月の裏側に兎はいるか?
『@?“%@%@<^#』
混乱していた。
主に謎の言語と頭からの出血による意識混濁で混乱していた。額からの出血が目に入って視界が不明瞭である。何がどうなっているのかがわからない。今自分がどういった状況に置かれているのかという最低限のことすらわからない。自分は、西哲俊哉は、うつ伏せになりながら、頭上の声をなんとか聞き取ろうとする。なんとなく、放り出された手の感覚から、ひどく細かい砂の上に倒れているってのはわかったけど、問題はその倒れている場所がどこに位置するか。
わからない。
『##、!#!@<$;%#?“$@〜@_?“』
声以外の音はどうやらしていないようだった。無音。風の音すらしない、耳鳴りが聞こえそうなほどの音のない空間。だから、意識が混濁しているとしても、その声はよく聞こえたのだが。
上記の通りである。
英語でも中国語でもなんでもない、例えるならイルカのエコーのような声。それが頭上から響いているのであった。この混乱の最中にさらに混乱を与えないでほしかったが、あいにく声が出るような状態ではない。返事(伝わるかどうかは不明だが)もできない。
『%`<*$;%@=“?“!@&@@。!*&;&;=;%*!@%*_%@^@#^@;!“%“&;&@^*$“<』
柔らかい砂の上。
この上で寝たら服汚れるなとか、くだらないことばかり考えながら、西哲は意識を失った。
……
西哲俊哉(十九歳)は天才である。
自分で言うのもなんだが利口である。勉強ができる。何かを生み出すこともできる。いわゆるところの博士、研究者とかいう立場にいた人間である。しかしながら、頭が良ければ問答無用に人生イージーモードというわけではないのがこの世の中で世界の仕組みだった。
世界は戦争の真っ只中。
西哲俊哉は当たり前のように人殺しのための兵器を作ることになって、それをやらねばたくさんの人が死ぬと脅されたので、イヤイヤ作った。自分が作ったものが戦場を飛び交い人を傷つけるのを想像したことはあるか? 思ったよりもキモいぞ、これ。西哲は国に言われるままに新しい兵器を作って作って作って、プツン、と糸が切れたので逃げ出した。
ロケットで。
そりゃ、まあ。世界中が戦争してるので逃げ場なんて地球にはなかったし。逃げるなら宇宙しかないかと思ったので、自作のロケットで自分を打ち出した。必要最低限の荷物だけ詰め込んで、ほとんど自殺する心持ちで飛び立った。そりゃもうよく飛んだよ。脳内麻薬が大量に出ていたのか、ふはははは! なんて笑いながら青色の故郷を眺めた。これからどこをどう飛ぶかは、あまり考えなかった。とにかく西哲は逃げたくてしゃあなかっただけである故に。アニメ調の操作盤をいじくりながら、このままスペースデブリになるのも悪くないかなとか思いつつ希死念慮に耽っていたころ。
突貫のロケットが力尽きた。
そりゃそうだった。いくら天才とは言っても一介の人間である西哲にご立派なロケットは作れない。飛んだだけでも奇跡みたいな状況だったんだから、当たり前予定調和ってもん。
だから墜落した。
あとは前述の通りである。
「……どこだここ」
西哲はふかふかベッドに寝かされていた。
童話のようなベッドである。絵本のイラストからそのまま引っ張ってきましたみたいな、優しさと丸さでできたあったかい真っ白なお布団。それに包まれて西哲は寝ていたようだった。
思わず飛び起きて、体のどこにも痛みがないのにまた驚きで飛び上がりそうになった。西哲は突貫ロケットで宇宙に飛び立ちどこかに不時着して最後は柔らかい砂を気にしながら気絶したはず。はずなのだが、今の西哲は優しさで満ち溢れた寝具にいる。怪我をしたであろう部分は包帯が巻かれている。前後が全く繋がっていない。
落ち着こう。
こういう時こそ深呼吸! ひっひっふー! 己がやっていることが深呼吸ではなくラマーズ法だってことには気づかなかったが、ここに酸素があることには気がついた。とりあえずよかったなあ。間違った深呼吸により形だけでも落ち着いた西哲は、とにかく状況把握に努める。ここがどこか、確認する。
優しい部屋である。
それこそぐりかぐらでも住んでそうな、洋風のこじんまりした家。やれ木製のキッチンであるとか、玄関らしき扉に吊り下げられたドライフラワーであるとか、やけに背の低い丸テーブルと丸い椅子であるとか、今現在西哲が寝ているベッドであるとか……。とにかくどこか懐かしい、温かみのある内部。
そして。
赤煉瓦で作られた暖炉の前、置いてあるロッキングチェアの上にいるもの。
『“、“!;%@』
シーツを被ったようなお化けだった。
典型的なゴーストのような形をした生き物(かどうかは不明だが……)が、椅子に座って腕のような突起を器用に使い本らしき紙束を捲っているのである。ゆらっと立ち上がる。西哲の方にスーッと滑らかに近づいてきた。よくみりゃちょっと浮いていた。
『……』
「どっ、どうも」
西哲は反射的に挨拶をしてしまった。ここが日本なのかいやそもそも地球なのかすらわからぬというのに、慣れ親しんだ日本語で喋ってしまった。とりあえずそのまま続ける。シーツお化けは正面に書かれた黒い丸(多分目の役割をしている)をこちらに向けたまま黙りこくっているので、続けるしかない。
「助けてくれてありがとうございました。あー、えっと、それと、不時着して申し訳ございません。お怪我はありませんか……って、僕が聞くのもおかしいか」
『……』
「僕は西哲俊哉と申します。一応日本で研究員やってました。……やっぱり日本語わからないか。じゃあ英語。あー、ゴホンゴホン。ナイストゥー──」
『ゲンゴタイセイノカイセキカンリョウ』
西哲はびびった。思わず布団を乙女のように握りしめベッドの隅っこに移動しちまうぐらいにはビビった。心臓が跳ね上がって呼吸が捩れどっと冷や汗が流れ、とにかく一瞬パニクった。なんでこいつ日本語喋ってんねんって感情。自分から日本語で話しかけたのにも関わらず、西哲は唐突に日本語で発語してきたこの物体に恐怖したのである。
シーツお化けは西哲を気にもせず、あーだのうーだの言っていた。ゲホゲホとシーツのひらひらをはたいて咳払いを表現している。なんだその芸の細かさ。
「……あ、の」
『んー、んー、これでおっけいかね? そこの謎生物くん。俺の言ってることわかるかい? わかったなら右手を、わかんねえよばーかってなったら左手をあげてくれ』
「……」
『おっと、聞こえてねえってか? これでも無理して発音してんだけどなー。てかまじこの言語何? どういう喉と文化の発達したらこんなややこしい言語になるん?』
「……すみません、質問いいですか?」
『わかってたんなら右手あげてくれよとは思うが、いいぜ。なんでもクエスチョンオッケイ。バシバシどーぞ』
シーツお化けは右手をグッとさせている。きっと親指を立てたいのだろう。指がないからできていないが……。
西哲は一度息を深く吸って吐いて、頭の中を整頓してから痛む喉から声を捻り出した。
「ここはどこであなたはどちらさんですか? あああと、僕は不時着したのですが、それの残骸はどうなっていますか? ここにあなた以外の人はいますか? それと治療してくれてありがとうございます」
『多い多い多い落ち着いてくれ手足ひょろながくん!』
……
それでは一つずつ。
Q.ここはどこ?
『第三宇宙にあるヒューゴー銀河、陽球系第百三十五人工惑星! んで、俺の終の住処! 一周徒歩で五分間のせめえ星だぜ! あとで散歩でもしてみてくれ』
Q.あなた誰?
『あー……名前は、あんたの言語で訳すと[正義と勇気の心臓]みたいな感じ? 俺らのとこだと一単語で表せたんだけどなあ。んで、俺は簡単に言えば終身刑の犯罪者ってとこ。じゃなきゃこんな辺鄙な場所に送り込まれてるわけねえだろ』
Q.あなた以外の人はいる?
『いねえ。てか、いるわけねえ。ここはいわゆる独房ってやつだ。一生ここで一人寂しく暮らせと国からのお達しでな』
Q.ロケットの残骸はどうなってる?
『ほっといてる。なんだあの鉄屑。宇宙飛ぶのにまあ大袈裟な機械だな。もっと単純なボートなかったのか?』
助けてくれてありがとう。
『そりゃどーも』
ここまでの話をまとめてみる。
西哲俊哉は地球を飛び出しこんな辺鄙な惑星に不時着してしまったらしい。そこにはこちらの言葉がわかるシーツお化け(犯罪者)がいて、甲斐甲斐しく介抱してくれた。突貫ロケットを大仰と言えるほどの技術力と、不明言語をすぐさま理解する知識を携えている、謎の生き物。いや、宇宙人。
西哲はベッドの上で、浮遊するシーツを見ながら顎に指を沿わせた。
「……はあ。なんとなくわかりはしましたが、まだ不明な点が多いですね。もういくつか質問しても?」
『おいおい、そりゃアンフェアってもんだぜ、毛ェふさふさくん。こっちから質問するターンを設けてくれてもいいんじゃねえか?』
「その呼び方やめてくださいよ[正義と勇気の心臓]さん。僕は西哲俊哉です」
『ン、了解したぜ、セイテツシュンヤ』
ひどく気持ち悪い発音で名前を呼ばれた。うぐってなる。西哲の反応を見て、シーツお化けが首を傾げる。
「……えっと。僕らの星では名字と名前って概念がありまして、そんな連続して発音するものではないんですよ」
『なんだそれ』
「家の……家族共通の名前です。組織名みたいなものですかね。僕の場合西哲が名字で俊哉が名前なので、僕のことは俊哉と呼んでいただけると嬉しいです」
『ふうん……じゃ、シュンヤって呼ぶか。なあシュンヤ、なんであんたはこんなとこにあんな機械に乗っておっこちてきたんだ?』
一瞬だけ言葉に詰まる。西哲の理由は壮大なようで実は個人の我儘で、あの時の行動を振り返ると自分子供っぽと少なからず感じ、しかし嘘もいけない。なら、真実をチャチャっと話すが吉か?
色々ぐるぐる感情が交差し、西哲はなんとなく布団を握る。目を逸らしてポツポツ、話す。
「僕の世界……というか、惑星は戦争真っ只中なんですよ」
『ほうほう』
「戦争には武器がいる。だから、僕は武器を開発する仕事をしていました。給料も良かったし、境遇も良かったですよ。僕が作った武器で勝てた戦いがいくつもありましたからね。言っちゃあなんですが、僕はそれなりに有能な人間らしかったんです」
『ふうん。それで?』
「……国から、僕の武器がどんな活躍をしているかを見せる、動画が送られてきました」
今でもはっきり、思い出せる。
一瞬の内に網膜に焼きついたそれは、ロケットを作っている時も乗っている時も失神している時も、鮮明に瞼の裏に映し出されていたから。
「子供の下半身が吹っ飛んで、壁に張り付く動画でした」
『……』
「赤ん坊を抱えた女性が火だるまになる動画でした。ボロボロになった兵士が全身を掻き毟りながら死んでいく動画でした。たくさんの人の頭が爆ぜる動画でした。僕が作ってきたものが、これ以上ないほど活躍している動画、でした」
西哲俊哉は。
遅ればせながら、自分がやってきたことに気がついた。
「だから、全部嫌になって、逃げたんです。自分勝手にね。そこからはお察しで、突貫で作ったロケットが壊れてここに不時着って流れです」
自嘲する。こう振り返ってみると、西哲俊哉という人間はどこまでもどうしようもないらしかった。ここに不時着せずに、宇宙のゴミになっていればと死ぬ気で思った。このシーツお化けには申し訳ないが、なんで自分なんかを助けたんだと詰りたくなるほどに。
手前勝手に。
『……壮絶だな』
「でしょう?」
『じゃあ、俺も話したほうがいいかね』
シーツお化けはロッキングチェアに戻ってふんぞりかえる。腕を組もうとしているようだが、短すぎてできていなかった。それでも堂々、話し始める。
『俺は戦争犯罪者だ』
「……」
『俺の国も戦争中だった。んで、負けた。敵国の兵士を殺しまくってた俺は犯罪者として裁かれて、骨格と皮膚と筋肉の剥奪、それとここでの終身刑が言い渡された。まあ、俺他人の十倍は殺してたから、無力化したかったんだろうな。強すぎる元敵をなるだけ解体してからゴミ箱に捨てたかったらしいぜ。俺は内臓に皮膚代わりのシーツ被せるなんて雑な処置されて、ここに放り込まれたってわけ』
ふん! と鼻で笑うようにシーツお化けは暗い雰囲気を吹き飛ばした。全然吹き飛ばなかった。西哲はあまりにスケールが違う重たい話に困惑しつつ、なんとか言葉を絞り出す。
「なんか、壮絶ですね……自分がちっぽけに見えてくる」
『卑下はやめてくれよ。人殺しに上も下もあるものか。俺らはどっちも、国のために人を殺したのさ。それが正しいと思い込まされてな』
吐き出すようにシーツお化けが答えた。ひたすら正しい答えだった。殺した事実は変わらない。崇高も卑劣も優秀も劣性もない。西哲はロッキングチェアに揺られるシーツお化けを見る。ぼうっと、揺られている。
こいつと自分は同じであろうか?
「というか、あなた内臓丸出しなんですか? シーツ捲ったら内臓見えるんですか?」
『見えるぜ。蓄光素材だから暗いとこで光る』
「いらねえ機能……」
『結構面白いと思ったんだが?』
なんなら見るかとシーツをめくろうとするお化けを必死に止める。見たくねえと言ったら嘘になるが、それはそれとして怖い。やめてほしい。こっちは最近ガチの内臓見たばっかなんだ。
『まあ、ゆっくりしてけよ』
シーツお化けがカラカラ笑いながら言った。シーツの裾を握っていた手を離して、快活に。
『俺も退屈してたんだ。遠慮なく、故郷の話でも語って聞かせてくれや』
……
西哲俊哉に信念はない。
対して、シーツお化けこと[正義と勇気の心臓]は信念があるようだ。
西哲は別に自分から何かしようと思って行動したことは数える程度しかない。言われるがまま勉強し、進学し、研究者になり、兵器を作った。流されるままに、求められるままに行動してきた。自主的な活動といえば此度のロケット脱出劇ぐらい。シーツお化けの住むこの星にいようと決めたのだって、結局はシーツお化けが誘ってくれたからだった。
シーツお化けは自分で選び取ることが得意なようだった。元から体が丈夫だった彼は志願して兵になり、そこで自分の意思で敵兵を薙ぎ払った。終身刑を言い渡されてここに閉じ込められた後も自分の意思で異星人である西哲を助けた。それだけじゃあ、ない。共同生活を共にしていれば嫌でもわかる。彼は生きるのが得意なタイプである。必要だと思ったことを、正しいと思ったことを、的確に選び取れる人間である。
『なー、いつまでその鉄屑いじってんだ?』
家の外。
不時着した衝撃で鉄塊と化したロケットをなんとか直そうとしている西哲に、シーツお化けは話しかけてきた。
「いつまでって……そりゃ、直るまでですよ。いざってときの移動手段です」
『いざっていつだよ』
「いざはいざです。予測できない事態が起こった時です。なんにせよ、備えあれば憂いなしってやつですよ。やることがないならやれることをやらないと」
ぎゅい、となんとか潰されずに済んだ工具を使ってネジを絞める。なんとか元の形に戻そうと努力はしているが、それでもへしゃげたり割れたりぶっ飛んでどこかに行ってしまったパーツのほうが多いので、形だけ元通りになっても飛ぶかどうかは怪しかった。そもそも砂が酷すぎる。異様に細かい、砂埃がずっと空気中に漂っているほど小さい砂粒。どっか詰まってそう。エンジン部分はかろうじて生きているから、砂さえ除去すれば飛び立ちはするだろうけど……。
シーツお化けは興味なさげに。
『そりゃいいことだな。もーちょいで昼飯できるからそろそろ来いよ』
「わかりましたよ。ちなみにメニューは?」
『栄養食三十五号パック』
「それ苦手なんですよね……」
『わかるけどしょうがねえだろ。囚人なんだから』
ケラケラ冗談めかしながらシーツお化けは家に引っ込んだ。西哲はひらひら手を振って見送る。完全に家の中に入ったのを確認する。昼食の準備に取り掛かっているのを、窓越しに確かめる。
西哲は耐えきれなくなって、口元を手で覆った。
「げ、ほ」
口から血の塊が出てきた。
粉塵吸引、この場合は地面にの砂を吸い込んだことによる影響であることは容易に察せられた。これでも科学者、研究者である。細かい粒子を慢性的に吸い込んでしまうと呼吸機能の低下や喘息など、様々な症状が現れる。しかし、吐血はなかったはずだ。おそらくここの砂がひどく鋭利なのだろう。こんなに小さいけれど、内臓を簡単に傷つけるぐらいには。
人間にとって凶器になり得るぐらいには。
西哲は血のついた手のひらを砂に擦り付けて洗う。爪の隙間に入らぬように気をつける。いや、いくら気をつけたところでもう遅いのだろう。血の量は日に日に多くなっているし、呼吸ができなくなる瞬間は数えきれないほど訪れるし、視界は砂煙に包まれたようにぼやけている。手のひらをじっと見つめてみれば、ひどく小さな裂傷がそこかしこにあった。
ここは絶望的に、地球人が住める星じゃない。
シーツお化けは多分、それに気づいていない。骨と皮膚と筋肉奪われても平然としている種族であるから、きっと体の頑丈さが桁違いなんだろう。好意でここを貸してくれている。世話をしてくれている。少ない食料を分け与えてくれて、寝床を提供してくれている。
だから、西哲はゆっくり死ぬしかない。
「……素敵な牢獄ですね」
これが無責任に逃げた罰であると考えるには、己の思考はひどく理性的だった。
……
「月には兎が住んでいるんです」
西哲はロケット内部に引っ込みながら、操作盤を修理しながら言った。もう何日経ったかわからない、ある日のことである。シーツお化けは家の玄関口に座り込んでいた。のんびりとした時間だった。
『ウサギ、ってのは?』
「可愛い動物ですよ。耳が長くて、ふわふわで……。ぴょんぴょん跳ねて移動するんです」
『へえ、それが月って天体に住んでんの?』
「いえ、比喩表現のようなものですよ。ちょうど地球から見た月の模様が兎に見えるんです。童話の類ですね」
故郷の話はよくした。というか、シーツお化けが聞きたがった。西哲もシーツお化けが語る話は面白かったから、等価交換のような形で話し続けた。
西哲は咳を我慢しながら手を動かす。シーツお化けが見ている前で吐血するわけにもいかない。いつかバレるとしても、それは今じゃないと思う。話して紛らわす。
「その兎が餅をついてるんです。餅ってのは、柔らかくて伸びる白色の食べ物です。おっきいバケツみたいのに材料を入れて上から叩いて作ります」
『なにそれ、暴力的だな』
言われてみればと西哲は思う。思いながら手と口を同時に動かす。最近景色がまともに見れない。修理は遅々として進まない。
「僕らの国では月が綺麗に見える時期がありまして、十五夜って言うんです。その満月の日には丸めたお餅とススキって言う植物を飾ります。なかなか風流ですよ」
『あんたの国はことあるごとに飯食いたがるなあ。なんだっけ? オショウガツ、セツブン、ヒナマツリ、コドモノヒ……。行儀にかこつけて食いすぎだろ』
「それは先祖に言ってくださいよ。一応縁起担いでるんですよ?」
『ただのダジャレじゃん』
「そんなもんでいいんです。わかりにくかったらありがたさ半減でしょ」
『……そうか?』
「そうですよ」
適当に話を続ける。耳に砂が詰まっているのか、近頃声が聞き取りづらい。ここはシーツお化けの声しか響かないから、それだけ救いか。なんとか聞き取って返事をする。平気なふりをする。
「月についての伝承はまだまだありますよ。隣国の話ではありますが、こんな伝承があります」
『その心は?』
「昔々、嫦娥という仙女がいました。彼女は……誰だっけ? まあ誰かから不死の秘薬を奪って飲んでしまい、月に逃げてヒキガエルにされてしまいましたとさ。めでたしめでたし」
『短いし展開はや! もっと詳しく解説してくれよ。なんでジョウガは不死の秘薬なんて盗んだんだ? どうやって月に逃げたんだ? 誰に、なんでヒキガエルにされたんだ?』
「そう言われても、僕も詳しいこと覚えてませんよ」
なんだそれ! とシーツお化けが笑う。西哲も笑おうとしたけど、血が喉に詰まってうまく笑えない。そろそろ本当に限界だと悟る。荒れる呼吸を必死に押さえつけて、青ざめる顔をできる限り自然に隠した。ロケットを直すことに集中する。
「あと……月と言えば、アポロ十一号ですかね?」
『……?』
必死に喋り続ける。酸欠で頭がくらくらする。
「アポロ十一号は、ロケットです。とりあえずはこれと同じようなものを想像してください。アポロ十一号は、世界で初めて月に降り立ったロケットなんですよ」
『……へえ』
「月というのは、人類の憧れでした。夜の象徴のような……ああ、あなたたちの言葉だと陽球、でしたっけ? 地上を照らしてくれる光でしたから。不可思議に満ち溢れた、一等大きな夜の天体」
『陽球は隠れたりなんかしねえけどな。……なあ、あんた、声どうした?』
「魔術などのファンタジーな要素に欠かせない妖艶さを持つぐらいに、人類はそれを手に入れたいと望んだんです。一種の理想郷でしょうかね」
『おい、話聞いてたか? ちょっとそっち行くぞ。壊さねえように注意すっから』
「月に行くってのは、動物と会話するとか、自分一人で空を飛ぶとか、それぐらい夢物語で……だから、月に人間の手が届いた時、誰もが嬉しかった」
『おい! 本当に聞こえてねえのか?! そん中からだと聞こえづらいか?』
「でも、手が届いたってことは神秘性の喪失をも意味します。人類にとって、もはや月とは住むことすらできるかもしれない空間になってしまったんですよ」
西哲はもうほとんど耳が聞こえていなかった。自分の声だけかろうじて、骨伝導で聞こえていた。視界が不明瞭だからどこをどう直しているかもわからない。鉄錆の味がする口内を舐めてひたすら舌を動かす。会話のテンポは大丈夫だろうか。噛み合っているだろうか。変なこと言ってないだろうか。こういう類の話は、シーツお化けは真面目に聞くだろうから、まあ心配はしていないのだけど、このガラガラな声を訝しまれたら終わりだ。勤めて明るい声を出そう。そう、まだ、話を続けなきゃ──
『おい!』
体を揺さぶられた。
その衝撃で、驚きで血を吐いてしまった。ロケットの中が赤色に汚れて不愉快な気分になって、それ以上にやっちまったという失敗に対しての焦りが湧き出てきた。肩に感じるこの柔らかい感触はきっとシーツお化けのものだろう。あれ、やばくないか。彼の前では元気に振る舞っていたのに、全部おじゃんになっちゃわないか、これ。西哲は大丈夫よくある死なない死なないと、最低な行いではあるが、彼の無知を利用して空元気を演出しようと思った。思うだけに留まった。げえげえと喉がえずいて仕方なかった。
『ああ! だめだだめだだめだ! ここに来た時と一緒じゃねえか! なんで、こんな、こんなことに』
西哲はもういっそ全部出そうと口の中に溜まった血を掻き出す。うわ、不快。しょうがないけど。詰まりが解消されてマシになったので、西哲はなんとか、言葉を捻り出そうとする。
いつかはバレると覚悟していたはずだ。
でも、こんな唐突であるとは、思いもしていなかったかも。
『あんたこの赤い液体出し切ると死ぬんだろ?! そうだそうだ、治療した時解析したじゃねえか何再確認してんだ俺! と、とにかく家の中に──』
「ね、え」
『シュンヤ! しゃ、喋らないでくれ! 多分喉が』
「月に行って、みませんか」
シーツお化けが黙りこくったのがわかった。
そりゃ、察するだろ。彼は聡明で優しくて、そして何より正しい生き物。選択することができる人。西哲の容態がもう取り返しにつかない段階まで進んでるなんて簡単に理解するはずだ。だから黙った。だから止まった。これから死ぬであろう西哲の意志を尊重して。
……西哲は、彼がこんな寂しい場所に閉じ込められて終わるなんて、嫌だった。
鋭利な砂に囲まれた無味乾燥な星から連れ出したいと、無理難題とわかっていてもやってみたかった。彼はこんな場所で死んではいけないと思った。砂ばかりの狭苦しい牢獄。正しい彼には似合わない! ……いや、それは単なる後付けか? 建前か? 西哲はただ、シーツお化けを手の届くところに置いておきたいと思ったのかもしれない。正しい彼の側にいて、少しでもその潔白さを分けてほしかったのだろうか。それか、西哲は彼と一緒に死にたいだけかも。同じ人殺しである彼と、一緒にスペースデブリになりたいのかもしれなかった。
どうして月に行きたいなんて出任せ、口から飛び出たんだ?
しかし理由がわからずとも、ここに来てからずっとくだらない話ばかりしてきた口はよく回る。
「僕、月に行ってみたい、です。ロケットはまあ……飛べるようには、なりました、し。あなたの科学力、には、劣るかも、しれませんが、それでも。それでも、行けるはず、ですよ」
『……人類は月に行ったんじゃなかったのか?』
「あなたは、行ったこと、ない、でしょう? いっしょに、月に行きましょう。こんな狭い星、逃げ出すんです」
『……』
「逃げちゃい、ましょう。あなたみたいな、正しい、人が、ここに閉じ込められる、なんて、だめです、から」
その時の西哲は本気でそう思っていた。でも、事実に則してはいないだろう。どう解釈したって彼は戦争中何人も殺した。立派な人殺しで、人でなしである。ここに幽閉されて当然と言える生き物である。少なくとも、殺されたやつの関係者はそう思っているだろう。それは彼が、一番よくわかっているはずだ。
だからシーツお化けは聞いてくる。
『俺、逃げてもいいと思うか?』
震えた声で、怯えた声で、ない腕を震わせながら。
『たくさん殺して結局何にもならなかった俺は、ここから逃げていいと思うか? 自分から逃げて勝手に散ってもいいのか? 罵倒を受け入れ不当を受け入れただひたすらに耐えなくても、本当にいいと思ってるのか?』
迷いをふんだんに含ませて、迷子の子供のように聞いてくる。
西哲は答えた。
「もちろん!」
……
かくしてロケットは飛び立った。
『兎、いるかね』
「いますよ、きっと」




