* 09
してやられた、という思いが渦巻く中、井吹は砂浜に打ち上げられた流木に腰を下ろし溜息をついた。
暖かな陽にきらめく水面。春の到来を運んでくる柔らかな風。それに舞う花びら達。何もかもが美しく、目に鮮やか。
本来ならばそれを目の前に感嘆の声が漏れるのは必至だろう。しかしながら、井吹の目には鬱屈とした色が浮かぶばかり。
「何でこんなことに……」
井吹はすぐそばに作られた砂の城に目をやった。歪な形で「城」というには少し不格好なその塊は、先程紬が作成したものだ。
そこに屈みこむ小さな影――好海は一人楽しそうに城の増築を進めている。
濡れた服を替えに走った紬。夜間営業の準備があるからとそそくさと帰っていった御堂と柏木。その後を追うように用事だ何だと退散した蛍。
結果、残されたのは井吹と好海の二人である。
「絶対にわざとだろう、あいつら」
二人にされてしまったところで、いったい何をしろというのだろうか。
好海とは距離を置きたいというのに。
見え見えのこじつけと共に取り繕うようなささやかな笑みを置いていった『gift』の面々に、井吹は恨み言を唱えることしかできない。
しかし、いつまでも彼らへの苦言ばかりを並べたてていても仕方が無い。することがないのなら、さっさとこちらも切り上げてしまおう。
井吹は流木からのろのろと腰を持ち上げると、城作りに夢中になっている好海に向き直った。
「なあ」
短く呼べば、素直に顔を上げる好海。純朴な瞳が立ったまま見下ろしてくる井吹の姿をとらえる。かちあった視線に一瞬たじろぎ怯んだのは井吹の方だ。井吹は目を逸らしたくなる衝動を必死に抑えた。
「そろそろ、帰らないか?」
井吹の問いかけに、好海は彼を見上げたまま何かを考えているかのように制止する。その間も好海は一瞬たりとも目を逸らすことが無い。
そして、
「んーんー」
小さな頭を横に振り、好海は赤いおさげ髪を振り乱す。
そんなに勢いをつける必要はないだろうに、左右に揺れるおさげ髪は好海の柔らかな頬を交互に打つ。
しかし、その反応を見ながらも、井吹は尚も食い下がった。
「いやでも、二人じゃあ……しかも俺となんかと一緒じゃつまらないだろう」
そして、好海は再び井吹を見上げたまま一瞬制止したのち、今度は何か言おうと口を開いた。――が、そこから彼女の鈴の鳴るような可愛らしい声が漏れ聞こえることはなかった。
口をつぐみ、好海はただ黙って首を振る。
「はは……。楽しいわけがないだろうに」
嘲笑するようにその冷たい目を細めた井吹は、かろうじて聞こえる程度の声量でそう呟いた。その井吹の姿に、何を思っているのか首を傾げた好海の髪が風に揺れる。
そして、砂を弄ぶ手を止めたまま、じっと見つめ続ける好海。それを上から戸惑い交じりに見下ろす井吹。ごく近くにいるというのにこの二人の間の壁は厚く高すぎる。
訪れた瞬間の沈黙――それに耐えられなかったのは、井吹の方であった。現在の彼にとって一番耳に障るのはこの「沈黙」という“音”なのかもしれない。
「何か、用?」
見つめ続けられるだけでは、他人の、ましてや子供の真意などはかれるはずもない。しかし、何か言おうとしていることだけは分かるだけに、いたたまれなくなってしまう。
しかし、彼のその問いかけに返ってきたのは、またもや同じ反応。好海はただ首を横に振るだけだった。
「昨日家を出てから、俺と二人になると急に話さなくなるよな。って、まあ俺が言えたことでもないけどな」
純粋な瞳で見つめ続けられることに、いつまでたっても井吹は慣れず緊張すら覚える。ついに彼はそれから逃れるように、否、誤魔化すように、砂の城を挟んだ好海の向かいに屈みこんだ。そうしてしまえば自然好海の小さな姿は城の陰に隠れてしまい見えなくなった。
しばし、無言の砂遊び。
二人の間を波の音と砂をかく音だけが通過する。
「ん……?」
そうした中、井吹は不意に砂をかく手を止めた。握る子供用のくまでの先端に違和感を覚えたのだ。それは軟らかな砂の中の一点に存在感を放つ硬質感。
暇つぶし程度――好海からの逃避と言っても良い――に砂弄りをしていたのだが、そんな彼でも少々興味をそそられた。くまでを使い掘り進めること数十秒。いつしかそんな井吹に気がついた好海も、城の向こうから彼の手元を覗き込んでいた。
そして――
「わあ!!」
井吹が砂から掘り出したものに、いち早く歓声を上げたのは好海であった。
井吹の手にすっぽりと収まるほどの歪なそれは、春の日差しを反射し乳白色の表面を七色に輝かせる。それは海にあって特別珍しくもない、ただの貝殻であった――井吹にとっては、だが。
「なんだ……」
一瞬でも貝殻ごときに興味をそそられた己を恥ずかしく思いつつ、井吹はつまみあげたそれを適当なところへ放ろうとした。
しかし、井吹はその手を止めた。視界の端に爛々と輝く何かを発見したためである。
「……欲しいのか?」
「うん!! ほしい」
「ほれ」
言わずもがな、輝いていたのは好海の好奇心にあふれる二つの瞳であった。
井吹が手にした貝殻を差し出してやると、好海は顔の全面で喜びを表現するかのように表情をやわらかくした。無邪気な微笑みはその場の景色の何よりも眩しく光り輝く。
「きれーい!」
「……うむ」
好海が手にすると、とたんに貝殻は大きさを増して見える。井吹がつまむ程度のものが、彼女の小さな手では両手で持ってやっと安定して見えるほどである。そんな大きな貝殻を胸に抱いては、頭上に掲げては喜びの声を上げる我が娘に、井吹はどうして良いものかと視線を彷徨わせる。何をしてやればいいのか。泣かれたり、我がままを言われたりするほうが、よっぽど反応がしやすい。貝殻一つでそんなに澄んだ瞳で訴えかけられても、正直やり場に困る。
挙げ句、井吹は再び苦し紛れに砂をかきはじめた。
「お兄ちゃん!」
そんな井吹に構うこともなく、興奮の混じった高い声がすぐ隣りから耳を突いた。
先程の距離を置くような雰囲気はどこへやったのか、好海が砂の城の反対側から駆け寄ってきたのだ。
「な、何」
「もっと!」
「……は?」
「もっと、もーっと、いっぱい! きれいなの!」
綺麗な貝殻を、もっと沢山探してくれ。と言いたいのだろうか。
そんな感情があふれ出るかのような要求に、井吹は不思議の色を瞳に浮かべ首をかしげる。女の子というものは、こういうものなのだろうか。ただの貝殻――少しばかり煌めいて見えるだけの端が若干かけてしまっている貝殻一枚で。
女の子の心を理解することなど到底困難である井吹は、そんな感情はさておき、言われるがままに砂をかき始める。
いつしか隣りで彼の姿の見よう見まねに、好海も貝殻探しを開始していた。
「……ほれ。一つあった」
「わあ!! お兄ちゃんすごーい!」
「まだいるのか?」
「うん! ママとパパにおみやげなの。きれいだから、きっとうれしくなるよね」
「はいはい」
暖かな日差しもそろそろ傾き始めるかというそんな頃、そうして暫しの貝殻集めが始まった。
海岸から喫茶店『gift』までは、子供の足でも苦になることはない、ごく短い道のりである。
芽生え始めた春の暖かな風と、落ち始めた陽の光に包まれる海岸線。それに沿って二人は帰路に就く。
といっても、二人の間には微妙に取られた距離がある。先を行く井吹と、数歩置いてその後を追う好海。現在の二者間の距離を物語るかのように、その隙間は一定に保たれたまま縮まることはない。
きっとこのまま、彼らは約束の時間を迎えることになるのだろう。残された時間はあと1時間弱。昨晩の荷物をとりに『gift』へ立ち寄り、井吹古書店へ戻り支度をする。そして、約束の中央図書館へと赴く。順調にいけば、17時前には好海を送り届けるという目的を果たすことができる算段である。
「おい。ちゃんと付いて……来てないか」
普段通りの井吹のペースで歩いていたのだが、ふと後ろが気になり立ち止まる。振り向き見れば、案の定、好海の姿が遠くなりつつあった。付いて来ていない、のではなく、付いていけないという方がこの場合正確である。
しばらく制止したままでいると、好海が小走りに駆け寄ってくる。先程からこれ繰り返し行われているのだが、井吹に彼女の手を引いて歩いてやるという発想は無かった。あくまでも立ち止まって待っていてやるということが、今の彼における最大の譲歩であるのだろう。
「さっきから、気になってはいたんだけど」
「ん?」
井吹は駆け寄ってきた好海を一瞥し、再び歩き始めた。
「そんなに大事か? それ」
こくり、とそれに応え黙って頷く好海。彼女に背を向けて歩く井吹にそれは見えなかったが、背後で頷く姿が優に想像できた彼はそこに生まれた沈黙を肯定と受け取った。
「何でかな。後から見つけた奴の方が綺麗だったろう? そんな欠けてる奴、早く捨てれば良いのに」
今度は背後からはっと息を飲むような空気が伝わってきた。だが、井吹は振り向かない。
彼の後ろには、小さな両手で胸の中にあるそれを守るように抱きしめる好海の姿があった。
「いいの!!」
慌てたようにそう反論され、井吹は不思議と首を傾げた。
「まあ、良いなら別に構わないけれど」
井吹が一番始めに掘り出した、乳白色の歪な貝殻。今、好海に抱きしめられているのは、まさにそれである。
あの後、貝殻は次々発見され複数枚集められた。そして現在は、持参したバケツに収められ、井吹が片手に下げている。しかし、好海はあの始めの貝殻だけは手放そうとせず、他の貝殻と一緒にバケツに放り込むことを良しとしなかったのだ。
(何を考えているのかまったくわからん)
思いつつも歩調をゆるめない井吹。
しかし、ふと自身の服の袖に引っ張られるような違和感があり、足を止めた。
「……?」
違和感を覚えた右の袖に注目すれば、井吹の後を追い駆け寄ってきたのであろう好海の姿がそこにあった。
そして、また黙ったまま見つめてくる物言いたげな瞳。
それを見て、井吹は溜息と共に肩を落とした。
「何? 何か用?」
口を開いては閉じ、開いては閉じ。袖を握ったまま、好海は瞳に動揺の色を覗かせる。
何かを言いたいのは分かるが、毎回こうでは埒が明かない。時間が迫っていることもあり、しかたがなく井吹はその場に屈みこみ、好海に目線を合わせた。
「何か言いたいんだろう? 別に怒ったりしないから、言いなさい」
目線を合わせても、しばらくの間、好海は迷うように体をゆらゆらと揺らしてはあちらこちらに視線を巡らせていた。
しかし、決心したのか、やっとその小さな唇で言葉をつむいだ。
「……あのね。もうすぐお兄ちゃんとおわかれなの?」
「ああ、そうだよ。君のお母さんとそういう約束になっているからな」
「そう……」
若干唇を尖らせて俯く好海。それを尻目に井吹は立ちあがろうと腰を浮かせかける。
しかし、またもや小さな手に袖口を引っ張られ、今度は何だと呆れの半分混ざりこんだ表情で元に戻った。
「まだ何かあるのか?」
「うん……。えっとね。もうすぐってどれくらい?」
「すぐはすぐだよ。これから『gift』に行って家へ帰って、それから図書館に行くんだよ」
井吹が言うと、好海はぷくっと少し不貞腐れたようにして俯き加減を大きくした。
「おーい」
「……むぅ」
井吹の呼び掛けに、小さくうなり声を上げて好海は貝殻を握る手に力を込めた。
「どうしても、なの?」
「ああ。どうしても。なんで? 自分の家に帰りたくないのか?」
「ううん。おうちにはかえるの。かえるの。でもね……」
そこまで言って、好海は先を口にすることをやめてしまった。
井吹が先を促すでもなく、黙って次の言葉を待ってやっていると、再び好海は話しだした。
「もうちょっと、ダメなの?」
「駄目だな。約束は約束」
「どうしても? ぜったい?」
「どうしても。……ああ、そうだな。これから外に出られないくらい、君を送り届けられないくらいの土砂降りにでもならない限り駄目かな。まあ、この快晴じゃ雨なんて一粒も降る要素はないだろうから、絶対と言っても良い」
「雨……?」
「ほら、もう良いだろ? 行くぞ」
「あ……」
少しも笑いかけることもせずに、井吹は立ち上がった。砂の上にあった好海の視線も、その動きを追って上へ向かった。
「……雨」
井吹の肩越しに空を見上げた好海の大きな瞳には、まだ青さの残る初春の夕空が映りこんでいた。
再び歩き出した井吹を追って、好海が駆けだしたのは一瞬遅れたその後だった。