一話 力士騒動
その日も弥生は、買い物籠を抱えて市に向かっていた。日はまだ高く照っているというのに、町の空気は妙にざわついている。通りの先では、大柄な者たちが肩をいからせ、行き交う人々を乱暴に押し分けていた。
「どけぇい! この通りはわしらが通るんじゃ!」
「へえっ、すんまへん……!」
声の大きい力士崩れに、商人は土下座し、女衆は子を抱えて逃げる。汗に光る浅黒い肌、肩をいからせて笑い合う彼らは、土俵よりも往来で威張る方が性に合っているらしい。
弥生は足を止め、籠を抱えたまま息を呑み、じっと睨みつけた。
(……力士衆か。真昼間から迷惑なこっちゃ。あの図体、もう少しマシな使い道あるやろに)
子を抱えた女が乱暴に突き飛ばされ、地に倒れた。赤子の泣き声が通りに響く。弥生の胸に熱いものが込み上げ、気づけば足が前へ出ていた。
「もうおやめなされ! 恥ずかしゅうないんですか!」
小娘の声に、力士たちは顔を見合わせ、次の瞬間どっと笑う。
「なんや? 女が口出しか」
「かわいらしいこと言いよる」
ずん、と迫る影。弥生は後ずさりしながらも睨み返した。怖くてたまらない。けれど、声を飲み込むのはもっと癪だった。
そのとき、草履の音が石畳を打った。
「おい、そこまでだ」
低い声とともに現れたのは、巡回中の新選組――土方と沖田である。浅葱の羽織が風に揺れ、土方の眼光は氷のごとく冷たく、沖田は涼しい顔のまま刀の柄に手をかけた。
「京で好き勝手はさせねえ」
「なんだぁ、てめえら」
力士のひとりが前に出る。
「おい、やめとけ。壬生浪の連中だ……容赦なく斬ってくるぞ」
別の力士が慌てて静止した。
その一言に、力士たちは舌打ちして退散した。
静けさが戻ると、土方が弥生を見やった。
「嬢ちゃん……無茶はするな。あいつらには信念なんざねぇ、暴れることしか知らねえ連中だ」
叱る口調ながら、その眼差しにはかすかな賞賛がのぞく。沖田は笑みを浮かべ、じっと弥生を見つめていた。
「弥生さん、また会ったね。相変わらず元気そうだね」
心臓が早鐘を打つのを抑えながら、弥生は答えた。
「助けて下さってありがとうございます」
「なかなか勇ましかったよ。普通の娘なら声も出せない」
「ただ、見過ごせなんだだけで……逆にご迷惑をお掛けしました」
籠を握る指先がまだ震えていた。沖田はくすりと笑う。
「迷惑なんてとんでもない。その度胸なら、うちの隊に入ってもやっていけそうだ」
「おい、からかうな」
いつの間にか人だかりができ、女衆は二人を見てきゃあきゃあと騒いでいる。
(……随分人気者やな。二人とも見目もええし、強ければ当然か)
沖田が周りに手を振る横で、土方が低く言った。
「最近はとくに、力士崩れや浪士どもが群れて騒ぐ。大坂相撲は落ちぶれて興行も成り立たねえ。食えなきゃ用心棒か、町人を脅して銭を取るしかねえんだ」
(なるほど……食うために、強さの使い道を間違えとるんやな)
「浪士に取り込まれりゃ、なお始末が悪い。奴らが群れりゃ京はすぐ火の海だ。お前は妙に厄介な場に居合わせることが多い。……何かあればすぐに知らせろ」
言い捨てて歩き出す土方。沖田は軽く手を振って去っていった。
籠を抱き直す弥生の胸に、ざわめきは残ったままだった。
買い物を終えて籠を抱え直し、裏通りを抜けると、人波の向こうに見慣れた姿があった。
「……あ、琴音」
舞妓姿の琴音が帳面を手に、すいすい歩いている。着物の裾も足運びも乱れず、いかにも訓練された歩き方だ。
「弥生やないの。あんたもおつかい?」
「ええ、まぁ……そんなところやなぁ」
祭りの準備や座敷の噂話をしているうちに、胸の張りつめたものが少しほどける。だが琴音の顔がふっと陰った。
「そういや聞いたかえ。……長州の連中、まだ京に残っとるらしいで」
「えっ……追い払われたはずじゃ?」
「表向きはいなくなったけど、裏で力士や浪人に金ばらまいとるんやと。うちの客筋がそう言うてたわ」
琴音は声をひそめて笑ったが、その笑みの奥にかすかな緊張が滲んでいた。
――八月十八日の政変後。御所は薩摩と会津に固められ、長州は締め出された。浪士は討たれ、町の色も塗り替わった。けれど「影」は消えずに残ったまま。影というのは、潜むほどに見えにくいから厄介だ。
(……やっぱりまだ残ってるんやな。長州の影。どうせ何か企んでるんやろな)
家に戻ると、帳場で父が筆を走らせていた。
「おかえり、弥生。えらい遅かったな」
「……ちょっと道で騒ぎがあって」
籠を下ろした途端、父がごほごほと咳き込んだ。痰は絡んでいない。音からして、ただの乾いた咳――頭で分かっていても、胸はざわつく。
「親父!」
慌てて手ぬぐいを差し出すと、父は受け取りながら苦笑した。
「大げさやな。ただの咳や。……ほれ、まだ死にはせん」
(そういう言い方が一番タチ悪いんやけど)
「今、お水と薬用意するから」
父は湯呑を手にしながら、ふと真顔になった。
「まあな……お前に貰い手の一人でも現れてくれたら、わしも安心して逝けるんやがな」
(またそれ……)
「なに言うてんの。誰が好き好んで、うちなんかもろてくれはるわけないやん」
「そんなことはない。お前はしっかり者や。それに……ちょっと着飾りさえすれば、人並み以上に見える」
(“人並み以上”て……褒めてるようで褒めてない。ほんま口の減らん親父や)
弥生は湯呑を見つめ、心の奥でそっと思った。
(親父が元気なうちに、うちがもっと仕事を覚えなあかん)
その日も市へ出る。野菜の青臭い匂いと魚屋の生臭い匂いが鼻を突く。
「よぅ、瓦版娘」
顔を上げれば、藤堂平助。巡察の途中らしく刀を差していたが、目尻には柔らかい笑み。
「藤堂さま、お久しぶりです」
「奇遇だな。……ちょうど休もうと思っていた、茶でもどうだ」
小さな茶店で、小休憩。自然と仕事のことを聞いていた。
「新選組の皆さんは最近お忙しそうですね」
興味本位で尋ねてみる。
(何かおもしろいことが聞けるかもしれへん)
藤堂は茶をすすり、わざと声をひそめた。
「忙しいどころじゃない。八月十八日の政変で長州は追い出された言うても、影はまだようけ残っとる。浪士や力士崩れが群れて、いつ火の手が上がるか分からん」
そこで、にやりと笑って弥生に身を寄せる。
「……しかも最近はな、“人斬り”が潜り込んどるという噂や。夜道を歩いとった浪士が、後ろから一太刀でのど笛を掻っ切られた。血が噴き出す間もなく、声も出せんまま、闇に沈んだんやと」
ぞくり、と背を撫でるような冷気が弥生の背筋を走った。
藤堂はわざとらしく肩をすくめ、軽く笑った。
「まぁ、怪談じみた話やろ? けどな……実際、そういう死体が道端で見つかっとるのも事実や」
藤堂は茶を飲み干し、真顔で言った。
「……まぁ、他人事やない。弥生も夜道は気ぃつけぇよ。妙に噂や事件の近くに顔を出すやろ。幕府寄りやと思われて狙われたら、ひとたまりもないで」
「わ、わたしなんか狙ったところで……」
弥生は思わず言い返したが、藤堂は首を振った。
「そう思うんは本人だけや。お前は筆を持っとる。瓦版ひとつで、人を持ち上げることも落とすこともできる。……それだけで、敵をつくるには十分なんや」
その眼差しは、からかいの色をひとつも含んでいなかった。
弥生は返す言葉を失い、膝の上で指をぎゅっと握りしめた。
(藤堂さんも、土方さんも、沖田さんもみんな、うちのこと気にかけてくれる。けど、なんでやろ。ただの町娘やのに。……そんなに危なっかしく見えるんやろか)
「ありがとうございます。気をつけます……でも、私は真実を書きます。嘘を書くのは嫌なんです」
茶碗を握る手に力がこもる。
「もしかしたら、私の瓦版で傷つく人が出るかもしれん。せやからこそ、できるだけ“ほんまのこと”を書きたいんです」
藤堂は黙り込み、意外そうに目を細めた。
「……ふっ。まぁ、弥生らしいな」
(まあ、情報集めるときは嘘ついてしまうけどな)
そのとき、遠くから地鳴りのような叫びと悲鳴。人の群れが川の流れみたいに逆巻いてくる。
道の先に力士崩れと浪人。酒臭さと汗の酸っぱい匂い。刀と棍棒がちらつき、屋台がひっくり返る音が骨の折れる音みたいに響いた。
「……あれはただの喧嘩やないな」平助が眉を寄せる。
「止まれッ!」
一喝とともに現れたのは近藤勇。分厚い胸板で通りを塞ぎ、太い腕で刀を握る。声に押され、一瞬暴徒が足を止めた。
「なにぃ? こっちの人数見て物言えや!」
力士崩れが棍棒を振り上げ、石畳に叩きつける。砕けた破片が飛び散り、町人の悲鳴が夜に響いた。
背後に土方歳三。冷ややかな声が落ちる。
「群れようが同じだ……まとめて斬る」
踏み込んだ刹那、鋭い袈裟懸け。分厚い肩口が裂かれ、力士は呻き倒れた。返す刃も正確で、冷徹なまでに容赦がない。
「くそだらぁ!」
別の力士が横から突進する。
沖田総司が一歩前へ。笑みを浮かべたまま白刃を走らせる。
「よっと」
振り下ろされた棍棒は真っ二つに裂け、男の手から火花とともに弾け飛ぶ。沖田はその勢いで逆袈裟にもう一人を斬り伏せた。
「ほら、そっちも退場」
(……遊んでるみたいやのに、容赦ない)
近藤は正面の巨漢と真正面から組み合った。
「うおおおッ!」
「なめんなぁ!」
ぶつかり合う衝撃で石畳が鳴り、周囲の浪人さえ息をのむ。最後は近藤の咆哮とともに力士が叩き倒され、地面が大きく揺れた。
そして――闇の中から音もなく踏み込む影。
声ひとつなく、突きは稲妻のごとく浪人の胸を正確に貫いた。倒れるまで一息の間もない。血を払う仕草すら淡々としていた。
(……誰や、あの人。人を斬ることを当たり前にしとる眼や)
暴徒の叫びは次第に弱まり、通りに静けさが戻っていった。
「俺の出番はなさそうだな」
藤堂が口をゆるめた。
荒い息と血の匂いがまだ残る中、弥生は胸を押さえたまま藤堂に身を寄せた。
「さっきの剣士……どなたです?」
藤堂は一瞬だけ口をつぐみ、斎藤の背を横目で追った。闇に溶けるように歩き去るその後ろ姿は、仲間ですら声をかけづらい気配をまとっている。
「……斎藤一さん。三番隊の隊長だ」
声をひそめるように続ける。
「突きの速さは京でも知らん者はおらん。闇夜でも迷いなく急所を射抜く。……あれに狙われたら、まず助からん」
弥生はごくりと唾をのんだ。冷気のような感覚がまだ背筋に残っている。
「そんな人が、新選組に……」
藤堂は苦笑した。
「土方さんの信頼も厚い。けどな……あいつは“剣”そのものだ。感情で動くんじゃない。人を斬ることに、一片の迷いも持たない」
その言葉に、弥生の胸はざらついた。名を知ってもなお、得体は知れない。
(斎藤一……まるで刃そのものやな)




