* 01
夕焼けに染まる春の空。それを反射してキラキラと水面を輝かせる海。街全体を橙色に染めあげるその幻想的な光の芸術は、西の海に夕日が沈むまでの僅かな時間にだけ楽しむことのできる貴重な光景。海と共に生きるこの街が魅せる表情の一つである。
街路を挟んで海に面した喫茶店『cafe and bar,gift』は、その光を全身に浴びながら自らも輝きを放つ。光を受けて煌めく、壁面のレンガに散りばめられた砂粒たち。日の入りという限られた時間にだけ現れるその店の数瞬の姿は、知る人ぞ知る街の密かな美麗スポットであるという。
しかし、あくまでそれは外での話。コーヒーの香りたちこめる店内からは、己の外観を臨むことは叶わない。店内からは窓枠に縁取られた空と海の美しさに溜息を零すばかりである。そんな外からの自身の異名などつゆ知らず、喫茶店『gift』は夕方の安穏と流れる時間の中でポツリポツリとやってくるお客をもてなしては、夕焼けの中に送り出す。
そして閉店時間に近づく店内に残るのは、数名の常連客。夕日に染まったテラスで本を捲る紳士。カウンターの片隅で一人静かに紅茶を頂く可憐な女性。それから窓辺のテーブルで他愛のない話に花を咲かせる少女たち――。
それらの常連客の相手をしながら店内に気を配るのは、優しい笑みが目尻に似合う男性店員。その柔かな印象には少々不釣り合いな茶金の癖髪が眩しい御堂である。それからカウンターに控えるのは寡黙な長身のキッチン係、柏木。彼はといえば、琥珀を思わせる透き通った瞳に真剣な色を浮かべ、何やら手元の細かな作業に没頭している。
いつものお客に、いつもの夕方の光景。そんな日常に酔いしれる閉店間際の喫茶店。
しかし、本日に限っては少しばかり様子が違うようである。どこか賑やかさに欠けている。
それもそのはず。店内のどこに目をやっても、目に入ってくるのは先の店員2人のみ。通常『gift』は4人で店を運営しているのだが、本日はその半分である。
「あら、御堂さん。今日は紬君はいないのかしら」
「ねえ、蛍君も見当たらないわ。どうかなさったの?」
と、これは窓辺に座る少女たちの数分前の会話。おしゃべりで軟派な紬に、何故か女子たちの人気を誘う小柄な蛍。その二人が本日の『gift』には見当たらなかったのだ。
「ああ、今日はちょっと外に出ていまして。おつかいを頼んだだけなので、彼らが閉店までに戻れば会えるかも知れませんよ」
「そうなの……」
呼び止められそう言った御堂の言葉に、残念そうに俯く少女たち。
そんな姿を目にした御堂は腰を折って姿勢を低くし、髪をふわりと揺らして僅かに首をかしげると、
「おやおや。そんなに残念がらないで。それとも、僕と柏木の2人だけではご不満かな?」
と宣った。いたずらに甘く囁かれたその声に毒され、少女たちが顔を見合わせる。
「そんなことない、そんなことないわ」
「御堂さんも柏木さんも素敵な人だもの。ねえ?」
「そうよ。私たち、このお店のどの方も大好きよ。今日は賑やかな2人がいないから少し残念なだけ」
少女たちの必死の弁解に、それはよかった、と微笑みを添えた御堂は颯爽と仕事に戻って行った。
再び盛り上がる少女たちの可愛らしい声を背に、御堂が大きな溜息を落としたのを知るのは誰もいない。なれないサービスをしてしまった、と自らに対して嘲笑を浮かべる御堂であった。
そんなやりとりの続く中、いよいよ喫茶店の営業時間もあと僅か。店の柱時計はあと10分もすれば、鐘の音を店内に響かせることであろう。
残り少ない営業時間の間に御堂と柏木がすることといえば、しかしこれといって特にはない。閉店時間は決めてあるものの、時間になったからといって追い出すようなことはしないのが『gift』である。時間が過ぎていたとしても、お客が帰るまでは基本的に店を開けている。そのため、この店では閉店間際になってわざとらしく片づけものを始めたり、店先の看板をしまったりすることもない。すべてはお客の姿がなくなった後に開始されるため、それまでは言ってしまえば店員たちは暇な時間を過ごすこととなる。
案の定、本日も店内には閉店間際だとは思えないほどに、緩やかな時が流れている。
と、一番に動きを見せたのは、テラス席の紳士であった。それまでページを捲るかカップを持ち上げるかの動作しか起こさなかった紳士は、突然はっと気が付いたように顔を上げると、懐中時計を取り出し時間を確認。そうするやいなや、すっくと立ち上がり手荷物をまとめ上げ、丁寧に椅子をテーブルに収めると、スタスタと店内入口までやってくる。そして、
「ごちそうさま」
と、一言言い置いて、夕日が沈みかけてもなお活気の収まらない商店街の人ごみの中に消えていった。
「ありがとうございました」
御堂は街路へ顔を出し、もうほとんど見えなくなっている紳士に向かい頭を下げた。顔を上げるとすぐに紳士の座っていたテーブルへとカップを下げに向かう。テーブルの上は紙ナプキンやコーヒースプーンなど几帳面にも一つにまとめられ、あとは運ぶだけとなっている。そしてその横にはしっかりとコーヒーのお代が置かれている。それは常連客のなせる行動であった。
小さく笑って、御堂は店内に戻った。
「お会計お願いします」
そして紳士のあとに続き、御堂の耳に飛び込んできたのは、少し控えめで遠慮がちな涼やかな声。
それは、先程カウンターにいた女性のものであった。波打つ鮮やかな赤髪が特徴的なその人は、先程の紳士のような高度な常連とはいかないまでも、買い物帰りなどによく顔を出すお客である。女性は伝票を片手にレジの前に立ち、ふわりと柔和な微笑みを浮かべて待っている。その姿を認めた御堂は、テラスから持ち帰ったカップを柏木へ預けレジへ向かった。
「いつもありがとうございます」
御堂がそう言って笑顔を向けると、女性はレジ台に備えられた小洒落た小皿に代金を乗せながら、
「ついつい時間を忘れて居座ってしまいました。ちょっと買い物に出たつもりでいたのが、こうこんな時間。また夫と娘に怒られてしまいます」
と、困ったように笑って言った。その言葉に、御堂は驚いたような表情を浮かべる。
「旦那さんがいらっしゃるんですか。それに娘さんまで」
「あら。そんなに意外ですか?」
「ええ、まあ。僕はてっきり……」
「あ、てっきり学生とでも思っていたんでしょう? こう見えて私、母親なんですよ」
女性はいたずらな笑みを浮かべ、御堂の目を覗き込む。その10代の少女かと見紛うほどに無邪気な表情は、とても既婚者、しかも一児の母を思わせるようなものではなかった。御堂は目を見張り驚きを隠せないでいるなかで、いったいこの可愛らしい女性は何歳なのだろう、と疑問に思わずにはいられなかった。しかし、女性に年齢を聞くなど野暮というものである。
「ええ。娘さんがいるようにはとても……ああ、失礼」
「良いんですよ。若く見られることは嬉しいことです。あ、でもいるのは娘だけではないんですよ」
そう言って一層顔をほころばせた女性は、自らの腹部に手を添えた。
「まだ全然目立たないでしょう? それでも分かるものなんだそうで、男の子の可能性が高いってお医者様が。さっき教えていただいたところなんですよ。今日は検診の帰りに立ち寄らせて頂いたというわけです」
女性は、一児改め二児の母であった。
しかし、御堂の目に映る女性の表情は、彼女が母親であると分かった後でも、やはり少女を想起させるような純真無垢なものにかわりはなかった。どんなに歳をとろうとも、若い人とは実際にいるものである。生活環境がそうさせるのか。
御堂は「それはおめでとうございます」と心からの言葉を添えて、釣銭を手渡した。
「では、娘も帰りを待っていることでしょうし、失礼しますね。ごちそうさまです」
「はい。ありがとうございした。お気をつけてお帰り下さい」
幸せを少々分けてもらったような気がして、御堂は微笑みと共に深々と頭を下げた。女性は優雅に身を翻し、御堂に背を向けた。
しかし、女性は一歩ふみだろうとする前に再び振り返ることとなる。
「お客さん」
歩き出そうとした女性の背中を呼び止める声が、聞こえてきたためである。
「はい?」
呼ばれた女性と御堂が後ろを振り返る。見ると柏木がカウンターから出てきたところが二人の目に丁度映った。柏木はそのまま小走りに女性のもとへとやって来る。
「あの、これ」
と、短く言った柏木が女性に何かを差し出した。女性は反射的に両手を出して、それを受け取る。
「あら。何でしょう」
女性の両手のひらにちょこんと乗せられたのは、握りこぶし一つ分くらいの小さな包みであった。巾着状に白い包み紙をまとめ上げ、その口は赤いリボンでとじられている。簡素な作りだが、そこがまた可愛らしくもある。
しかし、突然手渡された女性は、訳も分からず柏木とその包みを交互に見ては瞳に不思議そうな色を浮かべるばかりである。
「あの、柏木さん。これは?」
「キャンディです」
「はあ……」
女性の問いに答える柏木の表情はいたって真面目である。しかし、今の会話から分かるように、柏木は質問の意図を完全に取り違えていた。
そんな、見つめあったまま動かないでいる二人の間に助け船を出したのは、その場にいたもう一人、御堂であった。彼は場の空気を断ち切るかのように咳払いを一つすると、柏木の隣に立って肘で軽くつつく。
「柏木。彼女が聞いてるのは中身のことではないと思うよ。勿論それも重要な疑問点であるとは思うけど、この状況で一番気になるだろうことはそれじゃあない。その包みは何なのか、つまり彼女にその包みを渡した理由を求められているんだと僕は解釈するのだけれど」
「ふむ……」
御堂の指摘に柏木は小さく唸った。そして、再び口を開く。
「娘さんへのお土産にどうぞ。さっき娘さんが家で待ってるって話していたから」
「まあ、嬉しい。良いんですか?」
柏木はこくりと頷く。
恐らく、先程と同様の会話がカウンター越しにもなされていたのであろう。一見少女と見紛う女性には娘がいた。その子へのささやかなプレゼントという訳だ。
たまたま繰り広げられた会話の内容を受けて、柏木が何かしらの手土産をお客に用意することは、実は珍しいことではない。気まぐれではあるが、それは密かな彼の楽しみであったりもする。因みに先程から彼がカウンターの中で真剣な面持ちで作成していたのが、その包みであったようだ。
事態を飲み込んだ女性の可愛らしい作りの顔からはやっと疑問の色が消える。それと入れ替わりに喜びがあふれ出るかのような、清々しい笑顔が生まれた。
「ありがとうございます」
「いえ」
短く言って柏木はそそくさと店の奥へ引っ込み、カウンターの中いつもの定位置に戻って行ってしまった。それを見て御堂と女性が小さく笑い合う。
そうして、何気ないひと時を過ごしたお客がまた一人、『gift』を後にした。
残るは窓辺でおしゃべりに夢中になる少女たち。
学校での出来事。おしゃれの話。気になる男の子について……。さまざまに忙しく内容を変えてはころころと笑う。
彼女たちにとって、この店で過ごす時間は無限に等しい。けれどそれは大切な一瞬で。何げない、他愛のない瞬間だからこそ、何にも代えがたい有限の時間。
扉のドアノブに早々と“closed”の札をかけようとしていた御堂は、小さく肩をすくめるとその手を止めた。
店を閉めるには、まだまだ時間がかかりそうである。