五話 宴の果てに
夜の祇園の路地に、笑い声が響く。行灯の下では浪士が商人を土下座させていた。
「俺を誰と心得る! 新選組、芹沢鴨よ!」
白刃が振り上がり、町人は道の隅へ逃げ込む。商人は震える手で銀子を差し出し、女衆は無理やり酒を飲まされていた。
やがて新選組が揃いの羽織を作るという噂が広がる。
「芹沢が決めたらしい」
「京で一目で震え上がる色にせぇ、てな」
「白地に黒の山形やと。まるで死装束や」
「いや、浅葱色にするんやと。武家の服みたいで威勢がええわ」
その噂を耳にしながら、弥生は心の中で首を傾げる。
(目立つ色……戦なら真っ先に狙われるやろ。守りの衣か、それとも威圧の装い、力を誇るための装い……)
――この浅葱が、のちに自分を震え上がらせる影となるとは、まだ知る由もなかった。
芹沢の名はさらに市中に響き渡る。
島原では芸妓を泣かせ、祇園では茶屋を壊す。物騒な噂は毎日のように帳場へ舞い込んだ。
確かめずにいられず、その夜も遠巻きに後を追う。酒は豪放、毎晩のように飲み歩き。酒癖は悪く暴れ回るが、銭は太っ腹で飲み屋には勘定以上を払い、ときに困った者へばら撒く。
(知れば知るほど、よう分からん人や……)
だが、やがて酔客に絡んだ芹沢が、相撲取りを一太刀。血の匂いと呻きが夜を裂き、町人は蜘蛛の子のように散っていった。
(――これは、書かなあかんな)
――風間屋の帳場。弥生は筆を取り、記事の下書きを考えていた。だが、ふと手を止める。
(それにしても……なんだか違和感がある。この人、二面性があるな。聞く人によって評判もまるで違う。嘘は書けん。瓦版にする前に、もう少し確かめた方がええかもしれん)
翌日。弥生は芹沢が宿泊している八木家の前で張り込みをしていた。
弥生は前回の失敗を思い出し、より奥まった柵の影から息を殺して覗いた。
やがて芹沢が姿を現す。まだ酒が抜けきらぬのか、足取りは重い。
そこで目にしたのは、土方が芹沢に詰め寄る場面だった。
「鴨さん、いい加減にしろ。……度が過ぎるぜ。局中法度に背いてるのが分からねぇのか」
低い声で迫る土方。
「なんだと? 局中法度だと? そんなもん、近藤とお前が勝手に決めた掟だろうが。俺には関係ねぇ」
芹沢は鼻で笑う。
「……あんたが守らなきゃ、下の者にも示しがつかねぇんだ」
土方が一歩踏み込む。
「野良犬の寄せ集めが今さら規則だと? 笑わせるぜ」
「これから新選組を大きくするには要るんだ。鴨さん、頼む……」
土方の声音は鋭くも、必死さがにじむ。
「取り返しがつかねぇことになる前に、自重してくれ」
「うるせぇ!」
芹沢の怒号が飛ぶ。
「自重だと? 誰がここまで新選組をでかくしたと思ってやがる!」
その瞬間――ぱん、と何かが砕ける音が響いた。
(……湯呑みを投げつけたんやろか。やっぱり、噂通りの人なんやろか)
芹沢は怒りを抱えたまま屯所を後にする。
弥生は少し離れてその背を追った。ほどなくして芹沢派の隊士が数人集まり、連れ立って町の飯屋へ入っていく。
「おやっさん、いつもの酒だ!お前らも好きなもん頼めや」
芹沢がどかりと腰を下ろす。
「鯖の塩焼きに麦飯、それから味噌汁を」
「こっちは冷奴を。暑い日にはこれに限る」
「俺は卵焼きもつけてくれ」
次々と注文が飛び交い、膳が並ぶ。香ばしい焼き魚の匂いと、味噌汁の湯気が立ちのぼった。
(……乱暴者ゆうても、子分にはよう奢るんやな)
弥生は湯気の向こうに芹沢の笑顔を見て、少し意外な思いを抱いた。
日が暮れ、芹沢は島原の方へ歩きだした。歩くごとに仲間が合流し、一行は雪だるまのように膨れ上がっていく。やがて島原の大門をくぐり、喧噪の中へと吸い込まれていった。
島原は幕府公認の遊郭。女は遊女や女中を除けば入ることを許されず、逆に遊女たちも郭の外へ出ることは固く禁じられていた。昼も夜も格子に囲われ、ひとたび置屋に身を入れたなら、外の空気を吸うことすら難しい。いわば男たちだけの別天地――。
(ここから先は、入場許可がなければ女は足を踏み入れられへん)
門の外で待つ、時だけがだらだらと流れる。
(……芹沢たち、いつまで飲むつもりや)
やがて酔っ払った芹沢が一人の遊女を伴って現れた。弥生は路地の影に身を隠し、耳をそばだてる。
「今日はここでお別れだ」
「いやです。一緒に連れて行っておくんなまし」
「お前も馬鹿だな。どうなってもしらんぞ」
「このままおっても籠の鳥どす。それやったら、芹沢さまと最後まで一緒にいたいんどす」
(最後まで……どういう意味やろ)
二人は寄り添い、並んで屯所の方へ歩いてゆく。その背はまるで恋仲のように親密で、そのまま何事もなく門の中へ消えた。
(新選組が見廻ってるといっても夜は危ない……今日はもう引き上げよう)
帰り道、浅葱色の羽織をまとった浪士とすれ違った。
(あれが新しい隊服なんやろか……夜でもよう目立つ)
思わず一礼して通り過ぎる。見上げれば、冴え冴えとした満月が京の町を照らし、静けさの底に不穏な影を落としていた。
翌朝、近所の小僧――新吉が駆け込んできた。
「芹沢鴨が斬られたって!」
「な、なんやて……? 昨日の晩、屯所に帰るとこ見たんやで」
弥生は思わず声を上げる。
「せやから、屯所の中で斬られたんやと。犯人はまだ分からんけど、新選組の誰かか、あるいは外の浪士やないかって噂や。芹沢は恨みをぎょうさん買っとったらしいしな」
新吉の言葉に、弥生は息を呑んだ。
「新選組の……誰かが……」
昨日の土方の冷たい言葉が脳裏によみがえる。
(“取り返しのつかないことになる”――あれは、このことやったんか)
「親父、ちょっと出てくる!」
勢いよく飛び出し、屯所へ駆けた。
八木邸の周囲には、すでに野次馬が黒山をつくり、夜明け前の薄明にざわめきが渦を巻いていた。血の匂いがまだ漂っているようで、人々は顔をしかめながら囁き合う。弥生はその中の一人に声をかけた。
「どんな状況なん?」
「芹沢鴨と平山五郎、それに遊女の三人や。寝込みを襲われて斬られたらしい。夜半過ぎやてな。庭先まで血が流れたっちゅう話や」
「遊女も一緒に……?」
「あぁ、けどな、わしは二人の亡骸が運ばれるんを見たけど、遊女が出されたとこは見とらん」
弥生は眉を寄せた。
(おかしい……。遊女だけ裏から運ぶなんてありえへん)
「その話、どこから流れとるんです?」
「新選組のもんが言うてたらしいわ。せやさかい、確かやろ」
(ほんまに“確か”なんやろか……)
そのとき、別の野次馬が口をはさんだ。
「今朝はようけ会津の役人が出入りしとるで。噂はもう錯綜や。外の浪士にやられた言う者もおれば、内輪で始末された言う者もある」
(……まだ、犯人ははっきりしてへんのか)
ふと視線を巡らすと、人垣の向こうに藤堂の姿があった。
「藤堂さん!」
呼び声に一度だけこちらを見たが、すぐに視線をそらして歩を進める。
(無視……ちゃうな、後ろめたい影が顔に出とったな。いずれにせよ、ここで探っても、もう何も出てこんやろ)
弥生は踵を返し、島原へ向かった。昨夜、芹沢と連れ立っていた遊女を探すために。
島原の大門の前に立ち尽くし、しばし考え込む。
(ここには知り合いがおらん……さて、どうしたものか)
迷いながら通りをうろついていると、背後から声がした。
「……何、怪しい動きしてるの?」
振り返れば、買い物帰りの琴音が包みを抱えて不思議そうに見ていた。
「ちょうどええとこ来た! 琴音!」
「なに? なに? めっちゃ怖い言い方するやん」
「ちょっと頼みあんねんけど……島原に知り合いおらへん? 今探してる人いてさ」
「前に大きな宴で呼ばれて島原の揚屋に出たことあるんよ。その縁で知っとる人がおる」
(揚屋……遊女を呼んで座敷を構える場所やったな。島原の客は、大勢で遊ぶときは、みなあそこでどんちゃん騒ぎするんや)
「……え、どないしたん?」
弥生は息を整えながら、事情をかいつまんで話す。琴音の眉がひそめられ、ため息まじりに肩をすくめた。
「はぁ〜……あんたまたややこしいこと首突っ込んでんの? ほんま好きやなあ。ちょっと待っとき」
「ほんま助かるわ! 恩にきる!」
琴音は小さく笑ってから、足早に島原の大門へ向かった。
門口には門番が立っていたが、琴音がひとこと耳打ちすると、男は驚いたように目を丸くし、すぐに道をあけた。
軽く会釈して中へ消えていくその姿に、弥生は息を呑む。
(……ほんまに顔が利くんやな。助かるわ)
残された弥生は、行き交う客のざわめきを背に、胸の奥が妙にざわつくのを覚えた。
(芹沢鴨……乱暴で嫌なとこばっかりやと思うてたのに……ほんまは、違う顔もあるんやろか)
しばらくして、小走りで琴音が戻ってきた。頬は少し上気し、目は生き生きとしている。
「色々聞いてきたで。なかなかおもしろい話やわ」
弥生は歩幅を合わせ、琴音と並んで祇園にある松葉屋への道を戻った。夕暮れの風が二人の袖を揺らす。
「まず、芹沢さんと一緒にいた遊女は“お梅”さんて人やって。もとは親もなくて、若いころ吉原に引き取られたらしい。そんな事情でずっと郭の外へは出られんかったそうや。けど芹沢さんは見受けを考えてて、お梅さんをえらい好いてたみたい。お梅さんも、まんざらでもなかったとか」
(豪胆で酒癖悪いのに……案外、一途なとこもあったんやな。意外や)
「昨日もようけ銭を渡してたって。今までにない額やったらしい。……自分が殺されるのを悟っとったんやないか、て噂や」
琴音の声は軽やかだったが、話の中身は重く、弥生の胸にしこりを残した。
「ということは……お梅さんには会えたん?」
「他の遊女から聞いたんやけど、昨日から姿が見えへんらしい」
「そっか……」
(やっぱり、斬られてしもうたんかもしれん)
「でもな、不思議なことに荷物はきれいに片づけられてて、貴重品は全部なくなってたそうや」
松葉屋に着くころには、空は群青に沈みかけていた。町に灯りがともり、ざわめきが濃さを増すなか、琴音がぽつりとつぶやいた。
「世間がどう言おうと……お梅さんにとっては、芹沢さんはかけがえのない人やったんかもしれへんね」
弥生は足を止め、昨夜ふたりが寄り添って歩く後ろ姿を思い出す。胸の奥に、消えぬ残像のように焼きついていた。
(……でも、最後に見た芹沢と一緒にいたとき、お梅は荷物なんて持ってへんかった。だとすると――)
琴音と別れを告げ、弥生は松葉屋を後にした。もう一度島原に戻って確かめなければならないことがある。




