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夜桜祭りと狼男

作者: 白亜恐子

梶井基次郎の『桜の樹の下には』に着想を得ました。

 冬の気配は春風に追われて北に消え、枝にも人にも若葉が芽を出す季節の巡り、この国の前線は開花の行方に目を奪われている。

 男は天野(あまの)川の土手を上流に向かって歩きながら、午後も遅い河原を見渡した。

 小学生の野球チームが試合をしている。ユニフォームは泥にまみれ、小粒の顔は汗に光る。土色のボールが高く舞い上がったかと思うと、太陽に重なって見えなくなった。グローブをした少年たちが茂みに走っていく。その間に走者は一掃された。あとには熱い声を張り上げる監督と夕日を映す白い四つのベースが残った。

 その手前では若い夫婦がゴールデンレトリバーの散歩中だ。犬は色艶の見事な毛並みをしている。黄色の花が群生する横を通り、妻のほうが屈んでひとつ手折った。かわいいわねと微笑む。夫はかわいそうだと言った。犬は花の匂いを嗅いでいたが、やがて飼い主の手の中のやつを一口に食べてしまった。花畑からの風に乗って男の舌には金色の涙の味が届いた。

 着物姿の娘が四人、笑いながら駆けていく。先頭を切る二人は恋の話に忙しい。

――今夜なんて、どうかしら。満月だし、ロマンチックよ。

――きっと彼も友達と来てるでしょう。誰にも知られないように、どうやって呼び出すの?

――なんで誰にも知られちゃいけないのよ?

 一歩後ろを行く一人は、会話に混ざらず、ただうっとりと聞くだけだ。彼女のきらきら濡れた目は未来を見つめているようで、実は自分自身に見入っている。最後の一人は少し大人びて、赤い着物を粋に着こなす。弱い微笑の浮かんだ彼女の口元からふっと漏れたため息を、誰も聞いていなかった。

 カラスが空を渡っていった。

 足元で影が立ち上がり始めた。散漫となり、輪郭をぼかす。夕焼けが飲みこまれる頃、土手下で提灯に明かりが灯った。陰った空気の中に人と露店と桜並木がぽっと浮かび上がる。

天野川の畔は桜の名所だ。千本もの並木はどれほど長く続くのか、果ては花の雲の中でうやむやになっている。人工の光に照らされると日の下で見るよりも桜色が濃い。明かりの届かない上のほうは夜をはね返して白い。風が吹いて花弁が散った。晴れの日に降る乾いた雨だ。地面にはその死骸が、ぽつぽつと消えない跡を残している。土をかぶり人の足に踏まれても白くある様に、桜の深淵を見る気がする。

並木の下では露店が軒を連ねていた。黄昏に湧いてきた人々が綿菓子や飴を求めて列を作った。祭囃子は遠くの神社の境内から聞こえている。太鼓が鈍く腹の底を打ち、笛が高く澄み渡る。情緒を借りてこの川べりでは夜桜祭りだ。

 男は土手から河原に降りた。髪に花を飾った女たち、手に手に雲を持つ子ども、酒を片手に声を張り上げる露店の親父、はぐれた子の名を叫ぶ母親、そして赤い着物の娘と、その横に寄り添う男とすれ違った。学生が木の下で宴会をしていた。弁当箱の上に花が降った。茶碗に浮いた一枚からは春の酒が香り立つ。 

 人々の行き交う中、男は一人立ちすくむ少女を見つけた。藍の地の着物を着ている。そこに桜が降りかかり、そのまま模様の水玉となった。男が近づくごとにそれはくるくると角度を変えた。彼女の髪の生え際は、じっとりと汗に濡れていた。

「こんなところで、どうしたの?」

「婆ちゃんとはぐれちゃったのよ」

 天野の幼い小町娘は泣き出したいのをこらえていた。大きな目をさらに大きくしてじっと男を見上げた。

「この混雑じゃ無理もないね。僕も一緒に探そう。もし見つからなくても、家まで送ってあげるから」

 男は小町の手を引いた。

 提灯の作り出した影が夜の地面を動いていた。前を見、後ろを見、隣の列を見、遠くの者に手を振り、ようやく一歩前進しと、落ち着かない。すべての影が一部を他人と重ねていた。女と男が背と背をくっつけ合っている。境界にいるはずの赤ん坊が見えなかった。

 小町が突然立ち止まった。露店に顔を向けている。

「綿菓子が食べたいの?」

 二人は長い列の後ろに並んだ。小銭を握りしめているのは子どもばかりだった。八百屋の娘と酒屋の跡取りがきゃっきゃっと笑いあっている。彼らよりも頭一つ分高い少年は手の中で野球ボールをもてあそぶ。小町を振り向いたかと思うと、ふいっと目をそらしてしまった。順番のまわってきた者は屋台の中を一心に見つめる。さらさらとピンク色の雲を涌出する機械は天上からの借り物のようだ。その蜘蛛の糸を、巧みに絡め取っているのは知らない顔だった。目が細く、口はへの字に曲がっていた。肩が厳つい。彼は男を上から下まで眺めまわしたあと、黙って綿菓子を差し出した。

「わあ大きい」小町の口の中で千本の糸が溶けた。「ヨシノさんにもあげるよ」

 酔客が桜の下で喧嘩を始めた。仕事帰りに立ち寄ったらしい背広姿の男と、友人たちと花見に来た茶髪の青年だ。呂律のまわっていない罵詈雑言は徐々に声高になり、彼らを囲む野次馬たちの輪ができた。周囲に挑発されて背広が茶髪につかみかかる。茶髪も拳を振り上げたが、後ろから友人に抱きかかえられた。一人で宴会をしていた背広を止める者はいない。彼の蹴り倒した酒瓶から白濁した液体が漏れ、ズボンの裾を濡らした。

 男の手を握る力が強くなる。見れば小町が今にも泣きだしそうだった。

 野次馬の群れを離れたところで、きゃっと声をあげて転んだ。誰かがすれ違いざまにぶつかって行ったのだった。彼は振り返りもせずに駆けていく。それは先の綿菓子の列で、野球ボールをいじっていた少年だった。

 小町はついに泣き出した。その声は向こうの喧嘩にかき消され、振り向く者はいなかった。

「傷を見せてごらん。僕が治すよ」

 男はしゃがみこんで、着物の裾からのぞく小町の膝に口元を寄せた。土や花びらを舐めとると、その下から血がとくとくと溢れ出す。たまごのような肌を冒す赤い液体は、そこにだけ別の生き物が生きているようだ。男が傷を舐める間、小町は泣き続けていた。

 やがて月は高く昇り、宴もたけなわ、桜の花は美を極めた。その下には凄惨な祭りの抜け殻が横たわっていた。人々の思想は混沌とし、それが単純な人の(さが)とも見えた。

 小町の祖母は見つからなかった。小町は眠そうにしている。

 男は川べりまで降りて地面のぬかるんでいない所を探し、腰を下ろした。川の水は山からさまざまに溶け込んだ養分でとろみを帯びていた。桜の花びらだけが沈まずに、上辺を星空のように流れていく。水面の照り返しが男の目を射た。網膜に焼きついたのは美しい情景のフィルムだった。

「ヨシノ!」

 影が二つ近づいてくる。

「ちょうどよかった。頼みたいことがあるんだよ。――町長の娘なんて連れて、どうしたのさ?」

 青年Aは脇にスケッチブックを抱えていた。手の中の鉛筆をくるりと回し、耳にかけた。

「向こうで婆さんが探してたぞ。早く連れていかなきゃ、あの人、気が狂って死んじまうよ」

 しかし小町は男の肩にもたれかかり、すでに寝息を立てていた。襟がずれて白く首が覗いていたのを、男はきゅっと直してやる。

「仕方ないな。俺がおぶっていこう」

 青年Bは持っていた絵具箱を青年Aに預けた。

「頼むよ」男は小町を青年Bの背にのせ、「ところで、僕に何の用があったの?」

「モデルになってもらおうと思ったんだよ。今夜は月がきれいだから」

 青年Aは舌打ちした。

「まあいいさ。今夜はこの子を送り届けて、まっすぐ帰るよ。また今度の機会に頼むね」

 男は一人になった。

 川のせせらぎが高くなる。

 月が頂点にさしかかる頃、男は上流にある山の奥に辿りついた。そこには桜の小さな木があるのみだった。だがきつい香が、夏の日に隣の女のつけている香水のように、腐臭にも似た匂いで男の鼻腔を刺激している。

 風もないのに枝がざわざわと鳴った。

 男は空を仰いだ。桜の花と花の間に月が見えた。月輪と花弁とが触れたところに、水と油が衝突し抵抗を示すように、かすかな線が張っている。その衝突音が響くのだった。そしてそれは、満月だったからだ。そこでは美醜の境が失われた。

 男は四つ這いになり、木の下のある箇所を前肢で掘り返した。皮膚が変化し、体中を毛皮が覆った。鼻は突き出、口は裂けた。瞳孔は拡大し魂が抜けたようにあらぬ方向を見ていた。犬歯の奥に赤い舌が生きていた。荒い息とともに唾液が垂れ、地面を濡らした。

 男は狼に変容した。

 土の中から現れたのは若い女の体だった。長い脚も形を損ねずに美しい。豊かな髪は乱れて乳房の上にかかった。その下には生命の水を湛える心臓がまだ蒸発していなかった。本当にこの死体こそが、桜の木が永遠に栄え人を狂気に駆り立てる所以である。

 狼は白い肉に食らいついた。


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