を待つ今の姿を見ている者からしてみれば嘘みたいな話だろうが、毎日が嵐のように過ぎ去っていた当時が昨日のことのように思い出される。頼る者もおらず、右も左も分からずに怒涛のように過ぎゆく忙しい毎日。それでも俺はそんな毎日を捨てることはできなかった。それを捨てられないくらいには、俺は本をこの店を愛してしまっていたのだ。

 本当は生前の祖父も祖母も店など気にせずとも良いと口癖のように言っていた。しかし、どんなに小さく古臭い店であろうとも、それに囲まれて育ってきた俺には、もう両親祖父母との思い出の他、『井吹古書店』以外に大切なものは何も無かった。

 店を継いでから数年後、やっと仕事も板に付き余裕が出てきたのが6年前。

 そんなある晴れた春の日の午後。来店したのは一人の女性であった。

 雰囲気から察するに、まだ学生だろうか。彼女の身にまとう白く清楚なワンピースが、艶やかに色めく赤い髪を際立たせていた。しかし、その美しい髪には不思議ときつい印象は無く、気品すら感じられた。こんな埃っぽいところに珍しい。俺の目に彼女はかなり印象深く映って見えた。

 その人は店内の本棚を一通り回った後、奥のカウンターに控える俺の元にやってきた。「いらっしゃい」と一言言って、差し出された本を受け取る俺。代金を頂き引き換えに品物を渡せば、彼女との一瞬の関係はそこで終了する。

 俺は至って事務的にそれを済まし、「どうも」と無愛想に一言。しかし、彼女からはその2倍、3倍と言っても良いほどの反応が返ってきた。素朴にして可憐な花を思わせる穏やかな笑顔と「ありがとうございます」という甘く耳をくすぐる涼やかな声。それを目の当たりにしたその瞬間、見惚(みと)れてしまったとでも言えば良いのだろうか。俺には時間が止まってしまったかのように思えた。

 俺が静止した一瞬の後で、ひらりと優雅に身を翻し店を後にする彼女。

 ご存じの通り立てつけの悪い引き戸をなんとか開けて、彼女は店を出る―――――しかし。


「きゃっ」


 入口の方から聞こえて来たのは、小さな悲鳴だった。俺は何事かと驚いて席を立つ。しかし、立っても奥にいる俺の位置からでは、本棚や積み重ねられた書籍に阻まれ入口の様子を見ることは叶わなかった。俺は仕方が無く彼女の元まで足を向けた。

 そして目に映ったのは、


「どうしましょう。雨が……」


 困ったように眉を寄せ、淡くほほ笑む女性の姿。それから彼女の指差す先、店の外に目を向ける。

 先程まで眩しいほどに晴れ、爽やかな風が舞っていたはずの春の街並みは、勢いよく地面を打ちつける風雨にさらされその姿を真逆に変えていた。

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